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第二話:生徒手帳が紡いだ縁
入学した日の夜。アイザックは父の自室に呼び出された。
灯された蝋燭の明かりが揺らめき、テーブルセットに着く二人の影を揺らす。
机の上には、一本のボトルと二杯のグラスが置かれている。光を拒むような黒色のボトルは、父が地下で保管していた秘蔵のものらしい。
「これだけは、お前と二人で飲みたかったんだ」
父は慣れた手つきでコルク栓を開けた。
ワインボトルのラベルに印字された年は、アイザックの生まれ年と同じだった。
グラスに葡萄酒が注がれる。全体的に黒いが、光がよく当たるフチだけは、鮮やかな赤紫に見える。
父と乾杯し、入学祝いを舌の上で転がす。まろやかな酸味と渋味が踊り、最後には甘味が残る。
「お前もワインの味が分かるようになったか」
「最初は、どうしてこんな渋い物を好んで飲むのか不思議でした」
「アハハハハ……!」
父が乾いた笑い声を上げた。イタズラ坊主のような表情だった。
「初めてお前にワインを飲ませた時、酷い顔をしていた」
「もう、あのことを掘り返すのはやめてください」
アイザックも釣られて、はにかんだ。
「ハハハハハ……はぁ、ルイーザも喜ぶだろうな」
ひとしきり笑い終えた父が、今度はしみじみとグラスを傾けた。
ルイーザはアイザックの実母だ。
彼女が亡くなってから七年経つ。時間が経つにつれて、記憶の母の輪郭がぼんやりとし始めている。あれだけ大好きだったのに。
「大きな病気もせず、ここまで育ってくれた」
「丈夫に産んでくれた母さんのおかげです」
アイザックは真情を述べた。父は口角を上げ、嬉しそうに鼻を鳴らした。
それから、話はアイザックの幼少期の話になった。
風呂から上がった後、タオルを持った手伝いから逃げ、裸のまま屋敷内を駆けまわったこと。
瓜 を食べた時に種を飲み込んで、『頭から瓜が生える』と大騒ぎしたこと。
ひとつの話が終わるごとに父は大笑いし、アイザックは赤面した。
何をするにも、アイザックはリジャスと一緒だったという話になった後、父は神妙な面持ちになった。
「彼はどうも繊細みたいだな」
アイザックは父と同意見だった。
リジャスが馬車で熱を出した後、急いで手伝いに医者を呼んでもらった。医者が言うには、疲労からくる風邪らしい。
リジャスはやはり他人と打ち解けるのが苦手なのだろう。
彼がこの屋敷に来たのは、十二歳の時だった。今でこそ親友のような関係を築いているが、当時は口すらきいてもらえなかった。
父との関係については、未だに他人行儀だ。リジャスが父を『父さん』と呼んでいるのを一度も聞いたことがない。
学校で、何人もの生徒から話しかけられたときも、彼はほとんど口を開かなかった。
アイザックの傍で、周囲を忙しなく見回すばかりだった。警戒しているようにも見えた。
「リジャス君は、お前の補佐をしたいと言っていたな」
自分のグラスにワインを注ぎ、父は続ける。
「最初は、屋敷を出るのは申し訳ないと思っていて、ここに残ると言い出したのかと思ったが……もしかすると、補佐が彼にとって最も安心できる仕事なのかもしれない」
リジャスの母を除けば、彼が最も信頼しているのは自分だ。そうアイザックは自負している。
『父さんも言ってたが……リジャス、お前には未来がある。どう考えても、お前は領主の補佐で終わっていい人間じゃない』
ふと、父から入学の件を聞いた後、リジャスにそう言ったのを思い出した。
もし補佐になることが彼にとって最善なのだとしたら。……あぁ、自分は残酷なことを言ってしまったのかもしれない。アイザックはわずかな罪悪感を覚えた。
守ってやらなければ。
それは兄としての義務的なものではなかった。リジャスとの間に結ばれた深い友情からくる決意であった。
***
翌朝。リジャスの熱は下がらなかった。
アイザックは一人で馬車に乗り、学校に向かった。
到着し、相変わらず恭しく挨拶をしてくれる同級生たちに対応し、ようやく講堂に着く。
やはり威厳のあるその場所は、オペラハウスに似ていた。
席が階段状になっており、後方になればなるほど、椅子と天井の距離が近くなる。
前席は既に熱心な生徒で埋まっていた。仕方ないので、後ろの席に腰掛けた。先生の声が聞こえるか不安になった。
ステージのように見える教壇に先生が登った。
『教師』という文字を顔に貼り付けたような老人だった。しかし背筋はピンと伸びており、蓄えた髭は豊かだった。
堂々たる声が講堂内にビリビリと響く。発音もハッキリしていて、内容がスルスルと頭に入ってくる。
あぁ、後方の席に座って良かった。時折、耳を塞ぎたいという衝動に駆られながら、アイザックは授業内容をメモに取り続けた。
