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第4話 熱い風呂と湯屋騒動
「伊織」
「はい」
「今日は、湯へ行く」
「屋敷にも湯殿はございます」
「町の湯だ」
「なぜですか」
「暑いから」
「暑い日に、湯へ」
「江戸の湯は熱い」
「なお理由が分かりません」
咲霧藩上屋敷の朝。
伊織は、宗春の前で文を整えていた。
昨日のうなぎの件で、伊織は少しだけ体調が戻っている。
本人は認めない。
宗春は認めさせたい。
その攻防が、朝から続いていた。
「湯は体を整える」
「それは分かります」
「町の湯屋は、人の話も集まる」
「それも分かります」
「伊織が湯上がりになる」
「急に分からなくなりました」
宗春は楽しげに笑う。
「湯上がりの伊織を見たい」
「率直に言えば許されると思わないでください」
「隠すよりよいだろう」
「そういう問題ではありません」
障子の向こうで、霧生景継が咳払いをした。
「殿。町湯へ向かわれるなら、供を」
「少なくていい」
「多くしてください」
「湯に入りに行くだけだ」
「殿が町湯へ行くだけで、湯屋は十分騒ぎます」
青柳直澄が静かに入ってくる。
「梅の湯から、釜の鉄輪に不具合があるとの話も来ております」
宗春が眉を上げた。
「鉄輪?」
「はい。湯釜を締める金具が傷み、打ち直しに銭がかかると」
景継が続ける。
「鉄具の値は上がっております。幕府普請の影響もあり、町の職人まで手が足りぬ様子」
伊織は文を置いた。
「湯屋の釜が止まれば、近隣の者が困りますね」
言ってから、伊織はわずかに口を閉じた。
「……不便です」
宗春は何も言わず、少しだけ笑った。
伊織はすぐ言い直す。
「町の暮らしに響きます」
直澄は筆を取りかけ、そこで止めた。
景継は伊織を見やり、すぐに帳面へ意識を戻す。
「榊殿が同行される必要はありません」
「あります」
宗春が言った。
「伊織は、釜より客の方を見る」
「殿」
「それがいる」
伊織は反論しようとして、やめた。
宗春は時々、軽い声で重いことを言う。
それが一番、ずるい。
****
昼過ぎ。
梅の湯は、表通りから一本入った場所にあった。
暖簾は古いが、湯気が勢いよく出ている。
中からは、町人たちの声が響く。
「熱い!」
「いつもだ!」
「今日は特に熱い!」
「梅の湯はこうでなくちゃな!」
伊織は暖簾の前で足を止めた。
「……熱いそうです」
宗春が楽しげに言う。
「江戸の湯だ」
「なぜ皆、喜んでいるのですか」
「熱いからだ」
「説明になっておりません」
直澄が番台の主と話している。
景継は外で供の者に指示を出し、あまり中へ入りたくなさそうだった。
宗春は伊織の袖を軽く引く。
「入るぞ」
「私は見分だけで」
「湯屋へ来て、湯に入らない?」
「職務上の確認です」
「では、体で確認しろ」
「その理屈はおかしいです」
中へ入ると、熱気が一気に肌へ当たった。
伊織は思わず息を止める。
板の床。
湯気。
桶の音。
町人たちの賑やかな声。
そして、湯船から立ち上る白い熱。
伊織は真面目に状況を確認しようとした。
だが、宗春はそれを許さない。
「伊織、固い」
「湯屋でまで」
「固いと沈まない」
「沈む必要は」
「ある」
宗春は伊織へ手ぬぐいを渡す。
「江戸の湯を知らない小姓は、咲霧の小姓として足りない」
「そのような基準は初耳です」
「今作った」
「作らないでください」
湯船の縁に近づいた伊織は、そっと指先を湯へ入れた。
すぐ引っ込める。
「熱いです」
「そうだな」
「入る温度ではありません」
「町の者は入っている」
「町の者は強いのですか」
「慣れだ」
「私は慣れておりません」
「では、俺が支える」
「支えなくて結構です」
宗春は笑いながら先に湯へ入った。
平然としている。
伊織はそれが信じられない。
「殿、熱くないのですか」
「熱い」
「ではなぜ平然と」
「伊織が入るのを待っているから」
「待たないでください」
「早く」
伊織は深く息を吸った。
そして、慎重に片足を入れる。
「っ」
「大げさだな」
「大げさではありません。熱いです」
「もう片足」
