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第六話:心の砦とトマトスープ

 自室の椅子の上で、アイザックは三角座りをしていた。  夜明けの色彩を映す瞳は乾いている。  仕方ないことだ。リジャスに襲われてから、アイザックは眠っていないのだから。  寝具にはリジャスの匂いが残っている。ベッドに入れば、彼から受けた暴力を思い出してしまう。  換気をし続けたために、アイザックの自室は冷え切っている。それでも布団に入るどころか、毛布に包まることすらしなかった。  日に照らされた頬を、さらに青ざめさせる。  朝が、すぐそこまで来ている。  ——怖い。  アイザックにとって、自室は最後の砦だ。  出入り口にさえ鍵をかければリジャスは入ってこられない。ここにいれば、彼と顔を合わせることもない。  しかし朝になれば……学校に行くため、ここから出なければならない。  『嫌だ』という言葉が、アイザックの心の中で幾重にもなって響く。  リジャスと顔を合わせなければ。同じ馬車に乗り、同じ講義を受けなければ。  想像するだけで、胃がキリキリと痛みだす。昨夜のように襲われるのではないかと不安だから。 「……休みたい」  涙声が、寒々とした部屋に溶けて消えた。  アイザックの心は限界に近かった。  そもそもアイザックは疲弊しているのだ。キーガンとヴィクター教授の件を同時に抱え込んでいたのだから。  昨夜の出来事は、摩耗していたアイザックの心に、追い打ちをかけるようなものだった。  アイザックには休みが必要だ。  体を治す薬は数多くあるが、心を癒すものは時間しかない。  そう分かっていながら、アイザックは頭を横に振り、休むという考えを消し去った。  自分は次期領主だ。  父の後を継ぐため、勉強しなくてはならない。  自分の我儘と領民。どちらが大切かなんて、比べるまでもないじゃないか。  意を決して立ち上がった瞬間、血の気がサッと引いて、目の前がチカチカと光った。  アイザックは夜更かしの経験がほとんどない。一晩中起きるなんてのは初めてだった。  立ち眩みを覚えたアイザックは、椅子の背もたれに手をやり、両目を固く(つむ)って耐えた。  ***  学校指定のマントを羽織る。双肩にかかる布が、今日はやけに重く感じた。  姿見に映るアイザックの顔は、ひどいものだった。  目は腫れていて、気力を感じられない。  頬は青く、病人のようだった。  すべての準備を終わらせたアイザックは、ドアノブに手をかける。  ……が、その姿勢のまま硬直してしまう。  時計から舌打ちを浴びせられ続ける。『いい加減に出て行け』と突き放される。  意を決し、ドアをわずかに開けた。泥棒のように辺りを見まわし、ようやく一歩を踏み出した。  柔らかな朝日が窓から差し込んで、廊下全体を照らしている。  いつも通りの光景。その中で、自分の存在だけが異物のようだった。 「おはよう」  頭上からの挨拶に、マントを翻す勢いで振り返る。  最も会いたくなかった男の姿が、目に飛び込んできた。 「リ……リジャス……っ」  思わず、アイザックは退いた。  落ち着き払ったリジャスの顔に、昨夜の(おぞ)ましい表情が重なる。途端に頭の後ろがズキズキと痛み始めた。  リジャスの装いはアイザックのと同じだった。学校から指定されているのはマントだけのはずなのに。 「大丈夫? 顔色悪いよ?」  アイザックが下がった分だけ、リジャスが歩み寄ってくる。  身を守るように、アイザックは革の鞄を抱いた。  「だ——」アイザックは口を噤んだ。  この先を躊躇い、唇を噛みしめる。しかしアイザックはリジャスを鋭く見据え、言葉を紡いだ。 「誰のせいだと思う?」  シン……と、廊下が静まり返る。 「……もしかして、僕のせい?」  そう訊ね返したリジャスの口角は、わずかに上がっていた。  