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第3話 うなぎと夏バテ
「伊織」
「はい」
「朝から、少し静かだな」
「通常通りです」
「通常より、返事が短い」
「暑いので」
「夏バテか」
「違います」
榊伊織は、咲霧宗春の部屋の隅で、きちんと背筋を伸ばしていた。
伸ばしている。
伸ばしているつもりだった。
だが、宗春の目はごまかせない。
昨日までより、伊織の声はわずかに細い。
立っている姿勢も正しいが、いつもより肩に力がない。
初夏の江戸は、朝から湿った熱を含んでいた。
廊下の向こうでは、下男たちが水桶を運んでいる。
庭の木陰にも、涼しさは薄い。
「伊織」
「はい」
「膝に来るか」
「なぜ、その結論になるのです」
「倒れる前に支える」
「倒れません」
「なら、倒れないうちに甘やかす」
「なお意味が分かりません」
宗春が手を伸ばす。
伊織は一歩下がった。
宗春はその一歩を見て、わざとらしく寂しそうにする。
「遠い」
「適切です」
「暑いから近づきたくない?」
「殿は、なぜそういう聞き方をなさるのですか」
「伊織が可愛い反応をするから」
「評価は不要です」
障子の外から、景継の咳払いがした。
「殿。榊殿を朝からからかう前に、本日の用向きを」
「暑いな、景継」
「暑うございます」
「伊織が夏バテだ」
「違います」
伊織はすぐに否定した。
景継が入ってくる。
景継の視線は、伊織の顔色だけを見ているのではなかった。
榊伊織。
その名で咲霧の屋敷へ入った小姓は、普通の口入れで来た者ではない。
幕府の老中の一人である石堂主膳の筋から、短い書付ひとつで預けられた。
身元は薄い。
だが、礼法は整いすぎている。
筆も、言葉も、町人の子にしては静かに過ぎる。
それでいて、伊織自身は自分をただの小姓だと言い張る。
景継は、それをそのまま信じるほど甘くはなかった。
直澄もまた、咲霧の帳面を預かる者として、伊織が何を見て、何を聞き、何に触れようとしないかを記していた。
鳴瀬山のこと。
鉄の流れ。
霧川筋の荷。
それらへ不用意に近づく者なら、警戒しなければならない。
鉄こそ、まさに咲霧藩の生命線。
幕府から探りが来るのであれば、これをおいてない。
伊織が幕府の間者ではないのか。
小姓を隠れみのとして探りに入ったのではないか。
景継はもとより、直澄も警戒を怠らない。
当然、宗春とて、そういった屋敷内の空気を知った上で伊織に接している。
けれど伊織が気にするのは、いつも少し違っていた。
景継は、ため息をひとつつき、伊織から宗春に目を移す。
「本日は、江戸城での詰めは短く済みます。戻られてから、霧川筋の魚問屋と会う予定がございます」
「魚問屋?」
宗春が少し楽しげになる。
「うなぎか」
「魚問屋でございます」
「うなぎだな」
「殿」
「伊織、うなぎは食べたことがあるか」
伊織は一瞬黙った。
「ありません」
宗春の目が輝いた。
「決まりだ」
「何がですか」
「食いに行く」
「政務では」
「夏バテには滋養が要る」
「夏バテではありません」
「では、倒れぬための先手」
景継が口を挟む。
「殿。霧川筋の話は、荷の流れと江戸への納めに関わります。遊びではございません」
「分かっている」
宗春はあっさり言った。
「だから伊織も連れて行く」
「なぜ」
「飯の話になる」
伊織は反論しようとして、少しだけ黙った。
飯。
その言葉には弱い。
自分の飯ではない。
働く者の飯。
怪我人の手当。
子どもの手。
帳面の奥で削られやすいもの。
宗春はそれを知っている。
「……お邪魔でなければ」
「邪魔ではない」
景継はまだ不満そうだったが、強く止めなかった。
直澄が静かに言う。
「霧川筋では、川魚と荷運びの者の暑気あたりが増えているそうです。飯代と薬代の扱いも聞く必要があります」
伊織の目がわずかに動く。
宗春がそれを拾った。
「ほら。伊織の仕事だ」
「私は小姓です」
「小姓は俺のそばにいる」
「それは、殿の解釈が広すぎます」
「便利だろう」
宗春が言いかけた瞬間、伊織がぴたりと止めた。