「命令ですか」
「願いだ」
「願いが雑です」
それでも、伊織はもう片足を入れた。
湯が肌にまとわりつく。
熱い。
痛いほどではない。
けれど、慣れない熱が体を一気に包む。
「無理です」
「早い」
「十分です」
「まだ肩まで入っていない」
「肩は必要ありません」
宗春が腕を伸ばし、伊織の手を取った。
「ゆっくり」
「殿」
「大丈夫だ」
その声だけが、湯より少し低くて落ち着いていた。
伊織は歯を食いしばりながら、ゆっくり湯へ沈む。
肩まで入った瞬間、息が漏れた。
「……っ」
宗春は伊織の手を離さない。
「どうだ」
「熱いです」
「それだけ?」
「……気持ちは、少し」
宗春が笑う。
「素直だ」
「湯に対してです」
「俺に対しても素直になればいい」
「湯屋で何を仰るのですか」
近くの町人が笑った。
伊織は赤くなり、湯の熱のせいにした。
その時、奥で大きな音がした。
がたん、と桶が倒れる。
続いて、湯屋の主が慌てた声を上げた。
「釜場を見るな! 危ねえ!」
直澄がすぐに動いた。
宗春も湯から上がる。
伊織も続こうとして、立ち上がった瞬間、少しふらついた。
宗春がすぐ支える。
「伊織」
「平気です」
「のぼせたな」
「のぼせておりません」
「声が少し浮いている」
「湯気のせいです」
宗春は伊織を柱の陰へ座らせた。
「ここにいろ」
「しかし」
「湯で倒れる小姓は、釜場へ行けない」
伊織は言い返せなかった。
宗春は直澄と釜場へ向かう。
伊織は手ぬぐいで首元を冷ましながら、耳を澄ませた。
釜場では、湯釜を締める鉄輪の一部が緩み、湯を熱くしすぎたらしい。
職人が汗だくで謝っている。
「近頃の鉄は高くて、打ち直しを先に延ばしておりました」
「誰が先延ばしを決めた」
直澄の声。
「私です。客が減れば、飯が食えぬので」
湯屋の主の声は苦かった。
伊織はゆっくり立ち上がった。
宗春が戻ってくる前に、主の女房が水桶を運んでいるのが見えた。
手が震えている。
客へ水を配るつもりらしい。
伊織は近づいた。
「桶をひとつ、お借りしても」
女房は驚いた。
「お武家様にそんな」
「のぼせた者が言うのも何ですが、水は早い方がよいです」
伊織は桶を受け取り、客たちへ冷ました水を配った。
「一度に飲まず、少しずつ」
「兄さん、湯に負けたのか」
町人がからかう。
伊織は真面目に頷いた。
「はい。負けました。ですから、負ける前に飲んでください」
どっと笑いが起きた。
宗春が釜場から戻り、その場を眺める。
伊織は赤くなった。
「何ですか」
「湯に負けた小姓が、湯屋を回している」
「笑わないでください」
「笑っていない」
「笑っています」
宗春は近づき、伊織の手から空の桶を取った。
「座れ」
「もう平気です」
「まだ赤い」
「湯のせいです」
「うん」
宗春はその赤さを、湯のせいにしてやった。
その後、宗春と直澄は湯屋の主と話をつけた。
鉄輪の打ち直しは、すぐに行う。
費用は湯屋だけに背負わせず、近隣の組と屋敷で使う分の湯代を少し前払いする形に整える。
釜が止まれば、湯屋だけではなく、周囲の長屋も困る。
湯は、ただ体を洗う場所ではない。
町の者が息をつく場所だった。
伊織はそれを、熱い湯の中で知った。
****
帰り道。
伊織はいつもより静かだった。
宗春は隣を歩きながら、手を伸ばしかけて、やめる。
「まだ熱いか」
「少し」
「のぼせたな」
「負けただけです」
「湯に?」
「はい」
「俺には?」
伊織は足を止めそうになった。
「その質問は不要です」
「では夜に聞く」
「聞かなくて結構です」
「冷ましてやる」
「湯の話ですか」
「最初は」
「その言い方は、毎回よくありません」
宗春は楽しげに笑った。
直澄は後ろで、必要な支出だけを帳面に書いた。
伊織が水を配ったことは、書かなかった。
だが、覚えていた。
****
夜。
宗春の部屋には、湯上がりの匂いが残っていた。
伊織はいつもより髪が少し湿っている。
湯屋から戻ったあと、屋敷でもう一度軽く体を拭いたのだ。
それでも、首元には熱が残っている。
宗春は伊織の後ろに立ち、手ぬぐいで髪を拭いた。
「まだ熱い」
「平気です」
「平気と言う声じゃない」