アイザックの中で、なにかが爆発した。  気付けば、リジャスの頬を拳で殴り飛ばしていた。  ヤツはその場でよろめいた。  左頬を覆う手の甲に、三日月のような傷跡が残っている。それは、あの冒涜的な行為の中、アイザックが付けた爪痕だった。 「あぁ……そうだよ!」  腹の底から煮えたぎる感情を声に乗せて放つ。肩を上下させ、初めて人を殴った拳を、ぶるぶると震わせながら。  ——信じて、いたのに。  六年前。彼と家族になった日から。  お前のことを、かけがえのない兄弟だと……ずっと、信じていたのに。  口端に滲んだ鮮血を、リジャスは手の甲で乱暴に拭う。  アイザックを見下ろす碧眼に宿っていたのは、さざ波のように穏やかな光だった。  怒りや憎悪のこもった目を向けられた方がマシだった。  リジャスが何を思い、何を考えているのか掴めない。兄弟として過ごした六年間のすべてが無駄だったと思うほど。 「昨日は、素敵だった」  感嘆の混じった声だった。殴られたことを微塵も気にしていない。 「戻った後、僕も我慢できなくなってさ。兄さんのことを思い出しながら——」 「言うな!」  鋭く……しかし、不安定な声で、リジャスの言葉を遮った。 「——気持ち悪い」  吐き捨てると、リジャスが不思議そうに小首を傾げた。 「どうして? 好きな人を想いながらなんて……これ以上に誠実なことなんてないよ?」  当然でしょ? とでも言いたげな口調だった。 「兄さんだって、そうじゃないの? あんなに虐めたんだもの。我慢なんてできるはずないよね?」  昨夜の記憶がフラッシュバックした瞬間、弱気になった。  ——犯された。兄弟として共に過ごしてきたリジャスに。  耐えられるはずがない。  触れられることすら嫌なのに……弟と信じてきた男からだなんて。 「……もう、やめてくれ」  震える声で懇願する。 「これ以上近付かないでくれ……俺の部屋にも、来ないでくれ!」  踵を返したアイザックは、無駄だと分かっていながら、リジャスから逃げだした。  ***  馬車に揺られる中、アイザックは頭を悩ませていた。  アイザックはリジャスのことを好いていた。兄弟として、親友として。  しかし、リジャスが抱く『好き』は、アイザックのとまったく異なるようだ。  兄弟なら、親友なら……あんなこと、絶対にしない。  アイザックは嘆き、静かな息を吐く。  隣に腰を降ろし、反対側の車窓を眺めているリジャスに気付かれないよう。  彼のことを考えているうちに、手の感触が蘇った。  四方八方から幽霊のような手が伸びて、全身をベタベタと触られているような感覚。  特に強烈に思い出したのは、性器を弄ばれた屈辱だった。  アイザックは唇を噛みしめ、叫びたくなるのを懸命に堪える。 『兄さんだって、そうじゃないの? あんなに虐めたんだもの。我慢なんてできるはずないよね?』  ——情けない。  リジャスの言っていたことは、少し当たっている。  性欲を無理やり高められた挙句、発散する直前で止められたのだ。  我慢なんて、できるはずがない。  それでも、アイザックは自分を慰めなかった。  『リジャスの手で欲情した』なんて、絶対に認めたくなかったから。  これが……この事実だけが、アイザックの心を守る砦だ。  馬車が揺れるたび、腰に乗ったままの肉欲が重くのしかかる。  ボトムスの緩やかな締めつけすら、焦らされているような快感に変わる。  ——絶対に、認めてやるものか。  苛立ちから息が荒くなる。その呼気には、わずかに熱がこもっていた。  ***  アイザックは、歴史学の講義を受けている。 「〇△☆……で、七五一年に□〇×……」  内容が、まったく頭に入ってこない。  当然だった。これまで決して夜更かしをしなかったアイザックが、初めて一睡もしなかったのだから。  まぶたが非常に重い。