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第三話:弟の夜遊びは月光の中で
早いもので、テストの時期が近付いていた。
図書館やカフェ、授業前の講堂などで、参考書を広げる生徒が目立つようになってきた。
勉強そっちのけで交流に勤しんでいた者も皆、対策に励んでいるようだ。
アイザックもそうだ。
毎晩必ず自室の机に向かっている彼だが、最近は総仕上げのため、より熱心に参考書に齧り付いている。
本来、勉強の目的は競争ではない。学習を通じ、多角的な視点と思考を身に着けること。それこそが本懐である。
しかし、そうも言っていられない事情がある。
どれほど利口な人間になったとて、順位が低ければ劣等生扱いは避けられない。
次期領主として、それなりの点数を取らなければ示しがつかないのだ。
学校併設のカフェにて。
「アイザック様ぁ。俺なんか、貴方に教えられるほど器用じゃありませんよぉ」
眉尻を下げたキーガンが、舎弟に似た情けない声を上げた。
「いいから。とにかく座ってくれ」
アイザックはキーガンの背中を押し、テーブルに誘導する。ごねる彼の双肩に手を伸ばし、無理やり席に座らせた。
出会って以来、キーガンとは友好的な関係を続けている。
哲学の講義を受け終わった後、時間さえ合えば、カフェで談笑するような仲になっていた。
次期領主と商人。貴族と平民。遠く離れた存在でありながら、アイザックとキーガンは互いの性格に惹かれ合っていた。
キーガンは話していて気持ちのよい男だ。少し砕けた言動と、会話から滲み出る実直さが好ましい。
ぜひ、弟のリジャスにも紹介したい。
そう考えてはいるのだが、未だにキーガンのことを話せずにいた。
アイザックとリジャス。履修が少々異なるからだ。
リジャスは哲学の講義を受けていない。その代わり、薬学を熱心に学んでいるようだ。
学校の授業は曜日で固定されており、この日は薬学の授業が遅くまである。
終わるより先にキーガンの迎えが来てしまうので、二人を会わせられなかったのだ。
「この前のテスト。お前の方が、点数が高かっただろ」
キーガンの対面に腰を降ろしたアイザックは、鞄を開いて参考書を取り出す。
「ま、まぁ、そうですけど」
キーガンは苦笑を浮かべながら、頬をポリポリと掻いた。
幼少期は家庭教師のもとで勉学に励むのが常である。そのため、学校で行われるテストに慣れている者はほとんどいない。
テストに慣れるため。また、現在の実力を測るためにと、小テストを受けさせられたのだった。
その点数で、アイザックはキーガンに負けていた。
キーガンが高得点を取ったのは、不思議なことではない。
アイザックが彼の生徒手帳を拾ったのは、哲学の研究室の前だった。質問をしに行った帰りに、うっかり落としたらしい。
研究室が並ぶ廊下は静まり返っていて、生徒の姿を一人も見つけられなかった。
授業内容のために、わざわざ研究室を訪ねたのは、キーガンだけだったのだろう。
「だから少し、勉強に付き合ってほしいんだ」
「そんなぁ。俺は器用じゃないんですって」
「いいから」やや乱暴な口調で丸め込もうとした時、罪悪感を覚えた。
自分は今、貴族という立場を利用している。
キーガンが躊躇う理由も分かっている。目上の人間に教えるなんて、気が引けるに違いない。
だが、平民のキーガンは、アイザックの頼みを断れるはずがない。
意地悪だな。自分に呆れながらも、アイザックは一歩も引かなかった。
やがてキーガンは大袈裟な溜息を吐いた。どうやら観念したらしい。
「……分かりました。ただ、期待しないでくださいね」
「ありがとう」
礼を言うと、キーガンから苦々しくも人懐っこい笑みを浮かべられた。
それからアイザックはキーガンと共に勉強を始めた。
身分の離れた二人に、周囲は目を丸くする。
その視線を無視し、アイザックはキーガンの話に耳を傾けた。
期待するなと言っていたキーガンだが、彼の話は分かりやすかった。
要所をかい摘み、時には哲学者の真似を大仰にやってくれた。
似ているかどうか分からないまま、アイザックは心の底から笑った。
「……兄さん?」
聞き馴染みのある声に、アイザックは顔を上げた。続いてキーガンも声の主を見る。
薬学の授業を受け終わったリジャスが、兄を迎えに来たのだった。
「リジャス!」アイザックは嬉々として立ち上がる。ようやく弟に友人を紹介できる。
「リジャス。彼はキーガンというんだ」
キーガンも立ち上がり、リジャスに向かって恭 しく礼をした。
自分の時とは大違いだと、アイザックは苦笑をこぼした。
「キーガン。こっちはリジャスで、俺の義理の弟なんだ」
リジャスも礼をした。緊張しているのだろう。表情や動きが硬かった。
