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🎼Lesson31《 って音》
往々にして、真実というものは単純であることが多い。
仁に必要なものは、自己を確立するための独りよがりな〝完璧〟でも、誰かに委ねた価値観でもない。
奏が最高の状態で弾けるための、最大の愛を詰め込んだピアノなのだ。
奏が何も恐れず、思うままに奏の〝世界〟を表現できるよう、鍵盤一つ一つ、ハンマーの一つ一つで奏を守り包む音を作るだけ。
(目一杯の愛を込めるって……思ったより、っ、大変なんだな……)
微細なズレも許されない。
けれどそれは、〝完璧〟を目指すことじゃない。
仁の愛が、心が、疑う余地もなく奏へまっすぐ届くよう込められた想いだ。
◇
奏は舞台袖で仁が調律する背中を眺めていた。
あのあと、嵐のような仁の両親が去ってからすぐに、ふたりの順番が回ってきた。気持ちを整える間もなくステージへ放り出された仁ではあるが、なかなかに堂々としたものである。
一音一音、仁が鍵盤に指を乗せて音を仕上げていく度に、ふわりと羽根が舞う幻視が現れる。
いつか奏が見つけた、仁の中の隠された小さな宝石が、今では燦然と輝いていた。
仁が調律器具をしまって、舞台袖へと歩いてくる。その表情は、いつもと同じだ。
音楽へ向けられたひたむきな想いと、少しの不安でわずかに強張っている。
いよいよ次は、奏の出番だった。
「奏、お待たせ。完璧じゃないかもしれないけど──」
「待った。俺たちには、完璧なんて必要ないでしょ? 俺はお前のピアノだから弾きたいんだよ。お前の作った世界 に包まれて演奏してる時が一番幸せなんだから!」
仁の言葉を遮って、奏は花開くような笑みを見せた。
一瞬目を瞠った仁は、胸がいっぱいになり、くしゃりと顔を歪める。
仁が差し出した掌の上に、おずおずと重ねられる奏の小さな手。
あの日、あの祭りの日、逃げた仁を想ってどれほど泣いたのだろうか。
どれほど傷ついたのだろうか。
白んでくる空を、どれほどの悲しみで乗り越えたのだろうか。
そして、どういう想いでひとり立ち上がったのだろうか。
今でも自分の卑怯さに吐き気がする。
けれど、自分を憐れんで守ることは、もうしない。
仁はまっすぐ奏の瞳を見つめた。
「俺、目一杯お前への愛を詰め込んだから。……言ってる意味、分かるよな?」
「…………えっ……ぇ、あ、っ、それっ、て……」
一拍遅れて意味を解する奏の喉から、かすれた声が漏れた。奏の瞳が大きく揺れる。何か言おうと戦慄いた唇が、呼ばれる出演番号で閉じた。
こつ、と奏の靴が床を弾く。
繋いだ手を解いてステージの光の中へ向かう奏が、不意に足を止めたかと思えばおもむろに振り返った。
「……見てて、今日はお前のために弾くよ、──仁!」
初めて仁の名前を呼んで笑う奏の周りは眩しいほどの光で溢れていて、目を細める仁には涙で滲んで何色か判別できなかった。
◇
(まったく……本番前の奏者を動揺させるようなのと言うなよな、あいつ…………ふふ、)
ステージから盗み見る舞台袖は、思ったよりも暗い。今までひとりでステージに立ち、ひとりで演奏していた奏にとって、自分を見守ってくれる誰かが居る舞台袖を振り返ることは初めてだった。
ピアノの前に座る。
スポットライトの熱が全身に降り注ぐ。
奏にはもう、怖いものなど何もない。
相変わらず母親とは和解できていないし、世界は悪意の〝かたち〟が蔓延している。ポケットの中にだって、お守り代わりのイヤホンが入っている。
けれど、誰かの〝かたち〟に怯えて世界から背を向ける奏の姿は、もうない。
好きな人が自分のために作ってくれた音を、最大級の愛を込めて会場に届けるだけ。
会場の静寂が心地良い。
仁の見守る気配が、心地良い。
閉じた目を開けて、一つ息を吸う。
左手の和音から始まる極々淡い音。
──クロード・ドビュッシー作曲、《ベルガマス組曲より月の光》。
奏の細い指が鍵盤に乗り撫でると、ハンマーが弦を叩いて音が広がる──その瞬間。
人の声のさざめきが、静かに会場に満ちた。
後に観客たちは口々に語った。
あの日、確かに月光が見えたのだと。
──闇夜の湖畔に滑り落ちる月からの光が、水面を撫でて波紋を広げている。
限りなく透明に近い青い光が、揺れる。
会場からは知らず知らず、啜り泣きが漏れていた。舞台袖から見守っていた仁の瞳からも、涙が一筋、頬を伝っている。
「は、はは……何だこれ、すげ……これが、この景色が……奏の見てたもの? 俺たちが作った〝音〟……俺たちだけの……っ」
呟く仁の胸に熱いものが広がる。
ふたりの音が重なって溶けて混ざりあう──そして、〝心〟が共鳴しあうのだ。
◇
奏の指が鍵盤から離れても幻視は数秒続き、会場は静まり返っていた。
やり切った奏が現実に引き戻され、何もリアクションのない会場に不安を覚えて顔を向けた頃、湧き上がるような歓声が一気に会場を包んだ。
どっ、どっ、と全身に響く心臓の音。
額に滲む汗、火照る頬。
居ても立っても居られなくなった奏はぎこちなくお辞儀をする。そして辛うじて走り出すことはないものの、舞台袖で顔をくしゃくしゃにして泣き笑いしてる仁の腕の中に飛び込んでいった。
「仁! 仁、視てた!? 聞こえてた!? お前のこと、愛してるって音!」
「……っ……ああ…! すげえ……ッ……視えてた……!」
興奮気味に伝えてくる奏の熱い体を強く抱き締めた。そうして、仁が耳元で囁く。
「俺も、愛してる──」
拍手は鳴り止まず、ふたりを包み込んでいた。
🎼Lesson31《愛してるって音》
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