長い講義を受け終わり、アイザックは廊下へ出た。
昨日とまでは言わないが、今日も多くの人から声を掛けられた。次期領主に名前を覚えてもらおうという魂胆をもった者がほとんどだった。
特に、侍女になろうと考えている生徒からは、熱烈な視線を向けられた。ハリンストン家は良い就職先だからだ。
流石にアイザックも疲労を感じ始めた。
『多くの人と関わってほしい』という父の願いに背くと知りながらも、アイザックは人気 のない場所を探した。
アイザックは三階の廊下に着いた。そこには、教授らの研究室が立ち並んでいた。
休めはしないものの、食堂や講堂の近くよりはマシだ。
自分の足音が不気味に響く。静かなのは結構だが、これではまるでお化け屋敷だ。
ふと、あるものが目に入った。学生手帳だった。
アイザックは音を立てぬよう注意を払いながら、廊下に落ちていたそれを拾い上げた。
すぐ近くの扉を見上げる。プレートには哲学と彫られていた。
危なかった。哲学の教授は先ほどの老人だ。
身分証明書を落としたと知られれば、大目玉を喰らうだろう。
授業でさえあの声で進めるのだから、老人の怒声は大砲のように響き渡るに違いない。
届けなければ。教授に託すことなく、自分の手で。
アイザックは手帳を持ったまま、来た道を戻った。
研究室から離れた曲がり角で、落し物の中身を確かめる。流れるような丁寧な字で、『キーガン』と書かれていた。
名前から男だろうとアイザックは予想した。苗字の記載が無いので、彼は貴族ではない。
この学校に通うのは、アイザックのような貴族だけではない。といっても、大商人や芸術家、教会関係者の子どもなど、いわゆる上流階級と呼ばれるような手合いばかりだが。
このキーガンという男もそうに違いない。
アイザックは手帳を鞄に忍ばせると、若々しい声がする方へ向かっていった。
廊下に二人の女生徒がいた。いずれも上等なドレスを身に纏っており、鈴を転がすような声で会話している。
「すまない、二人とも」
彼女たちの名前と身分を覚えていたアイザックは、父の口調を真似て呼びかけた。
振り返った生徒たちは、アイザックの姿を見るなり目を丸くした。
「これは、アイザック様!」
先ほどまで談笑していた二人は、真剣な面持ちで恭 しく礼をした。
本当に邪魔をしてしまったと、アイザックは申し訳なくなった。
「キーガンという生徒を探しているんだが、聞き覚えは?」
訊ねると、彼女たちは少し唸った。
「……恐れ入りますが、私は存じ上げません」
「私もです。申し訳ございません」
「いいんだ。他を当たってみるよ。ありがとう」
人懐っこい笑みを浮かべ、アイザックは歩き出す。
これは長くなるぞ。
探偵のような気分になった。アイザックの表情に、かすかに苦いものが混じった。
*
ここは学校併設のカフェだ。
石造りの壁には大きな窓が並んでいて、庭師の職人魂がこもった庭園を望むことができる。
隅の席に、一人の青年が腰掛けている。
中肉中背。やや赤みを帯びた茶髪が特徴的な彼は、サンドウィッチをむしゃむしゃ食っている。
間違いない。生徒に聞いたのと同じ容姿だ。
ようやく、キーガンを探すことに成功した。 何人もの生徒を経由し、学校中を歩き回って。
探したぞ、コイツめ。
彼とは一言も交わしたことがないが、もう既に彼を子憎たらしいと感じていた。
「食事中、申し訳ない」
青年が顔を上げた。サンドウィッチを咥えたままという、酷い顔だった。
「貴方が、キーガン」
達成感と疲労を隠しきれず、声に出してしまう。
「……はい」
サンドウィッチから口を離し、痴呆的な表情を浮かべた。立ち上がりすらしない。
ハリンストン家の名前は知っていても、顔は知らないのだろう。
「これ」アイザックは彼の生徒手帳を鞄から出した。「哲学の研究室の前に落ちていたよ」
「へっ」
キーガンは、ボトムのポケットあたりを忙しなく叩いた。
「あぁ、いけねぇ!」
やっちまった。とキーガンが叫んだ。
優雅に食事を楽しんでいた周囲が、頓狂な声にギョッとした。
取り乱したキーガンだったが、すぐ落ち着いて、ようやく席から立ち上がった。
「ありがとうございます。助かりました」
キーガンが快活な笑みを浮かべた。
彼の親は商人なのだろう。とアイザックは直感した。
護衛についてもらいながら、父やリジャスと一緒に市場を偵察しに行ったことがある。
キーガンの笑顔は、市場で出会った商人のそれと同じだった。
テラスに漂う紅茶の香りに、鼻腔をくすぐられる。歩き回っていたアイザックは、喉の渇きを自覚した。
アイザックはキーガンの了承をもらい、彼と同じテーブルに着いた。
予想通り、キーガンは商人の子だった。
キーガンの父は身ひとつから商いを始めたらしい。
