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第七話:弟ができた日
アイザックがまだ十二歳だった頃。
「アイザック、おいで」
自室にいたアイザックは、静かな声で父に呼び出された。
まだ三十代だった父の頭には白髪が無い。しかし疲労のために老けて見えた。
父に手を取られ、アイザックは廊下を歩いてゆく。
木の葉が擦れ合う音に、アイザックは窓を見上げる。
若葉と昼空の対比が、アイザックの目には暗く沈んでいるように映った。
ハリンストン邸の色彩は、母と共に失われた。
アイザックの実母が病で亡くなったのは、およそ一年前のこと。
一旦、気持ちの整理は付けたつもりだ。
しかし時折母のことを思い出しては、無性に切なくなってしまう。
それは父も同じであるはず。
妻を失ってからというもの、父はあまり笑わなくなってしまった。
微笑みかけてはくれるものの……それは無理をしてやっと作った顔だと、子どもながらにアイザックは分かっていた。
応接室の前で立ち止まる。まだ幼いアイザックには、入ることすら許されていなかった場所。
巨人のように建つ扉を前に、アイザックは息を呑む。
この先にいる人たちと……家族になるのだから。
父がドアをノックして開けると、母とその息子の姿が目に入った。
母は、どこか悲しげな面持ちのまま、アイザックたちに頭を下げた。
暗い色のワンピースに、光を集めたような金色の髪がキラリと映えた。
——この人が、僕の新しいお母さんになるんだ。
最初、父は新たな妻を迎え入れようとしなかった。
再婚することに対し、天国の妻に申し訳なさを抱いているようだった。
アイザックもまだ多感な時期であり、心に悪影響を及ぼす可能性まで考えていたらしい。
しかし、父の想像以上にアイザックは大人だった。
領主として、支えとなる人が必要だと分かっていた。
それに……父がこれ以上何かを抱え込んで、沈んでゆくのを見たくない。
再婚の話が出た時、アイザックはむしろ喜んだ。
新たな母となる人には息子が一人いる。
つまり、兄弟ができるのだ。
領主の子どもであるアイザックには、常に多くの制約が付きまとう。
周りも大人ばかりで、とてもアイザックと対等に遊んでくれる存在にはなってくれない。
兄弟となる少年も十二歳。
アイザックと親友のような存在になってくれるに違いない。
「この方はエルシーさんだ」
父はまず、手のひらを使って女性を指した。
「お前の新しい母様になるんだぞ」
「はじめまして、アイザック君。これからよろしくね」
エルシー……新しい母が、視線を合わせるように身をかがめる。
どこか寂しげな目元を綻ばせて、穏やかな声で挨拶してくれた。
——優しい人だ。
アイザックは握っていた拳を解いた。
父の再婚を喜んだとはいえ、新しい家族に不安を覚えていたのも事実だった。
だがこの人となら、すぐに打ち解けられそうな気がする。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。お……エルシー、さん」
彼女を『お母さま』と呼ぶのを躊躇い、アイザックは頬を赤らめる。
そんなアイザックの様子に、父は口角を緩やかに上げた。
「そしてこちらがリジャス君だ。お前の兄弟だぞ」
次に、父は子どもを指す。
少年はソファの隅に座ったまま、クマのぬいぐるみを抱いて俯いていた。
紹介されても、リジャスはその姿勢のままピクリとも動かない。
「ほら、リジャス? ご挨拶なさい」
実の母に促されると、リジャスはさらに視線を下へ向けた。
横から覗く目は泣き腫らして、痛々しい。
義母はわずかに肩を落とし、アイザックと向き合った。
「ごめんなさいね。父が亡くなってから、ずっとこんな感じなの……許してちょうだいね」
『父』という単語に反応したリジャスが、クマを抱く腕に力を込めた。
腹を締め付けられたクマの頭に数粒の涙が落ちる。
それをアイザックは見逃さなかった。
リジャスに釣られて鼻の奥がツンとなった。