そんな弟の姿を、アイザックは幼い子をもつ母のような気持ちで見守った。
「兄さん、この人は——」
「友人だよ。気持ちの良い男でね」
紹介すると、キーガンは頭に手をやって、照れたように笑った。
「……そう」
やはり、リジャスは人見知りだ。キーガンと目を合わせることすら出来ないでいる。
その時、アイザックはあることに気付いた。
「そういえばキーガン、時間は」
「へっ」キーガンは目を真ん丸にして、アルバートチェーンに繋いでいた懐中時計をポケットから出す。
「あっ! いけねぇ!」
キーガンは頓狂な声を上げた。
まわりで勉強していた生徒たちの冷ややかな視線を浴び、キーガンは頬を赤らめる。
アイザックは後悔した。
時間を忘れ、彼を無理に残らせてしまった。迎えの馬車も既に来ていて、随分長く待っているはずだ。
「すまない。こんな時間まで残らせるつもりじゃなかったんだが」
「……いえ、いいんですよ」すぐにキーガンはいつもの調子を取り戻す。「俺も勉強になりましたからね」
キーガンはささっと荷物をまとめた。
「では、先に失礼します。……いつかリジャス様ともゆっくり話したいものです。では」
学校指定のマントを翻し、キーガンは小走りで駐車場へと向かっていった。
「……ねぇ、兄さん」
揺れるマントを目で追いながら、リジャスが口を開く。
「あの人、本当に兄さんの友達なの」
「あぁ、そうだ」
迷うことなく答えると、リジャスの表情が険しくなった。
その理由を、アイザックはなんとなく察した。
アイザックとキーガンの身分差を気にしているのだろう。
キーガンは平民の子だ。礼儀は叩きこまれたようだ。しかし貴族の目には、彼の言動は粗暴に映る。
アイザックにはむしろそれが心地よいのだが、リジャスはそう思っていないようだ。
「今度、ゆっくり紹介するよ」
アイザックはリジャスの肩に手を伸ばし、ポンと叩いた。
「お前もきっと気に入るだろうから」
アイザックは快活な笑みを浮かべた。それでも、リジャスの表情が晴れることはなかった。
***
その日の深夜。
ハリンストン家の明かりはすべて消されており、廊下には闇が立ち込めていた。
等間隔に並んだ格子窓から差し込む月光が、いくつもの青い筋を空中に描いている。
闇の中に、一際暗い影が見える。
ゆらり。ゆらり。
蠢 きながら、影が少しずつ大きくなってゆく。
もし、信心深い者がソレを目撃すれば、幽霊だと叫んで逃げ出すに違いない。
月の光りに照らされて、影の正体が明らかとなる。寝間着姿のリジャスだ。
ランプすら持たずに廊下を渡っている。足音ひとつ立てず、自室と反対方向へ歩いてゆく。
アイザックの部屋の前で、リジャスは立ち止まった。
リジャスは知っている。兄には、部屋に鍵を掛ける習慣はない。
ゆっくりと時間をかけて、ドアノブを傾ける。
——カチャ。
かすかな金属音が響く。
アイザックの眠りは深く、この程度の騒音では起きないことも知っている。
バルコニーと部屋を隔てる、大きな窓がある。
そこから月光が差し込み、ベッドで眠っている兄の姿を照らしている。
昔から、アイザックは夜更かしを絶対にしない人だった。この時間帯には確実に眠っている。それも弟のリジャスは分かっていた。
リジャスは物音を立てぬよう気を払いながら、アイザックの前で座り込んだ。
兄が浮かべる無意識の表情は健やかで、邪なものを感じさせない。
(兄さん)
頭の中でアイザックを呼ぶ。
深海のような眼差しは慈愛に満ちていた。彼が抱く想いは、兄弟としてでも、親友としてでもない。
リジャスはすべての意識をアイザックに傾ける。
カラスの翼を思わせる黒色の髪が、白いシーツに広がっている。顔立ちからは男を感じられるものの、どこか中性的な印象も受ける。
胸のあたりが、わずかに上下している。掛け布団に隠された体は、今この瞬間も生命活動を続けている。
見ているうちに、たまらなくなった。
この世にいるはずがない。
アイザックを前にして、正気でいられる人間なんて。
月の魔力に狂わされ、兄の美貌に吸い込まれる。
アイザックの唇に、自分のをそっと重ね合わせた。背徳的な甘さが全身に広がり、肌が粟立 つ。
このまま、むしゃぶりつきたい。
しかしリジャスは兄の覚醒を恐れ、懸命に昂りを抑え込んだ。
もう一度。あと、もう一度だけ。
何度も、何度も。『もう一度』と繰り返す。
月が傾いてゆく。天使のような青年の、無邪気で暗い遊びを覗き込むように。
——兄さんが、いけないんだ。
リジャスは頬をリンゴのように染めている。とろんとした瞳の奥で、憎しみの炎を燻 らせながら。
兄さんと僕は、運命の愛で結ばれている。
それなのに、学校のヤツらが兄さんを狙っている。