「その言い方は、おやめください」
宗春は一瞬だけ目を瞬かせ、それから笑った。
「では、都合がいい」
「それも近いです」
「俺がそうしたい」
「それなら、まだ」
景継が眉間を押さえた。
「殿。言葉遊びは道中でお願いいたします」
****
昼前。
江戸城から戻った宗春は、暑いと一言だけ言い、すぐに伊織を連れて町へ出た。
直澄が同行する。
景継は屋敷に残り、国元からの書状と格闘することになった。
霧川筋のうなぎ屋は、川に近い細い通りにあった。
店先では煙が上がり、甘辛い匂いが風に流れている。
伊織はその匂いに、思わず足を止めた。
宗春がすぐ隣で言う。
「食べたい?」
「確認が早いです」
「足が止まった」
「煙を確認しただけです」
「匂いは?」
「……強いです」
「美味そう、だろう」
伊織はしばらく黙った。
「……はい」
直澄が筆を取りかけて、やめた。
宗春が笑う。
「直澄、今のは書いていい」
「控えます」
「なぜ」
「榊殿に止められる前に控えます」
伊織は小さく頷いた。
「賢明です」
店の奥から、丸い背をした老人が出てきた。
白い髭。
細い目。
笑っているのか、寝ているのか分からない表情。
「おお、若いのが来た」
宗春が気安く手を上げる。
「亀爺」
伊織はその呼び方に引っかかった。
町のうなぎ屋の隠居に、殿がずいぶん親しい。
しかし、伊織は何も尋ねない。
亀爺は伊織を見て、にやりと笑った。
「ほう。これが噂の小姓殿か」
「何の噂ですか」
伊織がすぐ問う。
亀爺はさらに笑った。
「殿の膝を温めるとか、温めないとか」
伊織は固まった。
宗春は笑う。
伊織は静かに言った。
「その噂は、根も葉もありません」
宗春が横から言う。
「根はある」
「殿」
「葉も少し」
「殿」
亀爺は腹を揺らして笑った。
「元気でよい。だが、少し白いな。飯を食え、飯を」
「体調に問題は」
「若い者はすぐそう言う。暑い時は、食えるうちに食うんだ」
亀爺は店の奥へ顎をしゃくる。
「今日はいいのが入った。霧川の身が太い」
伊織の目がほんの少しだけ動いた。
宗春が拾う。
「太いらしい」
「殿、魚の話です」
「俺も魚の話をしている」
「本当ですか」
「本当だ」
直澄が咳払いをした。
「亀爺殿。川筋の荷運びの者が暑気あたりを起こしている件ですが」
「おお、それよ」
亀爺は笑みを薄めた。
「近頃、荷が重い。魚だけではない。鉄具も木材も、川へ回るものが増えている。若い衆が飯を削って働くから、倒れる」
伊織は自然と口を開いた。
「飯を削るのですか」
「暑いと食えんと言う。だが、食わねば動けん」
「塩は」
亀爺の目が細くなる。
「ほう」
伊織は気づいて、少しだけ身を引いた。
「失礼しました」
「いや、続けろ」
宗春が言う。
伊織は一礼し、短く続けた。
「汗をかくなら、飯だけでなく塩が要ります。水だけではかえって弱ります。梅干し、味噌、塩を混ぜた握り飯を荷場へ置けば、少しは違うかと」
亀爺は直澄を見た。
直澄は静かに頷く。
「飯代に組み込めます。薬代を出すより安い」
宗春が言う。
「では、それで」
伊織は慌てた。
「殿、私はただ」
「ただ?」
「思いつきを」
「人が倒れる前の思いつきは、だいたい役に立つ」
亀爺が楽しそうに笑った。
「よい小姓だ。うなぎを食わせろ」
伊織は抵抗する間もなく、座敷へ通された。
うなぎが運ばれてくる。
白い飯の上に、照りのある蒲焼き。
湯気。
香ばしい匂い。
伊織は箸を持ったまま、しばらく動けなかった。
宗春が隣で囁く。
「食べ方が分からない?」
「分かります」
「ではどうぞ」
伊織は小さく切ろうとした。
蒲焼きが思ったより柔らかく、箸で崩れる。
「……っ」
宗春が笑いをこらえる。
「可愛い」
「言わないでください」
「身が柔らかいな」
「うなぎの話です」
「うん」
「なぜこちらを向くのですか」
「向いていない」
「向いています」
宗春は自分の箸で、蒲焼きを一切れ取った。
「伊織」
「自分で食べられます」
「初うなぎだろう」
「だから何です」
「記念」
「何でも記念になさる」
