4 / 7

第三話:弟の夜遊びは月光の中で

 早いもので、テストの時期が近付いていた。  図書館やカフェ、授業前の講堂などで、参考書を広げる生徒が目立つようになってきた。  勉強そっちのけで交流に勤しんでいた者も皆、対策に励んでいるようだ。  アイザックもそうだ。  毎晩必ず自室の机に向かっている彼だが、最近は総仕上げのため、より熱心に参考書に齧り付いている。  本来、勉強の目的は競争ではない。学習を通じ、多角的な視点と思考を身に着けること。それこそが本懐である。  しかし、そうも言っていられない事情がある。  どれほど利口な人間になったとて、順位が低ければ劣等生扱いは避けられない。  次期領主として、それなりの点数を取らなければ示しがつかないのだ。  学校併設のカフェにて。 「アイザック様ぁ。俺なんか、貴方に教えられるほど器用じゃありませんよぉ」  眉尻を下げたキーガンが、舎弟に似た情けない声を上げた。 「いいから。とにかく座ってくれ」  アイザックはキーガンの背中を押し、テーブルに誘導する。ごねる彼の双肩に手を伸ばし、無理やり席に座らせた。  出会って以来、キーガンとは友好的な関係を続けている。  哲学の講義を受け終わった後、時間さえ合えば、カフェで談笑するような仲になっていた。  次期領主と商人。貴族と平民。遠く離れた存在でありながら、アイザックとキーガンは互いの性格に惹かれ合っていた。  キーガンは話していて気持ちのよい男だ。少し砕けた言動と、会話から滲み出る実直さが好ましい。  ぜひ、弟のリジャスにも紹介したい。  そう考えてはいるのだが、未だにキーガンのことを話せずにいた。  アイザックとリジャス。履修が少々異なるからだ。  リジャスは哲学の講義を受けていない。その代わり、薬学を熱心に学んでいるようだ。  学校の授業は曜日で固定されており、この日は薬学の授業が遅くまである。  終わるより先にキーガンの迎えが来てしまうので、二人を会わせられなかったのだ。 「この前のテスト。お前の方が、点数が高かっただろ」  キーガンの対面に腰を降ろしたアイザックは、鞄を開いて参考書を取り出す。 「ま、まぁ、そうですけど」  キーガンは苦笑を浮かべながら、頬をポリポリと掻いた。  幼少期は家庭教師のもとで勉学に励むのが常である。そのため、学校で行われるテストに慣れている者はほとんどいない。  テストに慣れるため。また、現在の実力を測るためにと、小テストを受けさせられたのだった。  その点数で、アイザックはキーガンに負けていた。  キーガンが高得点を取ったのは、不思議なことではない。  アイザックが彼の生徒手帳を拾ったのは、哲学の研究室の前だった。質問をしに行った帰りに、うっかり落としたらしい。  研究室が並ぶ廊下は静まり返っていて、生徒の姿を一人も見つけられなかった。  授業内容のために、わざわざ研究室を訪ねたのは、キーガンだけだったのだろう。 「だから少し、勉強に付き合ってほしいんだ」 「そんなぁ。俺は器用じゃないんですって」  「いいから」やや乱暴な口調で丸め込もうとした時、罪悪感を覚えた。  自分は今、貴族という立場を利用している。  キーガンが躊躇う理由も分かっている。目上の人間に教えるなんて、気が引けるに違いない。  だが、平民のキーガンは、アイザックの頼みを断れるはずがない。  意地悪だな。自分に呆れながらも、アイザックは一歩も引かなかった。  やがてキーガンは大袈裟な溜息を吐いた。どうやら観念したらしい。 「……分かりました。ただ、期待しないでくださいね」 「ありがとう」  礼を言うと、キーガンから苦々しくも人懐っこい笑みを浮かべられた。  それからアイザックはキーガンと共に勉強を始めた。  身分の離れた二人に、周囲は目を丸くする。  その視線を無視し、アイザックはキーガンの話に耳を傾けた。  期待するなと言っていたキーガンだが、彼の話は分かりやすかった。  要所をかい摘み、時には哲学者の真似を大仰にやってくれた。  似ているかどうか分からないまま、アイザックは心の底から笑った。 「……兄さん?」  聞き馴染みのある声に、アイザックは顔を上げた。続いてキーガンも声の主を見る。  薬学の授業を受け終わったリジャスが、兄を迎えに来たのだった。  「リジャス!」アイザックは嬉々として立ち上がる。ようやく弟に友人を紹介できる。 「リジャス。彼はキーガンというんだ」  キーガンも立ち上がり、リジャスに向かって(うやうや)しく礼をした。  自分の時とは大違いだと、アイザックは苦笑をこぼした。 「キーガン。こっちはリジャスで、俺の義理の弟なんだ」  リジャスも礼をした。緊張しているのだろう。表情や動きが硬かった。  