身の程知らずだ。
兄さんの視界に入れてもらえるだけでも、ありがたいと思うべきなのに。
僕はヤツらを警戒し続けた。情けないことに、疲れて風邪をひいてしまった。
弱っている時、兄さんは僕にこう言ってくれた。
『お前が傍にいてくれたら心強い』
本当に、嬉しかった。
どれほど誘惑されても、兄さんは僕のことを想ってくれている。愛してくれている。
それなのに……どうして、兄さんは僕を誘ってくれないんだろう。
体を通して愛し合いたい。そう思うのは当然なのに。
ずっと待っていたのに。何かをしようと誘うのは、いつも兄さんからだから。
真面目だから、大人になるまで待ちたかったんだ。……そう思っていたのに、違うみたいだ。
互いに十八を超えたのに、部屋に来る気配が一向にない。
きっと、恥ずかしがっているんだろう。
可愛らしいけれど——酷い人。
ずっと、待ってるのに……。
僕を放っておくだなんて……酷い人だ。
リジャスは静かに息を吐く。呼気には甘い熱がこもっている。
おもむろに、下へ手を伸ばす。全身を火照らせる根源が、薄手の寝巻きを持ち上げている。
(兄さん)
声は震わせず、唇の動きだけで兄を呼ぶ。寝巻きを払い除け、男の証をあらわにした。
若々しい肉体。それにふさわしい欲望を誇示するように、恥肉を強張らせている。
皮膚はほんのりと色づいており、血管が浮き出ている。
人形のような容姿の彼とグロテスクな生殖器は、夜の雰囲気に助けられ、悪魔的な美しさをもっている。
日光を嫌うような手で、リジャスは自分を慰め始めた。
夢の世界に旅立ったまま帰らないアイザックを独り占めしながら。
ゆっくりと、焦らすように肉体を悦ばせる。
次第に、リジャスの息が乱れ始めた。甘い呼吸が、空気を淫らに染めてゆく。
手の中で恥肉を躍らせる。
上向いたペニスは、眠るアイザックを真っすぐ指している。その切っ先から、ツゥ、と透明な蜜が滴った。
その間、リジャスはアイザックに指一本触れなかった。ただ兄の魅力に酔いしれ、手淫に耽るのみ。
全身が強張り、汗ばむ。呼吸を跳ねさせ、酔っ払いのように項垂れる。
これ以上ないほど性器が硬直する。
雄々しいペニスの輪郭が、クッキリと浮き彫りになった時。
「……ッ!」
快感が爆ぜた。
男根の内部を押し広げるように、白濁が遡る。
それを手のひらで受け止めながら、リジャスは悩ましげな顔を上げる。
「は……はっ……はっ、ぁ……っ」
ドクン。ドクン。と脈を打ち続ける。その度に息を吐き、快感を逃す。
全身に快楽が残っているのを感じながら、リジャスは髪を掻き上げた。
オーガズム直後の心地よさに身を任せ、アイザックの唇に口付けを落とす。それには、誓いのキスのような神聖さがあった。
ようやくリジャスは立ち上がり、兄を俯瞰した。
その間、なにか嫌なことを思い出したようだ。視線を虚空に彷徨わせ、瞳に剣呑な光を宿す。
しかし次の瞬間には、どこか寂しさを帯びた、いつもの目になっていた。
名残惜しそうに兄の寝顔を見守った後、リジャスは部屋を辞したのだった。
***
数日後の学校は、いつもと様子が変わっていた。
校舎の前に、数名の生徒たちのグループが、いくつも出来ている。
彼らの表情から読み取るに、良い話をしている訳ではなさそうだ。
「なにか、あったんだろうか」
キャビン内から様子を見ていたアイザックは、不穏な空気を感じた。心にさざ波が立ち、落ち着かなくなる。
「さぁ?」隣の席に座っているリジャスに小首を傾げられた。
領主には、情報を集めることも求められる。それがただの噂話でも、耳に入れておくに越したことはない。
「申し訳ない」
下車したアイザックは、目に留まった男子生徒のグループに話しかけた。
「なにかあったのか」
訊ねると、グループの一人が口を開く。
「それが……校内で、窃盗が起きたんですよ」
重大な犯罪に、アイザックは「なんだって」と声を尖らせる。
たしかにここは、上流階級ばかりが集う学校だ。泥棒から見れば宝の山だろう。
しかし守りは厳重だ。常に警備たちが学校の内外を巡回し、鷹のように目を光らせている。
ネズミ一匹通れない校舎に、どう侵入したというのだろう。
「ご安心ください、アイザック様」
アイザックの険しい表情を解すように、男子生徒が穏やかに微笑んだ。
「犯人は既に捕まえられましたから」
「……そうなのか?」
「ええ」と男子生徒は声を弾ませる。
彼は被害に遭っていないのだろう。この非日常を楽しんでいるようにも見えた。
「生徒だったんですよ。キーガンって男です」
「……は?」
ドクン。アイザックの心臓が、重く跳ねた。
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