瞬きのために目を瞑ると、再び開けるのに相当な労力を要する。  一応、内容を書き留められてはいるものの……ひどく歪んでいるのが分かるため、後から読み返せるかどうか怪しい。 「————」  完全な暗黒と静寂の後、覚醒する。  まだ講義中だ。しかし、気を失っていた時間が、一瞬だったのか、もっと長い時間だったのか分からない。  ——もう、だめだ。  乾いた目をパチパチとさせながら、アイザックは自分自身に嫌気を覚えた。  こんな状態では、とても授業についていけない。  情けない。次期領主でありながら、居眠りをするなんて。  それ以降の講義でも、アイザックは時折意識を失った。  覚醒するたび、自己嫌悪に襲われる。  そんな中、リジャスは隣の席で、涼しい顔で教授の話を聞いていた。  ***  意地だけで講義を受け終わり、自宅に戻ったアイザックは、すぐ風呂に入った。  石けんで体を徹底的に洗う。記憶ごと汚れを落とすように。  廊下を渡る中、話しかけてこようとするリジャスを無視する。  自室に避難し、出入り口に鍵を掛ける。  ガチャガチャとドアノブを回し、開かないことをしっかりと確認した。  その瞬間、体から力が抜け、床に座り込んでしまう。  這うようにして進み、ベッドの上によじ登る。  働き者の手伝いが、今日もシーツを替えてくれたようだ。  換気をしたおかげもあり、リジャスの匂いは消えていた。  布団に潜ると、体がマットレスへ溶けてゆくような感覚に襲われた。アイザックは、深い眠りへと落ちていった。  目が覚めると、部屋が真っ暗になっていた。  ランプに明かりを灯して、時計を確認したアイザックは、自責の念を抱く。もう、今日で何度目か分からない。  今日一日、何もできなかった。  普段、アイザックは学生の手本のような生活を送っている。  講義をしっかりと受け、帰宅してからも勉強に励む。  だが、今日はどうだ。  授業内容は覚えていない。帰宅してからは、自主勉強どころか食事もしていない。  アイザックは空虚感に頭を抱えた。  その時だった。  乾いたノック音が、自室に響いた。  ——リジャスだ。  アイザックは身を縮めた。  もう眠ったと勘違いしてもらえるように。このまま立ち去ってくれるように。  「アイザック?」くぐもった声は、リジャスのものではなかった。 「大丈夫か?」 「……父さん?」  幼いころから聞き慣れた声に、アイザックは縋るように扉を開ける。 「大丈夫か」  不安げな面持ちの父から訊ねられ、アイザックは「えぇ」と反射的に頷いた。 「具合が悪いんじゃないのか」 「いいえ。ちょっと、疲れただけです」  アイザックは歯を見せて、疲労を誤魔化す。  すると、父が小さな溜息を吐いた。 「……入るぞ」  重々しい口調の彼を止められなかった。  父が勉強机の椅子に着いたので、アイザックはベッドに腰を降ろした。 「本当に、具合は悪くないんだな?」 「えぇ。熱もありませんし、どこも痛くありません」  「そうか」と呟いた後、父は何か考えるような素振りを見せた。 「アイザック。なにか、あったんじゃないのか?」  心臓が、大きく跳ねた。 「今朝、ひどい顔をしていた」  あぁ、やはりバレてしまうのか。  リジャスの件を思い出すたびに涙を流したため、今朝のアイザックの目は腫れていた。  なるべく両親に顔を合わせないようにしたものの……父は、息子の顔と様子がおかしかったのを見逃さなかったようだ。  ——言えない。  真っ先に浮かんできた悩みを、アイザックは心の奥底へ封じ込める。  『義理の弟に夜這いされた』なんて、口が裂けても言えない。  もし打ち明ければ、ハリンストン家が揺らいでしまう。  兄弟を離すため、両親が離婚するという事態にもなりかねない。  それは、絶対に避けなければならない。 