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第四話:学校の死神

 カーラという女生徒が、人気(ひとけ)のない廊下を静々と歩いている。  彼女がわざわざ三階まで来たのは、友人に本を返すため。  友人は演劇クラブに所属しており、部室がこの階にあるのだった。  ふと、先ほど受けた地政学の講義で、ハリンストン兄弟の姿を見たことを思い出す。  太陽を想起させる金の髪が、鮮明に浮かび上がった時。カーラは眉根に皺を寄せ、唇を一文字に結んだ。  図書館でリジャスに睨まれたのを思い出したからだ。  あの一件があってから、カーラは何度も自分の行いを振り返った。  しかし、心当たりがない。ハリンストン兄弟に話しかけたことすらないのだから。  ——それなのに、どうして?  答えを見つけられず、悶々とする。  深い息を吐き、階段を一歩降りた。  その瞬間、背中に衝撃を受けた。 「は……!?」  ぐらりと体が前へ傾いてゆく。  息を呑む。  揺れる視界に飛び込んできた踊り場が、クジラの喉のように見えた。  悲鳴すら上げられないまま、カーラは底へと飲み込まれていった。    ***  ——あれ?  講堂の中を、アイザックは忙しなく見まわす。  リジャスがいない。隣の席に着き、一緒に地政学の授業を受けていたのに。  ……まぁ、いい。  アイザックは早々に探すのをやめた。  兄弟として、ずっと一緒にいられたら。そう思うことは多い。  しかし、朝から晩まで共に過ごすのはおかしいだろう。二人とも十八歳。大人なのだから。  またこの後、リジャスと同じ講義を受ける。その時に会えればいいと、アイザックは席を立った。  人々の間を縫うように進む。階段を登り、研究室が立ち並ぶ廊下へ向かう。  ある研究室の扉を数回ノックする。そこには、『哲学』と彫られたプレートが掛けられていた。  ……出てこない。どうやら留守のようだ。  改めて来よう。講堂へ戻ろうとしたアイザックの靴音に、別人のものが重なった。  せっかちなリズムが近付いてくる。足音の主が、曲がり角から姿を現した。  哲学の教授であり、立派な髭を蓄えた老人のヴィクターだ。  図書館からの帰りらしい。古びた本を小脇に抱えている。 「おぉ!」  目が合った瞬間、教授が嬉々とした声を銃声のように響かせた。 「ヴィクター教授」  生徒として、アイザックは敬意を払う。 「少々、お時間をいただけませんか? 訊ねたいことがあるのです」 「あぁ、もちろんだ!」  ヴィクター教授がこちらへ歩いてくる。足取りは若々しく、齢を感じさせない。  教授は扉を大きく開けて、研究室へ迎え入れてくれた。  部屋を一望しただけで分かる。この老人は、身のまわりに無頓着だ。  壁際に立派な書斎机がある。その三分の二が、横積みされた哲学書で埋め尽くされている。  かろうじて作業が出来そうなスペースには、コーヒーカップが残されている。  中身は飲み切られていない。ミルクが浮き上がり、白い幕が張っている。  今朝淹れたはいいものの、作業に夢中で飲むのを忘れたに違いない。  研究室の他のスペースには、いくつもの本棚が並べられている。  個人図書館かと思うほどの数なのに、まだ足りないらしい。棚の上にも本が横向けに積まれていて、いつ落ちてくるかとゾッとする。 「まぁ、まぁ。座りたまえ」  木製の椅子を指差すヴィクター教授の声は弾んでいた。ここに生徒が来るのは珍しいのだろう。  教授に従い、アイザックは着席する。椅子が相当古いらしく、カタカタと不快に傾き続ける。 「それで、何が訊きたいんだ?」  書斎机の席に腰をどっしりと落としたヴィクター教授が、自信満々といった様子で眉を動かす。  おもむろに、彼はコーヒーカップに手を伸ばし、中身を躊躇いなく飲んだ。  これにはアイザックも辟易した。しかしすぐに調子を取り戻し、まっすぐな瞳で教授を捉える。 「キーガンのことです」  名前を出したのと同時に、ヴィクター教授の表情に陰が差した。  わざわざ質問をしに来たこともある生徒だ。やはり、印象に残っていたのだろう。  「キーガンか」噛みしめるように呟き、静かに頷いた。「熱心な生徒だった」 「私は、あの男の友人でした」  一瞬、ヴィクター教授が目を丸くする。 「……そうか」  しかしすぐに沈痛な面持ちになった。声も、先ほどまでの覇気を失っていた。 「キーガンがどうして退学になったのか、もちろんご存じでしょうね」 「あぁ。財布を盗んだため、退学になった」  アイザックが他の生徒から聞いた話をかい摘むと、こうだ。  ある日のことだ。『財布を紛失した』という相談が、警備たちに寄せられた。  それも一件ではない。複数の生徒……しかも貴族が、同時に財布を失くしたのだ。  (いぶか)しんだ警備たちが、学校の内外を探し回った。  そして、空の財布がキーガンのロッカーから見つかったのだった。 