少年のプライドで、グッと涙を堪えた。
母が亡くなってからしばらくは、自分もリジャスと同じ状態に陥った。
母の話を聞くだけで、あの人の温もりと死を同時に思い出し、自然と涙が溢れてしまう。
似た経験をした者として。
これから兄弟になる者として。
彼を放っておけないと思った。
*
父が義母と正式に結婚したことで、アイザックとリジャスは兄弟となった。
やはり、アイザックは義母とすぐ打ち解けられた。
いつも義母は食事を自分の手で用意してくれた。
これほど美味しいご飯が毎日食べられるなんて幸せだと思った。
しかし一方で、リジャスとは仲を深めるどころか、会話すらできていない。
アイザックは定期的にリジャスの部屋を訪ね、ボードゲームやボール遊びに誘った。
しかし一言も話してくれず、ただ睨まれるだけなので、いつもアイザックの方が折れてしまう。
そんなある日のこと。
リジャスと彼の父について、アイザックは義母に訊ねた。
兄弟と仲良くなるために、過去を知る必要があると感じたから。
義母の話をまとめると、こうだ。
数か月前、リジャスの父は事故によって亡くなった。
馬に乗って移動している中、突然体勢を崩して落ちたのだという。
それを目撃した人によると、「胸を押さえていたので、急性の心臓病だったのでは」ということだ。
リジャスは父が大好きで、いつも傍にいたらしい。
「そろそろ親離れしてくれないとな」……リジャスが眠った後に、そう父がこぼす程だったようだ。
カードの束を片手に持ち、アイザックはリジャスの自室を訪れた。
硬い床の上に座り込んだリジャスが、クマのぬいぐるみを抱えている。
相当可愛がられたらしく、クマの生地は擦り切れている。
右手や左耳、足が破れたようで、新しい生地で修復されていた。
右目にはリンゴのアップリケが縫い付けられ、左目は白いボタンになっている。
——この子の本当の目はボタンなのだろうか。
アイザックはわずかな疑問を抱く。
この手のぬいぐるみの目は、ガラス製であることが多い。
もしかすると、この子は本当の目をどちらも失って、代わりを付けられたのかもしれない。
クマと目が合ってしまう。
無機質で、虚ろな視線に捉えられる。
少年期特有の想像力から、アイザックはクマの気持ちを読み取ってしまう。
『この子に近付くな』
強い拒絶を感じ、アイザックは半歩下がる。
背中に嫌な汗が伝い、足に蔓 が絡んだように動けなくなる。
……ダメだ、こんなんじゃ!
アイザックは心の中で自分を激励する。
このまま下がり続けたら、一生リジャスと打ち解けられない。
この状態は、彼にとっても、家族にとっても良くない。
更に深く気分が落ち込めば、もう心の底から笑えなくなってしまうだろう。
それに、仲良くなりたかった。
せっかく兄弟になれたのだから。
カードの束をキュッと握り、リジャスの近くに座り込んだ。
「ねぇ。一緒に遊ばない?」
楽しげになるよう気を払い、声を弾ませる。
しかしリジャスは答えてくれない。向けられる鋭い視線に拒絶される。
それでもアイザックは引かない。この程度はもう慣れている。
「仲良くなりたいんだ。お願い、ね?」
リジャスから目を逸らさず、姿勢を低くして頼み込むが……やはり彼は何も答えてくれない。
このままでは埒が明かない。
どう転ぶか分からないが、アイザックは更に突っ込んだ話題を振ることにした。
「そのクマちゃん、可愛いよね」
一瞬、リジャスは狼狽えた。
アイザックを冷たく見据えていた目を下へ向けた。
「名前は付けてるの?」
「……アイビー」
アイザックはびっくりした。リジャスが初めて喋ったから。
自分から訊ねておいて驚くなんて。とアイザックは自嘲する。
その笑みには、リジャスの言葉を引き出せたという達成感も混じっていた。
「そうなんだ。……可愛い名前だね」
アイザックは座り直し、話を聞く姿勢を示す。
しばらく俯いていたリジャスが顔を上げた。彼の表情からは、怯えが見て取れた。
「ねぇ。どうして、ボクに話しかけてくるの」