「……その、学校で窃盗事件が起きたのは、ご存じでしょうか」  窃盗事件とヴィクター教授のことのみを話した。この状況で『何でもない』と隠し通せば、さらに怪しまれるに違いないから。 「……他人のことばかりだ」  主観を抜き、ただ起こったことのみを伝えた後、父にそう呟かれた。 「前からそうだった。悩み事は他人のことばかりだった。……リジャス君が家に来たばかりの頃もそうだったな」  リジャスの名前を聞いただけで、すっと体が冷える。 「家に来てからまったく話さなかったリジャス君と仲良くなりたいって言って……随分と頑張っていたのを覚えてる」  あまり彼の話をしたくないため「そうですね」と頷いて受け流す。 「心の底から他人を案じられるほど、優しく育ってくれたのを嬉しく思うよ」  「だがな」と父はやや厳しい口調で続ける。 「お前にはどうしようもない悩みを抱え込むのは違うぞ。そのままでは、心が潰れてしまう」 「……はい」  ただ首肯する。心に闇が滞り続けているのを感じながら。  少しの沈黙の後、父が明るい調子で提案してくれた。 「そうだ。何か食べないか? 腹が減っただろう?」  正直、断りたかった。  空腹は感じるものの、食事をしたい気分ではなかった。  しかしここで断れば、無駄に父を心配させるだろう。  自分の意志に蓋をして頷き、アイザックは父とダイニングに向かった。  「待ってなさい」と席に座らされる。  父がキッチンに通じる扉の向こうに行くのを、アイザックは黙って見ていた。  静寂に包まれた途端、孤独と不安感に襲われる。  今朝のように、リジャスが現れる気がしたから。  もし彼が亡霊のように出てきたら……正気を保っていられるか分からない。  我慢できず、アイザックもキッチンに入った。トマトの良い香りに鼻腔をくすぐられた途端、心が落ち着いた。  父がスープを温めている。調理台に向かう彼の背中が小さく見えた。 「待ってろって言ったのに」  振り返った父は、どことなく嬉しそうだった。 「不安なんです」 「なにが?」 「……父さんが、ちゃんと火を起こせるのかって」 「ひどいこと言ってくれるじゃないか」  苦笑する父に合わせて、アイザックもぎこちない笑みを浮かべた。 「……昔、一緒に魚釣りへ行ったろ?」  アイザックがまだ一人っ子だったころ。護衛たちを従えて、父と一緒に森近くの川へ魚釣りに行った。  あの時に食べた塩焼の香ばしさを鮮明に覚えている。 「その時に火を起こしたの、誰だった?」 「……父さんでしたね」  「そうだぞ」父が得意げに鼻を鳴らした。 「あの時、父さんにひどく脅されました。『森の奥には恐ろしい獣が出る』って」 「あぁ。そうしたら、お前は怖がって……私や護衛の傍から少しも離れようとしなかった」 「……純粋だったんですよ、私は」  父が乾いた笑い声を上げた。 「いやぁ……でも、本当に出るんだよ。クマとか、オオカミとか。……まぁ、あの場所までは、なかなか出てこないけどな」  スープをかき混ぜながら、父が「そうだ」と目を輝かせた。 「また一緒に行かないか? 今度は(エルシーさん)やリジャス君と一緒に」 「えぇ。……そう、ですね」  父が、温めたスープをよそってくれた。パンも勧めてくれたが、断った。  ダイニングテーブルに着く。  スープはトマトベースで、タマネギやニンジン、ジャガイモなどの野菜がふんだんに使われていた。  ひと目見ただけで、これは義母の手料理だと分かる。  銀のスプーンですくう。ほどよい酸味と豊かな甘みが、家庭的な温かさと共に口の中へ広がってゆく。 「旨いよな」  対面に腰掛けている父に同意を求められる。 「えぇ」  頷きながら、アイザックはさらに意思を固くした。  自分とリジャスのつまらない不和で、両親の仲を引き裂いてやるものか。

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