そんな弟の姿を、アイザックは幼い子をもつ母のような気持ちで見守った。 「兄さん、この人は——」 「友人だよ。気持ちの良い男でね」  紹介すると、キーガンは頭に手をやって、照れたように笑った。 「……そう」  やはり、リジャスは人見知りだ。キーガンと目を合わせることすら出来ないでいる。  その時、アイザックはあることに気付いた。 「そういえばキーガン、時間は」  「へっ」キーガンは目を真ん丸にして、アルバートチェーンに繋いでいた懐中時計をポケットから出す。 「あっ! いけねぇ!」  キーガンは頓狂な声を上げた。  まわりで勉強していた生徒たちの冷ややかな視線を浴び、キーガンは頬を赤らめる。  アイザックは後悔した。  時間を忘れ、彼を無理に残らせてしまった。迎えの馬車も既に来ていて、随分長く待っているはずだ。 「すまない。こんな時間まで残らせるつもりじゃなかったんだが」  「……いえ、いいんですよ」すぐにキーガンはいつもの調子を取り戻す。「俺も勉強になりましたからね」  キーガンはささっと荷物をまとめた。 「では、先に失礼します。……いつかリジャス様ともゆっくり話したいものです。では」  学校指定のマントを翻し、キーガンは小走りで駐車場へと向かっていった。 「……ねぇ、兄さん」  揺れるマントを目で追いながら、リジャスが口を開く。 「あの人、本当に兄さんの友達なの」 「あぁ、そうだ」  迷うことなく答えると、リジャスの表情が険しくなった。  その理由を、アイザックはなんとなく察した。  アイザックとキーガンの身分差を気にしているのだろう。  キーガンは平民の子だ。礼儀は叩きこまれたようだ。しかし貴族の目には、彼の言動は粗暴に映る。  アイザックにはむしろそれが心地よいのだが、リジャスはそう思っていないようだ。 「今度、ゆっくり紹介するよ」  アイザックはリジャスの肩に手を伸ばし、ポンと叩いた。 「お前もきっと気に入るだろうから」  アイザックは快活な笑みを浮かべた。それでも、リジャスの表情が晴れることはなかった。  ***  その日の深夜。  ハリンストン家の明かりはすべて消されており、廊下には闇が立ち込めていた。  等間隔に並んだ格子窓から差し込む月光が、いくつもの青い筋を空中に描いている。  闇の中に、一際暗い影が見える。  ゆらり。ゆらり。  (うごめ)きながら、影が少しずつ大きくなってゆく。  もし、信心深い者がソレを目撃すれば、幽霊だと叫んで逃げ出すに違いない。  月の光りに照らされて、影の正体が明らかとなる。寝間着姿のリジャスだ。  ランプすら持たずに廊下を渡っている。足音ひとつ立てず、自室と反対方向へ歩いてゆく。  アイザックの部屋の前で、リジャスは立ち止まった。  リジャスは知っている。兄には、部屋に鍵を掛ける習慣はない。  ゆっくりと時間をかけて、ドアノブを傾ける。  ——カチャ。  かすかな金属音が響く。  アイザックの眠りは深く、この程度の騒音では起きないことも知っている。  バルコニーと部屋を隔てる、大きな窓がある。  そこから月光が差し込み、ベッドで眠っている兄の姿を照らしている。  昔から、アイザックは夜更かしを絶対にしない人だった。この時間帯には確実に眠っている。それも弟のリジャスは分かっていた。  リジャスは物音を立てぬよう気を払いながら、アイザックの前で座り込んだ。  兄が浮かべる無意識の表情は健やかで、邪なものを感じさせない。 (兄さん)  頭の中でアイザックを呼ぶ。  深海のような眼差しは慈愛に満ちていた。彼が抱く想いは、兄弟としてでも、親友としてでもない。  リジャスはすべての意識をアイザックに傾ける。  カラスの翼を思わせる黒色の髪が、白いシーツに広がっている。顔立ちからは男を感じられるものの、どこか中性的な印象も受ける。  胸のあたりが、わずかに上下している。掛け布団に隠された体は、今この瞬間も生命活動を続けている。  見ているうちに、たまらなくなった。  この世にいるはずがない。  アイザックを前にして、正気でいられる人間なんて。  月の魔力に狂わされ、兄の美貌に吸い込まれる。  アイザックの唇に、自分のをそっと重ね合わせた。背徳的な甘さが全身に広がり、肌が粟立(あわだ)つ。  このまま、むしゃぶりつきたい。  しかしリジャスは兄の覚醒を恐れ、懸命に昂りを抑え込んだ。  もう一度。あと、もう一度だけ。  何度も、何度も。『もう一度』と繰り返す。  月が傾いてゆく。天使のような青年の、無邪気で暗い遊びを覗き込むように。  ——兄さんが、いけないんだ。  リジャスは頬をリンゴのように染めている。とろんとした瞳の奥で、憎しみの炎を(くすぶ)らせながら。  兄さんと僕は、運命の愛で結ばれている。  