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第6話:広がり始めた世界

 時の経つのが遅い、と今日ほど強く思ったことはないかもしれない。  そして、時が経つのがあっという間だ、と思ったことも初めてだった。  太陽が中天を過ぎる頃、正面玄関の扉が閉まる音が聞こえた。  使用人が要望通り午前で仕事を終わらせて帰っていったのだろう。  ルイスは全然集中できなかった読書をやめ、図書室の扉をそっと開いて廊下へと耳を澄ます。  物音ひとつ聞こえてこないことを確認して、レシピ本を手に一階へと降りた。  朝に使用人へ残したメモの余白に、洗濯物がまだ乾いていないため取り込めていないという旨の書き置きが足されている。  きっと洗濯をしてしまってからこのメモに気付いたのだろう。  ここ2年ほど勤めている使用人がルイスの見た目などを知っているのかは分からないが、姿を見せない家主が居る屋敷の家事をしたり、メモで指示だけされるのは気味が悪いだろうな、とルイスは自覚している。  それでも、この姿を見て眉間にシワを寄せ目を逸らす姿を目の当たりにするよりもお互いにマシだろう、とも思う。  ルイスの自己評価は低いのではなく、生まれてこの方育つきっかけがないまま心身だけが成長した結果であり、その思考の中に悲壮感はない。  この屋敷に誰もいなくなると、ようやく緊張を解いてルイスは厨房へ向かう。  図書室から持ち出したレシピ本を開き、ページが閉じないようスパイスの小瓶を重石にして調理台の端へ置いた。  必要な材料を準備し、予定通りに甘いビスコッティと塩気やハーブの効いたクッキーサレを作りはじめる。  本で得た知識では、日常的に貴族が自ら料理をしたり部屋を整えたりすることはとんでもない事らしい。  けれど、誰かへ頼み事をする負担よりも、自分で試行錯誤しながら作ってみる方がルイスにとって精神的に楽だった。  それに、貴族の振る舞いなど教わってもいなければ、注意をする者もいない。  ルイスは恵まれていると思っている。  衣食住に困ることなく、閉じられた世界の中であればしたいことをしていい、という自由だけはあるのだから。    菓子作りは順調に進んでいく。  失敗も試行錯誤も繰り返してきて、今では満足のいくものが出来ているとルイスにしては自信をもって言える。  ナッツを砕き、生地に練り込んでオーブンへ運ぶ。  甘いビスコッティが焼けるまでの間に、もうひとつの生地も準備していく。  こちらの生地には砂糖は控えめに、スパイスやハーブ、塩を混ぜる。  やがて厨房には甘く香ばしい匂いと共に、オーブンの熱が広がりはじめて暑さを感じる。  ふと、ルイスは自分の両手を見下ろしてゆっくりと拳を握っては開く。  思い返せば昨日の夜からだろうか、随分と体が軽く、また気分がいい。  これまで生きてきた16年間の中で、ルイスは体調がいいと感じた経験がほとんどなかった。  体温は低く、いつも手足は冷えていたし、真夏でもないのに「暑い」なんて感じた事もほとんどない。  頭痛も貧血も眩暈も、当たり前に身近な存在だった。  それが今日は指先は温かく、朝からずっと起きているのに体のだるさもない。  自分に起きた変化といえば、心当たりは昨日の出来事しかない。  人間は楽しいことがあると、活力が湧いてくるものだと本に書かれていた。  あれは物語の中だけの話ではなかったということだろうか。  食欲があったり、調べ物や料理をしようと思ったり、精神的にもこれまでの自分にはなかった部分がある。  ルイスは、昨日から起こり始めている自分自身の変化に戸惑いながらも、決して悪い気はしなかった。  何をするにも、いつもよりも体が動く。  厨房の窓を開ければ、オーブンの熱気が外へ逃げていく。  風に髪が靡き、頸を撫でる涼しさにルイスは一度目を閉じる。  じきにビスコッティの一度目の焼成が出来上がる。  スライスして、二度焼きをする間に寝かせているクッキーサレの生地も馴染むだろう。  これまで、自分の嗜好品程度の意味しかなかった菓子作りが、レオニアスへの礼になればいいと心から願う。  自分の行動が人に関わる、という感覚も初めてだった。  あれほど待ち遠しかった夕方が、今は少しだけ緊張感を伴ってルイスの背にのしかかる。  焼き菓子の匂いと潮風、差し込む太陽の日差しはいつの間にか影を長く伸ばし始めている。  傾き出した太陽は、いつもと変わらず静かに、とても強い光を放つ。  そのインパクトのあるイメージは、レオニアスに似ていると感じた。  

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