「殿は何でも拾いすぎます」
「伊織のことだからな」
手ぬぐいがゆっくり髪を滑る。
伊織は動けなかった。
手を握られるより、髪を撫でられるより。
背後に宗春の気配があることが、妙に落ち着かない。
「殿」
「うん」
「拭くのは自分でできます」
「知っている」
「では」
「俺がしたい」
伊織は黙った。
宗春は手ぬぐいを置き、背中から伊織を抱いた。
「っ」
「ほら、熱い」
「殿もです」
「冷ましてやると言った」
「逆です」
「そうか?」
「そうです」
宗春の手が、伊織の胸元を避けるように、ゆっくり帯へ降りる。
抱きしめられているだけなのに、背中から熱が流れ込む。
伊織は息を整えようとした。
「今日、湯屋で」
「うん」
「水を配ったのは、当然のことです」
「まだ何も言っていない」
「褒める気配がしました」
「可愛い」
「ほら」
「褒めた」
「それは水の話ではありません」
「伊織の話だ」
宗春は伊織の首筋へ唇を寄せる。
伊織の肩が震えた。
「殿」
「熱いな」
「湯上がりですので」
「冷ます」
「だから逆です……っ」
宗春の手が帯をほどく。
布が畳へ落ちる。
背中から抱かれたまま、伊織は宗春の腕の中へ包まれた。
「嫌なら」
「言わないでください」
「うん」
「嫌では、ありません」
「では」
宗春は伊織の耳元で囁く。
「冷ます」
伊織は目を閉じた。
「……はい」
宗春は伊織を背後から抱いたまま、布団へゆっくり沈めた。
湯上がりの肌に、夜気が触れる。
だが、その涼しさはすぐ宗春の熱に包まれる。
背中から密着され、伊織は身を固くした。
「伊織」
「はい」
「力を抜け」
「背中からは、落ち着きません」
「俺が支える」
「支える距離では」
「もっと近くする」
「近くしないで……っ」
言いながら、伊織は宗春の腕を掴んでいた。
離すためではない。
離れないように。
宗春はそれを分かっている。
「離れるか」
「……離れないでください」
宗春の動きが止まった。
伊織は自分の言葉に気づき、すぐに言い直そうとする。
「今のは」
「聞いた」
「湯冷めしますので」
「うん」
「それだけです」
「分かった」
宗春の声は優しかった。
けれど、手は優しいだけでは終わらない。
背後から腰を抱かれ、湯上がりの熱を重ねるように、 伊織の奥へと深く入った。
「っ、あ……っ♡」
宗春の腕が、伊織の腹のあたりを支えた。
湯でほどけた体に、背後から熱が入ってくる。
伊織は宗春の腕を掴み、息を逃がそうとした。
「大丈夫か」
「大丈夫……っ、です……っ」
「熱い?」
「殿が……っ」
「俺が?」
「熱い……っ」
宗春の息が耳元へ落ちる。
「冷ましているのに」
「嘘です……っ」
「では、もっと熱くする」
「冷ます話はどこへ……っ、あっ♡」
宗春が背後からゆっくり突き上げる。
伊織の体が前へ押され、すぐ宗春の腕に戻される。
背中と胸の間に、隙間がなくなる。
「密着しすぎです……っ」
「冷えないだろう」
「そういう問題では……っ、あんっ♡」
「昼は湯に負けた」
「言わないでください……っ」
「夜は?」
「何に……っ」
「俺に」
伊織の指が宗春の腕に食い込む。
「それは……っ」
宗春が奥まで届くように、深く突き上げる。
「っ、あっ♡ 待って……っ」
「負ける?」
「負けません……っ」
「声は負けている」
「声の評価は……っ、不要……っ♡」
「熱い声だ」
「殿の、せいです……っ」
宗春の手が、伊織の首元へ触れる。
湯上がりの熱を確かめるように、指がゆっくり滑る。
「ここも熱い」
「触らないで……っ」
「冷ます」
「嘘……っ、あんっ♡」
「伊織」
「はい……っ」
「昼、湯に沈む時もこんな声を我慢したか」
「して、ません……っ」
「今は?」
「我慢……っ、できません……っ」
宗春の腰が強くなる。
背後から抱かれたまま、伊織の体は布団の上で小さく擦れた。
湯上がりの匂い。
布の音。
耳元の息。
逃げ場のない熱。
伊織は宗春の腕にすがり、声を抑えようとして、失敗した。
「っ、あんっ♡ 宗春さま……っ」
「うん」
「近い……っ」
「背中から抱いているからな」
「言わないで……っ」
「好きか」