それなのに、学校のヤツらが兄さんを狙っている。  身の程知らずだ。  兄さんの視界に入れてもらえるだけでも、ありがたいと思うべきなのに。  僕はヤツらを警戒し続けた。情けないことに、疲れて風邪をひいてしまった。  弱っている時、兄さんは僕にこう言ってくれた。 『お前が傍にいてくれたら心強い』  本当に、嬉しかった。  どれほど誘惑されても、兄さんは僕のことを想ってくれている。愛してくれている。  それなのに……どうして、兄さんは僕を誘ってくれないんだろう。  体を通して愛し合いたい。そう思うのは当然なのに。  ずっと待っていたのに。何かをしようと誘うのは、いつも兄さんからだから。  真面目だから、大人になるまで待ちたかったんだ。……そう思っていたのに、違うみたいだ。  互いに十八を超えたのに、部屋に来る気配が一向にない。  きっと、恥ずかしがっているんだろう。  可愛らしいけれど——酷い人。  ずっと、待ってるのに……。  僕を放っておくだなんて……酷い人だ。  リジャスは静かに息を吐く。呼気には甘い熱がこもっている。  おもむろに、下へ手を伸ばす。全身を火照らせる根源が、薄手の寝巻きを持ち上げている。 (兄さん)  声は震わせず、唇の動きだけで兄を呼ぶ。寝巻きを払い除け、男の証をあらわにした。  若々しい肉体。それにふさわしい欲望を誇示するように、恥肉を強張らせている。  皮膚はほんのりと色づいており、血管が浮き出ている。  人形のような容姿の彼とグロテスクな生殖器は、夜の雰囲気に助けられ、悪魔的な美しさをもっている。  日光を嫌うような手で、リジャスは自分を慰め始めた。  夢の世界に旅立ったまま帰らないアイザックを独り占めしながら。  ゆっくりと、焦らすように肉体を悦ばせる。  次第に、リジャスの息が乱れ始めた。甘い呼吸が、空気を淫らに染めてゆく。  手の中で恥肉を躍らせる。  上向いたペニスは、眠るアイザックを真っすぐ指している。その切っ先から、ツゥ、と透明な蜜が滴った。  その間、リジャスはアイザックに指一本触れなかった。ただ兄の魅力に酔いしれ、手淫に耽るのみ。  全身が強張り、汗ばむ。呼吸を跳ねさせ、酔っ払いのように項垂れる。  これ以上ないほど性器が硬直する。  雄々しいペニスの輪郭が、クッキリと浮き彫りになった時。 「……ッ!」  快感が爆ぜた。  男根の内部を押し広げるように、白濁が遡る。  それを手のひらで受け止めながら、リジャスは悩ましげな顔を上げる。 「は……はっ……はっ、ぁ……っ」  ドクン。ドクン。と脈を打ち続ける。その度に息を吐き、快感を逃す。  全身に快楽が残っているのを感じながら、リジャスは髪を掻き上げた。  オーガズム直後の心地よさに身を任せ、アイザックの唇に口付けを落とす。それには、誓いのキスのような神聖さがあった。  ようやくリジャスは立ち上がり、兄を俯瞰した。  その間、なにか嫌なことを思い出したようだ。視線を虚空に彷徨わせ、瞳に剣呑な光を宿す。  しかし次の瞬間には、どこか寂しさを帯びた、いつもの目になっていた。  名残惜しそうに兄の寝顔を見守った後、リジャスは部屋を辞したのだった。    ***  数日後の学校は、いつもと様子が変わっていた。  校舎の前に、数名の生徒たちのグループが、いくつも出来ている。  彼らの表情から読み取るに、良い話をしている訳ではなさそうだ。 「なにか、あったんだろうか」  キャビン内から様子を見ていたアイザックは、不穏な空気を感じた。心にさざ波が立ち、落ち着かなくなる。  「さぁ?」隣の席に座っているリジャスに小首を傾げられた。  領主には、情報を集めることも求められる。それがただの噂話でも、耳に入れておくに越したことはない。 「申し訳ない」  下車したアイザックは、目に留まった男子生徒のグループに話しかけた。 「なにかあったのか」  訊ねると、グループの一人が口を開く。 「それが……校内で、窃盗が起きたんですよ」  重大な犯罪に、アイザックは「なんだって」と声を尖らせる。  たしかにここは、上流階級ばかりが集う学校だ。泥棒から見れば宝の山だろう。  しかし守りは厳重だ。常に警備たちが学校の内外を巡回し、鷹のように目を光らせている。  ネズミ一匹通れない校舎に、どう侵入したというのだろう。 「ご安心ください、アイザック様」  アイザックの険しい表情を解すように、男子生徒が穏やかに微笑んだ。 「犯人は既に捕まえられましたから」 「……そうなのか?」  「ええ」と男子生徒は声を弾ませる。  彼は被害に遭っていないのだろう。この非日常を楽しんでいるようにも見えた。 「生徒だったんですよ。キーガンって男です」 「……は?」  ドクン。アイザックの心臓が、重く跳ねた。

ともだちにシェアしよう!