「口を開けて」
「またですか」
「団子では開けた」
「店が違います」
「口は同じだ」
伊織の頬が赤くなる。
「言い方が悪いです」
亀爺が楽しそうに見ている。
直澄は遠くを見るようにしている。
伊織は、ここで抵抗する方が余計に目立つと悟った。
「……一口だけです」
宗春がうなぎを運ぶ。
伊織は目を伏せ、口を開いた。
柔らかい。
香ばしい。
甘辛い。
そして、思ったよりずっと濃い。
伊織はゆっくり飲み込んだ。
宗春が問う。
「美味い?」
「……はい」
「滋養がつきそう?」
「はい」
「では夜も」
伊織の箸が止まった。
「夜も、とは」
「滋養」
「食事の話ですか」
「最初は」
「殿」
亀爺が大きく笑った。
「若いのはよいのう」
「亀爺殿」
伊織が低く言う。
亀爺は笑いながら茶を注いだ。
「怖い怖い。殿、あまりからかうな。初うなぎが喉につかえる」
宗春は伊織の背を軽く撫でた。
「なら、ゆっくり食べろ」
その手が、ただ労わるだけだったので、伊織は一瞬、文句を言い損ねた。
****
帰り道。
伊織は明らかに少し元気になっていた。
本人は認めない。
「足取りが戻った」
「通常通りです」
「朝より声がある」
「うなぎの効果でしょう」
「よかった」
宗春があまりに素直に言うので、伊織は返事に詰まった。
直澄は少し後ろを歩きながら、二人のやりとりを聞いていた。
伊織は今日も、鳴瀬山の場所を尋ねなかった。
鉄の流れを探ろうともしなかった。
聞いたのは、荷運びの者の飯と塩と、倒れる前の手当だった。
直澄はそのことを、景継にどう伝えるか考えた。
帳面に書けることは少ない。
だが、書かない方が伝わることもある。
****
夜。
宗春の部屋には、昼とは違う静けさがあった。
伊織は膳に置かれた小さな包みを見て、足を止める。
「殿」
「うん」
「また、持ち帰りましたね」
「うなぎだ」
「見れば分かります」
「夜用」
「その言い方は、昨日からよくありません」
「昨日は団子」
「今日はうなぎ」
「滋養が続く」
伊織は深く息を吐いた。
「殿」
「何」
「滋養は、食べて得るものです」
「うん」
「それ以外の意味に広げないでください」
「伊織は、今日も想像が豊かだな」
「殿の間が悪いのです」
宗春は笑い、包みを開いた。
蒲焼きの小さな切れ端。
香ばしい匂いが、灯の下に広がる。
「食べる?」
「夜に重いものは」
「一口だけ」
「昨日も聞きました」
「今日はうなぎ」
「品を変えればよいと思っておられますね」
「伊織が品ごとに違う反応をするから」
「観察しないでください」
「無理だ」
宗春は小さな一切れを口にした。
それから、伊織へ近づく。
「甘辛い」
「そうでしょうね」
「確かめる?」
「自分で食べます」
「昨日と同じ返しだ」
「殿が同じことをなさるからです」
「では、違うことをする」
宗春の手が、伊織の腰へ回る。
伊織が息を止める。
「殿」
「今日は寝かせる」
「寝るには早いです」
「休ませる」
「それなら」
「布団へ」
「話が飛びました」
宗春は伊織を抱き寄せ、布団へゆっくり沈めた。
団子の時のように膝で甘やかすのではない。
今日は、熱を逃がさないように体ごと包む。
伊織の足がわずかに動く。
宗春はその足首へ手を添えた。
「逃げない」
「逃げておりません」
「では、捕まえておく」
「理屈が通っていません」
宗春の手が、伊織の足を布団の内へ戻す。
「昼、うなぎを食べた時」
「はい」
「目が丸かった」
「なっておりません」
「柔らかくて驚いた?」
「……少し」
「太かったな」
伊織はすぐに宗春を睨んだ。
「魚の話です」
「俺も魚の話だ」
「本当ですか」
「本当だ」
「なら、なぜこちらへ近づくのです」
「夜だから」
「理由になっておりません」
宗春は伊織の帯をほどきながら、低く笑った。
「昼は食べさせた」
「はい」
「夜は、伊織に滋養をやる」
「だから、その言い方が」
「嫌?」
伊織は口を閉じた。
宗春はそこで止まる。
本当に止まる。
だから伊織は、いつも逃げ場のないところで自分の言葉を求められる。