幼かったころは、家が貧しかったようだ。貴族たちが家庭教師から学んでいたころ、彼は父の手伝いをしていたらしい。
どうりでマナーが洗練されていないわけだ。
「しかし、あのヴィクター教授の声には参りましたよ」
キーガンもまた、哲学の授業を受けていたのだ。
「どの席に座ってたんだ?」
「前から三番目です」
アイザックは苦笑する。
キーガンは眉根に皺を寄せ、「鼓膜が破れるかと思いましたよ」と軽口を叩いた。
アイザックはついに吹き出した。
「研究室でも、授業かってくらい声を張り上げるものだから……『ヴィクター教授の声がうるさくて耳がイカれた』なんていう生徒が出てきても、不思議ではありませんよ」
冗談を言う彼だが、根は真面目なのだろう。
講堂に着くのも早く、研究室を訪れてまで教えを乞うほどなのだから。
そう褒めると、キーガンは一瞬目を丸めた後、再び軽い調子に戻った。
「オツムの出来は良くないもんで」キーガンは頭に片手をやった。
「授業受けただけじゃ全部分らんのです。それなりの成績を取らないと、親父から大目玉を喰らうに違いないんで……」
紅茶を飲み干す頃には、アイザックはすっかりキーガンを気に入っていた。
次期領主と商人。貴族と平民。
不思議だった。
これまでアイザックは校内で多くの人と話した。そのなかでキーガンは最も自分と遠い存在であるはずだ。
それなのに、彼が最も自分と近い存在のように思えた。
***
すべての講義を受け終わったアイザックは、既に迎えに来ていた馬車に乗り、帰宅した。
両親は職務のために家を空けていた。
ミアという手伝いに鞄と上着を任せると、アイザックはすぐリジャスの自室を尋ねた。
リジャスの部屋には、温かな日が差し込んでいる。窓もわずかに開けられていて、新鮮な空気が循環していた。
彼はあまり物を持たない性分だった。特筆できるものは、棚の上に座らされたクマのぬいぐるみしかない。
これは、リジャスの実父から買い与えられたものらしい。随分可愛がったようで、見ているだけで心が痛むほどボロボロだ。
「お帰りなさい。兄さん」
ベッドに寝ていたリジャスが、身を起こそうとした。
アイザックはそれを止め、調子を訊ねる。
「だいぶマシになったよ」彼の声は少し枯れていた。「明日には兄さんと一緒に行ける」
頬の過剰な紅色が消えている。熱は下がっているようだ。本調子ではなさそうだが、彼の言う通り、明日には通学できるだろう。
「良かった」
アイザックはとりあえず安心し、ベッドのフチに腰を降ろす。
仰向けに寝る弟は幼く見えた。リジャスの方が背高なので、いつも見下ろされているからかも知れない。
アイザックは昨晩のことを思い出していた。
補佐としてハリンストン領に残ると、リジャスは宣言してくれた。
それは自分の意志ではなく、この家で育てられたという恩義によるものだと、アイザックは考えていた。
昔からリジャスは頭が良かった。アイザックが勉強してようやく追いつけるような内容を、彼は簡単に飲み込んでしまう。
そんな男が、補佐という職で終わっていいはずがない。
善意のために、アイザックはリジャスを諭した。
しかし、彼の内向的な気質は、アイザックの予想を超えていた。
まさか一日だけで疲弊し、熱を出してしまうなんて。
リジャスにとっては、ハリンストン家は安心できる場所だ。
それなのに、「ここから出て行ってくれ」とも取れるような説教をしてしまった。少なくとも、振り返ったアイザックはそう思った。
「ごめんな、リジャス」
「なにが?」
どこかチャイルディッシュな口調で訊ね返される。
「お前がここに残るって言った時、反対したことだ」
「あぁ」と、リジャスは思い出したように呟いた。
「……本気、なんだろ?」
「うん。僕、兄さんの傍にいたい」
リジャスが上体のみを起こした。澄んでいて……しかしどこか悲しげな瞳に捉えられる。
弟の言葉からは、やはり迷いを感じられなかった。補佐になりたいというのは本心なのだ。
「わかった」アイザックは噛みしめるように呟き、ゆっくり頷いた。
「じゃ、また一緒に勉強だな」
「……嬉しい。傍にいて良いんだね」
リジャスは目を瞬かせ、白ユリのように微笑んだ。
綺麗だ。
兄弟のアイザックですら見惚れるほどの魅力があった。
「あぁ。本当はむしろ、こっちから頼みたかったくらいなんだ。お前が傍にいてくれたら心強い」
これからは兄弟としてだけでなく、次期補佐として。
互いに互いのことが分かっている。過ごした年月の重さがどれほど心強いか。そのありがたさが、アイザックの身に沁みてゆく。
「明日辺り、今日の授業内容を教えるよ。……あ、そうだ。今日、哲学の授業を受けたんだがな。その教授が——」
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