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第5話:本を閉じたその先に

 窓の外をウミネコが飛んでいる。  よく通る鳴き声に目を覚ましたルイスは、広いベッドの上で身を起こし、窓へと視線を向けた。  朝の澄んだ青空に、今日もよく晴れそうだと目を細める。  元々病弱気味のルイスは、普段から体調の悪さで目を覚ますことさえ珍しくなかったが、今日の目覚めは随分と気分が良い。  天気も体調も良く、何よりも今日はとても楽しみな約束がある。  ルイスは気力に満ちていた。  夜着を着替え、ベッドを整える。  リネンを剥いで一階の洗濯室へ運んだルイスは、今日という一日をどうやって過ごすかを考え始めた。  レオニアスに昨日の礼をするには、何を用意すればいいのだろう。  夕暮れの時間に会えるといっても、陽が落ちる前に見送ることを考えるとそう長い時間はいられないだろう。  迷惑にならず、感謝の気持ちを伝えられるもの。  敷地から出られず、常識を知らないルイスにとって失礼に当たらない感謝の範囲が分からない。  さらには、既製品を購入して渡すだけの礼はルイスの気が進まなかった。  ヴァレンタイン家がここを避暑地として利用していた頃に使われていた図書室には、いくつかの趣味本や教本がある。  マナー本を探そうと思っていたけれど、ゆっくりと礼を考える余裕はないように思えた。  今日の夕方までに可能なものとなると、菓子作りになるだろうか。  厨房に向かい、材料を確認する。  ついでに朝食がてらトマトとチーズを切り、パンに乗せて簡単に済ませてしまう。  屋敷に通う使用人と、ルイスは出来るだけ顔を合わせない関係を築いている。  私室の整頓や食事はルイスが自分で済ませて、連絡ごとはメモを介してやり取りを交わす。  ルイスと使用人は、お互いの声もほとんど聞いたことがない。  メモには午後から厨房を使う旨を記し、今日は早めに帰ってもらうように頼む。  サロンに行くと、テラスに続くガラス扉を開いて砂浜へ目を向ける。  少しずつ潮が引きはじめているのがわかり、やがて陸と屋敷をつなぐ石道も通れるようになるだろう。  花瓶を重しにメモを置く。  使用人が帰るまではいつもなら寝室へひきこもってしまうが、今日ばかりはじっとしている気分ではない。  ルイスは図書室で今日に役立つ本が無いか探すため、二階へと戻った。  図書室へと足を踏み入れる。  少し埃っぽく、乾燥した本の匂いはルイスにとって安心できる静けさがある。  ここにあるのは、ルイスが暮らすようになるより以前、避暑やバカンスに使われてた頃に持ち込まれた、もう存在も忘れられているような流行の過ぎ去った物語やさまざまな教本や図鑑だ。  この屋敷に、ルイスが心地よく過ごせるようにと用意されたものはない。  服や、食料や、生活するための必需品だけは手厚く用意されるが、それは優しさや誠実さではなかった。  ルイスは両親から無視され、兄弟と遊んだこともなく、ただ一人で世間の目から隠されるように、この別邸へと追いやられたにすぎない。  その理由が、生まれ持っての髪と瞳の色のせいであっても、そういうものだろうと理解している。  けれど、今日は初めてもっと色々と経験しておきたかった、とルイスは感じている。  昨日もそうだった。  人と会話した経験がほとんどなくて、うまく受け答えすることもできない。  外で兄弟が遊ぶ声、窓越しに聞こえる家庭教師の授業、使用人達の噂話。  言葉や文字は耳や目で覚えられても、自ら話すのは勝手が違った。  頭の中に浮かぶものの形をとらえて、声に出すことは簡単に出来ることではない。  自分の感情を振り返っても、喜びなのか、感謝なのか、申し訳なさなのか分からない。  思い返せば、ほんのひと時の会話だった。  目を覚ましてからレオニアスを見送るまで、夕焼けが夜になるよりも短い間しかなかった。  それなのに、そのひと時はルイスの人生で一番まっすぐ見つめられた時間だった。  ルイスは一冊の本を取り出しながら、ふと口元が無意識に綻んでいるのに気付いた。  自然と笑みが浮かぶということが何だかくすぐったくて、逆に笑みは深まっていく。  一人ではにかみながらページを捲り、焼き菓子のレシピを探す。  パイ、クッキー、ビスコッティ。  摘めるものの方が気楽に食べてもらえるだろうか。  手作りなんて迷惑ではないか。  甘いものが苦手だったりしないか……。  作った事のあるレシピを選ぶ端から心配が勝り、決めかねてしまう。  ページを行きつ戻りつ、やっと指がクッキーサレのレシピの上で止まった。  時間ならあるのだから、甘いものとそうでないものを両方作れば、どちらかは好みに合うかもしれない。  ルイスは午後から作るものをビスコッティとクッキーサレに決め、栞を挟む。  かなり時間が経っただろうか。窓の外を覗いて、太陽の位置を確認する。  思っていたよりも太陽はまだ低く、昼にはずいぶん遠い。  体感よりも時間が進んでいないことに首を傾げる。  早く約束の夕暮れが来て欲しいと思っているせいだろうか、それも初めての経験だった。 「……待ち遠しい、ってこういうことなのかな」  この図書室にあった物語で目にした単語を、実感を伴って理解した。

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