38 / 40

🎼Extra Lesson《君を見つけた日4》

 けたたましく蝉が鳴く音も、仁にとっては無色だった少年の頃。  母親が特別審査員として参加したピアノコンクールに連れられて行った仁は、あまりのつまらなさに辟易していた。 (帰りたい……帰って父さんに「ちょうりつ」教えてもらいたい。夏休みの宿題もまだ終わってないしアサガオに水あげ忘れたし……)  自分と同年代の子供たちが懸命にピアノに向かっている姿を、ホールの一番後ろに座って眺める。ぶらぶらと揺れる足先、窮屈な子供用のスーツ、凡庸な音楽。すべてに嫌気がさしていた。 (暗いし一番後ろだし寝ててもバレないか……)  完璧に整えられた空調は幼い仁の眠気を誘う。少しくらいなら、と目を閉じかけた、その時。  次の奏者が鍵盤に指を乗せたあとの一音に、仁の眠気は遥か彼方へ吹き飛んだ。  自分より小さな体、揺れる黒髪、真摯な眼差し──そしてホールいっぱいに満たされる、透き通った音。  いつの間にか少年・仁は立ち上がって前のめりになっていた。今の今まで、この世で一番ピアノが上手なのは母親だと思っていた。  けれど、違った。そうじゃなかったんだ。 「すごい……!」  仁の声を咎める者は居なかった。  小さな体を折り曲げて頭を下げる奏者へ、惜しみない拍手が送られた。 ◇  納得いかない!と母親へ抗議していた仁が控え室を飛び出して十分。  エントランスでは様々な感情が入り乱れていた。入賞を逃して泣く子供、賞状を手に記念撮影してる子供──その中で仁は必死になってあの男の子を探した。 (絶対おかしい! 絶対、絶対、あの子が一番だった! ママもおじさんも変だ!)  コンクールの結果発表に仁は子供ながら愕然とした。そして母親とその友人である大学の助教授という男性、ふたりの審査員に猛抗議したのだ。短い眉を精一杯持ち上げて怒っているのだとアピールする仁に、ふたりは顔を見合わせ困ったように笑っていた。 (子供らしくないからダメなんて意味わかんない! あの子が一番上手だったもん!)  まだ怒りは冷めやらない。  成長した仁ならば母親の言わんとするところも理解はできる。子供の紡ぐ音楽に、大人の意思が介入しすぎてはだめなのだ。  けれど幼い仁にとっては、ただの理不尽な言い分だった。 (すごかったよって言わなきゃ! きみが一番だったよって!)  そんなわけで少年・仁は、同い年の男の子を探しに控え室を飛び出したわけだが──如何せん、人が多すぎる。挫けそうな心を奮い立たせ、角を曲がりかけた瞬間。 「お母さんがどれほど恥ずかしかったか、分かる?」  全身に氷水をかけられたかのような冷たい声。同時に何度か紙を裂く音がした。  ごめんなさい、と小さく呟く少年の声に被せて、女性の声が少年を静かに責め続ける。  息を吸えば肺の中まで凍てつきそうな冷ややかな声に、仁は咄嗟に隠れて口元を両手で覆った。  女性が何か言うたびに少年は「はい」と「ごめんなさい」を繰り返す。仁がちらりと覗き見すると、その足下には「第」と「二」と「位」と書かれた紙片が捨てられていた。  どれほど経っただろうか、女性が「お母さんをあまり失望させないで」と切り捨てるとともに、ヒールが床を(はじ)く音が遠ざかっていった。  仁の大きな瞳からはボロボロと涙が溢れている。腰が抜けたかのようにその場に蹲り、衝撃的な出来事を信じられないとばかり反芻していた。悔しくて悲しくて怖くて、全身から汗が吹き出る。と、そのとき。 「ね、きみ……大丈夫? 転んじゃった?」  さっきまでの固い声とは正反対のふんわりとした少年の声が落ちてきた。風鈴のように軽やかで涼やかで、少し寂しい声だった。  覗き込む大きな丸い瞳は、仁を心から心配している。  自分の方が悲しいくせに。傷付いているくせに──どうしてそんなに優しく頭を撫でるのか。仁の涙は留まることを知らず、更にぶわりと溢れ出した。 「わ!? そんなに泣いたら目が溶けちゃうよ……! 大丈夫だよ、いいこ……悲しいことがあったの?」 「ちがう! 悲しくない! 悲しいのはきみの方なのに……っ……あんなにひどいこと言われて! なんで……ッ!」  ついにしゃくり上げて泣き始める仁に、少年は一瞬の動揺のあと強張った笑みを見せる。 「…………僕は大丈夫」 「大丈夫じゃないもん! だってきみが一番上手だった! きみの音が一番ぴかぴかしてた!」  癇癪を起こす仁に少年は目を丸くした。そしてすぐにくしゃりと崩れたその顔は、泣いているのか笑っているのか──ともかく変に大人びた表情より、ずっと仁の胸を貫いた。 「っ……きめた! ぼく、『ちょうりつし』になる! きみが笑ってぴかぴかのピアノを弾けるように、ぼくがきみのピアノを『ちょうりつ』する!」  だから泣かないで、と仁は小さな体で必死になって少年を抱き締める。悲しいとき、寂しいとき、抱き締めてくれる家族が傍に居る仁は傷付いた心を和らげる方法をこれしか知らないのだ。 「……な、いて……ないよ……っ」 「じゃあ泣いていいよ! おとこでも泣いていいんだって兄ちゃんが言ってた!」 「……ふふ、変なの。でも……ありがとう」  得意げな仁の言い方に泣きそうだった少年の顔が、ふにゃり、と柔らかく崩れる。  その愛らしさに、少年・仁は思わず真っ赤になったのだった。

ともだちにシェアしよう!