「……嫌では、ありません」
「なら、続ける」
「確認が早いです」
「伊織の返事が欲しい」
伊織は宗春の袖を掴んだ。
「続けてください」
宗春の息が熱を帯びる。
「よく言えた」
「褒めないでください」
「無理だ」
宗春は伊織を布団へ沈め、腰を下から支えた。
昼の川風とは違う熱が、肌の近くに満ちる。
宗春の手が伊織の足を捕まえ、ゆっくり開かせる。
「殿」
「うん」
「これは、休ませる体勢では」
「ないな」
「認めないでください」
「滋養の体勢だ」
「意味が分かりません」
「すぐ分かる」
宗春は伊織の腰を支え、熱を逃げ場のない奥へと潜り込ませる。
繋がった瞬間、伊織の指が布団を掴む。
「っ、あ……っ♡」
宗春の腕が、伊織の腰を下からすくう。
伊織の体が、少し浮くように抱えられた。
「大丈夫か」
「大丈夫、です……っ」
「柔らかい」
「何の話ですか……っ」
「伊織」
「うなぎでは……ありません……っ」
「自分で言った」
伊織の耳まで赤くなった。
「違います……っ、殿が、そういう流れに……っ」
宗春がゆっくり腰を動かす。
布団に沈んだ伊織の体が、下から支えられたまま擦れる。
奥へ潜るような熱に、伊織の息が乱れた。
「っ、あんっ♡」
「今日の伊織は、よく声が出る」
「うなぎの……せいです……っ」
「滋養が効いた?」
「違……っ、あっ♡」
宗春が下から深く突き上げる。
伊織の足が宗春の腕に絡みかけ、すぐに戻ろうとする。
宗春はその動きを逃さず、膝裏を支えた。
「絡めていい」
「絡めていません……っ」
「絡みかけた」
「違います……っ」
「伊織」
「はい……っ」
「昼、太いと言った時に反応した」
「しておりません」
「した」
「魚の話です……っ」
「夜は?」
伊織の声が詰まる。
宗春は待つ代わりに、ゆっくり奥まで届くように突き上げた。
「っ、あっ♡ 待って……っ」
「夜は何の話?」
「聞かないで……っ」
「聞く」
「意地悪です……っ」
「うん」
「認めないで……っ、あんっ♡」
宗春は伊織の腰をすくうように抱え、深さを変えた。
伊織の体が布団の上で跳ねる。
「そこ……っ、だめ……っ」
「どこ?」
「言わせないで……っ」
「奥?」
「っ、あ……っ♡」
伊織は声で答えてしまった。
宗春の目元が甘く熱くなる。
「当たりだ」
「違います……っ」
「奥が好き?」
「違……っ、あんっ♡、違いません……っ」
言ってから、伊織は自分の言葉に固まった。
宗春が低く笑う。
「伊織」
「今のは、違います」
「違わないと言った」
「混乱していただけです」
「もっと混乱させるか」
「させないで……っ」
宗春は伊織の膝裏を支えたまま、さらに深く突き上げた。
伊織の背が布団から少し浮く。
「っ、あっ♡ 宗春さま……っ」
「うん」
「深い……っ」
「うなぎより?」
「比べないで……っ」
「昼より元気だ」
「殿のせいです……っ」
「滋養がついたからだ」
「違います……っ、殿が……っ、奥まで……っ」
伊織はそこで口を押さえようとした。
宗春がその手を取り、布団へ押さえる。
強くではない。
ただ、逃げられないように。
「言えたな」
「忘れてください……っ」
「無理だ」
「殿……っ」
「普通がいいか」
伊織は息を詰めた。
昼のうなぎを食べながら、亀爺に「太い」と言われて慌てた記憶が蘇る。
宗春はそれを分かっていて言っている。
「普通とは、何の」
「今の深さ」
「答えません……っ」
「では、もっと深くする」
「普通で……っ」
伊織は思わず言った。
宗春の動きが止まる。
伊織も止まる。
灯の音だけが聞こえる。
「伊織」
「今のは」
「普通がいい?」
「違います」
「普通でいい?」
「違……っ」
宗春が少しだけ動く。
伊織の声が崩れた。
「普通が……いいです……っ♡」
宗春は伊織の手を握った。
「分かった。伊織の普通にする」
「殿の普通は……信用できません……っ」
「俺の普通は、伊織を甘やかすことだ」
「甘やかしでは……っ、あっ♡」
宗春の腰が、今度は一定の深さで、じわじわと伊織を追い詰める。
荒くない。
だが、逃がさない。