「私はどうしても、彼が盗みを働いたなんて信じられないのです」  アイザックは膝の上で拳を固く握った。  窃盗事件のことを知ってから、アイザックは何度も考えた。だがいつも同じ結論に至る。  キーガンは、財布を盗むような男ではない。  言動には粗が目立つものの、キーガンは真面目な性格をしていた。  ヴィクター教授もそのことは分かっているはずだから、相談しに来たのだった。 「ヴィクター教授。キーガンは、授業以外のことを貴方に話しませんでしたか? たとえば、人についての相談ごととか」 「アイザック。つまり君は、キーガン以外の誰かが関わっていると考えているのか?」  ヴィクター教授の鋭い視線。それに臆すことなく、アイザックは大きく頷いた。  財布を盗む理由は、金が欲しいからだろう。  しかしここに通う生徒は、上流階級の子ばかりだ。キーガンも商人の息子であり、金に困っているはずがない。  金以外で考えられるとしたら、貴族への恨みだった。被害に遭ったのは貴族ばかりだったから。  しかしそれならば、一番近い存在だったはずのアイザックも狙うはずだ。  どのように考えても壁にぶつかる。  キーガンの性格を抜いて考えたとしても、彼がやったとは考えられない。  わずかな沈黙の後、ヴィクター教授は深い溜息を吐いた。 「彼が盗みを働くなど考えづらい。それについては、私も同じ意見だ」  自然とアイザックの表情が明るくなる。初めてキーガンを擁護する人物に会えたからだ。 『ロッカーから財布が見つかった』  決定的な証拠に、誰もがキーガンが犯人だと信じ疑わなかった。  特に貴族らの怒りは凄まじかった。平民を学校に入れることを反対する者まで現れた。  友人を信じてくれる者は、誰もいなかった。  リジャスでさえ信じてくれなかった。  弟と友人の接点は少ない。  アイザックがキーガンとカフェで勉強していた時に、リジャスが迎えに来た。それだけだ。  「あの人のこと、残念だったね」  同情はしてくれた。しかし口調は淡々としていて、残念だとは微塵も思っていないようだった。  孤独を感じていた中、ようやく仲間に出会えた。  ヴィクター教授の背に、光が差しているように見えた。 「だが、別の人物が関わっているとも考えづらい。この学校に、盗みを働くほど金に困っている者など、いる訳がないのだからな」 「貴族に対し、恨みを持っている者がいるというのはどうでしょうか。その罪をキーガンに押し付けたのだとしたら——」  縋るように訊ねる。しかし、話の途中でヴィクター教授が首を横に振った。 「もし仮にそうだとしたら。空の財布はキーガンではなく、下位の貴族のロッカーに入れるはずだろう」  アイザックは口をつぐむ。  残ったのは、あまり考えたくない理由だった。 「……キーガン自身が、誰かに恨まれていたのでしょうか」  犯人が貴族に対し恨みを持っていた。  もしそうならば、教授の言う通り、貴族に罪を押し付けるだろう。  だが仮に、犯人がキーガンに対し恨みを持っていたとすれば、筋が通る。  キーガンに対する恨みを晴らすため、窃盗の罪を押し付けた。  盗んだ相手が貴族だったのは、罪を重くするためだ。  だが、新たな疑問が生まれる。  キーガンを恨む理由はなんだ?  深い思考へと陥りそうになる。止めてくれたのは、ヴィクター教授のひときわ大きな溜息だった。 「まったく。私は十五年ここにいるが、こんなことは初めてだ」  嘆き、冷めたコーヒーを啜る。 「キーガンからは、授業のことを訊かれただけだ。誰かに悩まされているとか、そういうのは聞いていない。それに、これ以上の証拠がない以上、キーガンのことを疑わざるを得ないんだ」 「……そう、ですか」  教授の答えに、アイザックは肩を落とす。  これ以上は何も得られないと、アイザックは研究室を辞した。 「……あ、兄さん!」  驚いたことに、リジャスの姿が見えた。  曲がり角付近から、こちらに向かって早歩きしてくる。 「探したよ。突然、いなくなるから」 「突然いなくなったのはお前だろう? お前こそ、授業の後、どこに行っていたんだ」 「その……少し、手洗いに」  はっきりとしない声で返された。  手洗いにしては、随分と長かった気がするが。  ……まぁ、こんなことを訊くのは無粋だろう。 「それより、兄さんはどうしてこんなところに来たの」  いつもより強い口調で訊ねられる。小さな子どもが駄々を捏ねているようだった。 「哲学について、教授に訊きたいことがあったんだ」  アイザックは嘘を吐いた。  友人の件で悩んでいることを、リジャスに心配されているからだ。 「……本当に?」  どうしてか疑われる。  ……まさか、キーガンの件を探っていると見抜かれたのではないか。 「本当だよ」  アイザックは隠し通そうとする。  繊細な弟に、これ以上の不安を抱かせたくなかった。  