「そういう……っ、聞き方は……っ」
宗春が深く突き上げる。
伊織の声が跳ねた。
「っ、あっ♡」
「好き?」
「……嫌では、ありません……っ」
「では、好き?」
「聞かないで……っ」
「伊織の言葉で」
「背中が……っ」
「うん」
「宗春さまで……熱くて……っ」
「うん」
「もう……っ、のぼせます……っ」
宗春の腕が強くなる。
「なら、俺に預けろ」
「預けたら……っ」
「うん」
「もっと、熱くなる……っ」
「そうだな」
「認めないで……っ」
宗春は耳元で低く笑った。
「いじわるしないでください……っ」
「していない」
「しています……っ」
「冷ましている」
「まだ言う……っ、あんっ♡」
宗春は伊織の体を密着させたまま、一定の深さで何度も突き上げた。
強すぎない。
だが、じわじわと熱を逃がさない。
伊織は湯船に沈められていた時より、ずっと深く息を乱していた。
「宗春さま……っ」
「いる」
「もう……っ」
「のぼせた?」
「のぼせ……っ、ました……っ」
「俺で?」
伊織は答えられない。
宗春がさらに奥まで届かせる。
「っ、あっ♡ そう……っ、です……っ」
「よく言えた」
「もう……っ、無理……っ」
「来る?」
「聞かないで……っ」
「伊織」
「宗春さま……っ、熱くて……っ、離れたら冷えるのに……っ」
「うん」
「離れたく、なくて……っ」
宗春の息が大きく乱れた。
「伊織」
「はい……っ」
「今の、もう一度」
「無理……っ」
「では、俺が聞く。離れたいか」
伊織は首を横に振る。
「離れたく……っ、ありません……っ」
「なら、抱く」
「はい……っ」
宗春は背後から伊織を深く抱き込み、最後まで熱を逃がさないように突き上げた。
伊織の声が崩れる。
「のぼせ……っ、いえ……っ、宗春さま……っ、いって、しま……っ♡♡」
伊織の体が宗春の腕の中で震えた。
宗春はすぐには動かない。
湯上がりの熱が落ちるまで、伊織の背を抱いたまま待った。
昼、湯に負けた体を冷ますように。
夜、自分で熱くした体を受け止めるように。
伊織は息を整えきれず、宗春の腕に額を寄せた。
「……殿」
「うん」
「今夜のことは」
「うん」
「湯のせいです」
「そうか」
「はい」
「熱すぎた」
「はい」
「梅の湯が悪い」
「はい」
宗春は伊織の髪を撫でた。
まだ少し湿っている。
「明日、梅の湯へ礼を言わないとな」
伊織の体がびくりとする。
「何をですか」
「伊織が甘くなった」
「礼は不要です」
「では、俺だけ覚えておく」
「それも」
宗春の腕が、また少し強くなる。
「伊織」
「はい」
「湯冷めする」
「……はい」
「このままでいいな」
伊織は黙った。
背中に宗春の熱。
胸元に宗春の腕。
まだ乱れたままの息。
もう言い訳はたくさんあった。
湯冷め。
のぼせ。
梅の湯。
熱い湯。
けれど伊織は、今度は言い訳を選ばなかった。
小さく頷く。
「……離れないでください」
宗春は、からかわなかった。
ただ、伊織を抱き直した。
「うん」
その夜、灯が落ちても、宗春の腕は伊織の背中から離れなかった。
****
翌朝。
梅の湯から、釜の鉄輪打ち直しに関する控えが届いた。
直澄は帳面に、前払い分と修繕費を記した。
景継はその数字を確かめる。
「榊殿は、何か言っていたか」
「湯屋の客に水を配っておられました」
「また善行か」
「はい」
「釜ではなく?」
「はい。のぼせた者を先に」
景継はしばらく黙った。
直澄はそれ以上、何も足さなかった。
****
奥座敷では、宗春が伊織の髪を眺めていた。
「まだ少し湿っている」
「もう乾いております」
「昨夜も湿っていた」
「朝から、その話は」
「湯の話だ」
「本当ですか」
「最初は」
伊織は茶を置き、宗春から一歩離れた。
宗春が笑う。
「遠い」
「適切です」
「今夜も冷やすか」
「冷やすの意味が違います」
「では、温める」
「もっと違います」
宗春は楽しげに立ち上がる。
伊織は一歩下がりながらも、完全には遠ざからなかった。
それを宗春だけが、静かに拾った。
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