布団へ沈められたまま、腰を下から支えられ、奥を何度も擦られる。
伊織は声を抑えきれなくなった。
「宗春さま……っ」
「うん」
「もう……っ」
「終わる?」
伊織の指が宗春の手を掴んだ。
「終わ……っ」
言いかけて、止まる。
宗春が甘く問う。
「終わってほしい?」
伊織は目を伏せ、悔しそうに唇を噛んだ。
「……もう、終わりですか」
宗春の息がはっきり乱れた。
伊織は自分の言葉に気づいた。
「違います」
「今のは」
「違います」
「伊織」
「確認しただけです」
「続けてほしい?」
「違……っ、あっ♡」
宗春が深く突き上げる。
伊織の答えが声に変わる。
「続けて……っ」
「うん」
「いじわるしないで……っ」
「していない」
「しています……っ」
「では、やさしく続ける」
「それも……っ、ずるい……っ」
宗春は伊織の足を抱え込み、体を布団の奥へ沈めるように抱いた。
熱が逃げない。
息も逃げない。
伊織は宗春の首元へ手を伸ばし、すがった。
「宗春さま……っ」
「いる」
「もう……っ、普通じゃ……っ」
「普通がいいんだろう」
「それは……っ、あんっ♡」
「伊織の普通は、可愛いな」
「言わないで……っ」
「もっと欲しい?」
伊織は首を振ろうとした。
だが、体は宗春へ寄ってしまう。
「……欲しい、です……っ」
宗春の腕が強くなる。
「よく言えた」
「もう……っ、無理……っ」
「来る?」
「聞かないで……っ」
「伊織」
「宗春さま……っ」
「うん」
「奥まで……っ、もう、だめ……っ」
「うん」
「いって、しま……っ、あっ♡♡」
伊織の声が、布団の中で甘くほどけた。
宗春はすぐには茶化さなかった。
川の流れが落ち着くのを待つように、伊織の腰を支えたまま抱いていた。
伊織は荒く息をし、宗春の肩へ額を寄せる。
汗で乱れた髪が、灯にきらめく。
「……殿」
「うん」
「今夜のことは」
「うん」
「うなぎのせいです」
宗春はゆっくり伊織の背を撫でた。
「そうか」
「はい」
「滋養が効きすぎた」
「はい」
「普通がよかった」
伊織の指が宗春の袖を掴む。
「それは忘れてください」
「無理だ」
「では、せめて」
「何」
「……いじわるしないでください」
宗春は低く笑った。
「可愛いな」
「また評価を」
「明日も食うか」
伊織はすぐに返事をしなかった。
宗春が髪を撫でる。
「うなぎ」
「……暑い日なら」
「夏中、暑い」
「殿」
「では、時々」
伊織は宗春の肩へ額を押しつけた。
「……殿が、必要と判断なさるなら」
「伊織の言葉で」
伊織はしばらく黙った。
そして、小さく言う。
「また、食べたいです」
宗春は伊織を抱きしめた。
「よし」
「夜の話ではありません」
「最初は昼の話だ」
「最初は、という言い方を」
宗春は伊織の抗議を口づけで止めた。
その夜、伊織はもう一度、うなぎのせいにした。
宗春は最後まで、その言い訳を笑わなかった。
****
翌朝。
直澄は景継に、霧川筋の飯と塩の件を報告した。
「荷運びの者へ、梅干しと味噌を混ぜた握り飯を置く案です。薬代より軽く、倒れる者も減るかと」
景継は帳面を見た。
「榊殿の案か」
「はい」
「また飯か」
「はい」
「鳴瀬山ではなく?」
直澄は静かに答える。
「榊殿が気にされたのは、川筋の荷運びと暑気あたりです」
景継は黙った。
直澄は続けない。
筆にも足さない。
景継は帳面を閉じた。
「……飯代として組め」
「承知しました」
****
奥座敷では、宗春が伊織に冷ました茶を差し出していた。
「夏バテではないんだったな」
「ありません」
「うなぎで元気になった?」
「それは認めます」
「素直だ」
「事実ですので」
「夜も?」
伊織の手が止まる。
「朝から、その話は」
「何の話だと思った?」
「殿」
宗春は笑う。
伊織は冷ました茶を飲み、少しだけ目を伏せた。
昨日より、体は軽い。
それもまた、事実だった。
宗春のせいか。
うなぎのせいか。
伊織は、そこだけは答えないことにした。
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