少しの睨み合いの後、リジャスが「そう」と諦めてくれた。  ふと、時刻が気になった。  紺のベストのポケットから、銀の懐中時計を取り出す。次の講義のために戻らなければならない時だった。 「リジャス、そろそろ古典の講義だ。戻るぞ」 「う、うん」  アイザックが歩き、その後をリジャスが付いて来る。 「そういえば、どうしてここが分かったんだ?」  疑問に思い、アイザックは歩きながら訊ねた。 「どうしてって、人に訊いたからだよ」  人に訊いた。  つまり、会話したのか。  学校ではまったく話そうとしないこの男が。  リジャスの成長を感じ、兄として喜ばしく思う。同時に、過保護ではないかと自分自身に呆れてしまった。  兄の後を追う途中、リジャスは哲学の研究室に冷ややかな一瞥(いちべつ)を送った。  ***  翌日のことだ。  講義をし終わったヴィクター教授は、自身の研究室に戻った。  飲みかけのコーヒーを口にし、喉を潤す。  机に着き、辞典のように厚い哲学書を開いた。  しばらくして、腹の具合が悪くなり始めた。空きっ腹にコーヒーを入れたからか。  胃の辺りをさすりながら、ヴィクター教授は腹痛をやり過ごそうとした。  しかし、体調は悪くなるばかりだった。  腹を刺激しないために、浅い呼吸しかできなくなる。体が冷えてゆく感覚があるのに、額に脂汗が浮かぶ。  まずいぞ。  そう思った時には、まともに歩けなくなっていた。  転がるように椅子から降り、床を這って廊下へ出る。  意識が朦朧とし始める。ぐわんぐわんと視界が揺らぐ。口の中に酸っぱいものが広がった。  進むたびに腹が圧迫され、呼吸すらままならない。  それでも生き物としての意地を張り、隣の研究室の扉まで辿り着く。  渾身の力でドアを叩く。何度も拳を打ち据える。  何かが、プツリと切れた。  意識は残っているのに、指先すら動かせなくなる。 「——ひっ!? ヴィクター教授ッ!? 教授……!」  聞き慣れた教授の声が遠のいてゆく。  ヴィクター教授は意識をも手放した。  ***  翌日の学校。  カフェの一席に腰を降ろしていたアイザックは、苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべていた。  すぐ近くの席にいる女生徒たちの話に聞き耳を立てながら。 「ヴィクター教授がしばらく入院することになったみたいなのよ。ひどく胃を悪くしたみたいで」 「不吉ねぇ。事故が起こったばかりなのに」 「事故って?」 「カーラって子が階段で転んだのよ。腕と足の骨を折ってしまったんですって」 「嫌だわ。なんだか、悪いことが続いてるみたい」  ヴィクター教授の入院。健康体だったあの老人が。  衝撃と同時に、アイザックは不穏なものを感じていた。  キーガンとヴィクター教授。どちらもアイザックと関わった人物だ。  ——死神にでもなってしまった気分だ。  自分と関わった者ばかりが、不幸な目に遭っている。  当然、そんな訳がない。  自分と関わると不幸になるだなんて、現実的な考えではない。  それなのに、その考えが頭から出て行ってくれない。 「兄さん? どうしたの?」  対面に座っているリジャスに呼びかけられ、アイザックは我に帰る。  いけない。弟には心配をかけさせないと、自分に誓ったはずなのに。 「いや? なんでもないさ」  本心を押し込めて、アイザックは口角を無理やり上げた。 「そう? ……そうなら、いいんだけど」  どこか不服そうに、リジャスは唇を尖らせた。心配性なのはお互いさまだ。  紅茶を飲み終え、午後の授業を受ける。  日が傾いたころ、ハリンストン兄弟は馬車に乗り込み、帰路に着く。 「ねぇ」  馬蹄の音が快く響く中、リジャスに呼びかけられた。 「ん? どうした?」  車窓を眺めていたアイザックは、顔をリジャスの方へ向ける。  リジャスの影が、座席に落ちている。  真っ赤な日に焼かれ、ハッキリとした輪郭をもったソレは、リジャスの体より大きく見えた。 「兄さんはさ。僕のこと、好きなんだよね?」  アイザックは目を瞬かせた。この質問をされるのは、いつ振りだろう。  子どものころ、よく同じ質問をされた。自分のことが好きかと。 「? ……あぁ、好きだぞ」  そのような時、アイザックはいつも「好きだ」と答える。  耳触りの良い嘘を吐こうなどとは考えていない。本心から、そう思っている。  血の繋がりはないとはいえ、たった一人の弟だ。共に過ごしてきた彼を、嫌いだと思うはずがなかった。 「そう、だよね」  自分に言い聞かせるように呟き、リジャスは目を伏せる。 「……そうだよね! 良かったぁ」  しかし次の瞬間、表情を綻ばせた。  一体、どうしたのだろう。  様子のおかしな弟を、アイザックは不思議に思った。

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