「仲良くなりたいからだよ。だって、兄弟だもん」
「キミは兄弟なんかじゃない」
「僕は兄弟だって思ってるよ」
沈黙の後、再びリジャスから言葉を投げかけられる。
「簡単に、兄弟なんて言わないでよ。……ボクのこと、何にも分かんないクセに」
「そうだね。けれど、クマちゃんのことなら知ってるよ」
アイザックは、はにかんだ。
クマのことを話したばかりのリジャスは、アイザックの様子に少し呆れているようだ。
「アイビー。誕生日に、お父さまから貰ったんだよね?」
義母からの情報を出すと、リジャスは目を伏せた。
「……知ってるの?」
「うん」コクリと頷く。
「知られたくなかったなら、ごめんなさい。僕からお母さまに訊いたんだ」
『だから怒るなら僕にして』とアイザックは暗に伝える。
「……そう」
再び訪れた沈黙を破ったのは、アイザックだった。
「大好きだったんだね。お父さまのこと」
「……うん」
蚊の鳴くような声で頷かれる。
「僕もね、亡くなったお母さまのこと、大好きだったんだ——」
アイザックは思い出を話し始めた。
両親が屋敷内で仕事をしている中、突然母が恋しくなり、泣き喚いたこと。
母が淹れてくれたホットチョコレートが美味しかったこと。
母の誕生日に似顔絵を描いたら喜んでくれたこと。その絵をずっと部屋に飾ってくれていたこと。
その間、リジャスは一言も挟まず、ただ静かに話を聞いてくれた。
「僕のお母さま、病気になっちゃったんだ。しばらくベッドに寝たきりで……そのまま、亡くなっちゃった」
ほっと溜息を吐いて、アイザックは続ける。
「多分……リジャス君よりは、辛くなかったと思う」
「どうして?」
「お母さまが近いうちに亡くなっちゃうって、分かってたから」
もう、母は長くない。
そう父から暗い顔で聞かされた後、アイザックは自室に閉じこもり、わんわん泣いた。
ようやく涙が止まった後、アイザックは母とたくさん話そうと決意した。
亡くなったら、もう二度と会えない。
大切な人を失った経験のなかったアイザックも、それだけは分かっていた。
せめて、たくさんの思い出を残したい。
いつか色褪せて、消えていくとしても。
思い出があれば、この先も前を向いて生きていける。
「後悔はないよ。本当はもっと一緒にいたかったし、悲しかったけれど……でも、話したいこと、全部話せたから」
迷いのない声で、アイザックは言い切った。
「でも、リジャス君は、お別れもできなかった。できるわけがなかったんだもん」
アイザックは想像する。
いつも通り父が出かけたのに、帰って来なかったとしたら……
当然、亡くなるなんて微塵も思っていない。そんな中、死を突き付けられたら……
自分はきっと、母が亡くなった時以上の衝撃を受け、打ちひしがれるだろう。
「お母さまが亡くなるって聞いてたから、覚悟ができてたんだ。ちゃんと、お見送りもできたからね」
アイザックは母が亡くなるのを知っていたため、後悔しないように行動できた。
「でも、リジャス君には、そんな時間なんてなかった。もっとやりたいこととか、話したいこととかあったと思う」
一方で、リジャスは父が亡くなるなんて想像すらしていなかったはずだ。
心の準備をする間もなく、死という事実を押し付けられたのだろう。
「だから……ええと、リジャス君のほうが辛いと思うんだ」
アイザックなりに寄り添ったつもりだ。
だが、この話が、今のリジャスにとって良かったのか分からない。
『簡単に、兄弟なんて言わないでよ。……ボクのこと、何にも分かんないクセに』
確かにアイザックはリジャスのことが分からない。
アイザックはアイザックで、リジャスではないからだ。
だが、分からないなりに共感し、抱きしめることはできる。
アイザックが話し終えた後、リジャスは一言も発さなくなった。
これからカードゲームをしようと誘える雰囲気でもなくなってしまった。
「……また、話しに来るね」
アイザックは立ち上がり、暗い部屋を後にした。
***
翌日。
アイザックはボードゲームを小脇に抱え、リジャスの部屋を訪れた。
窓から望むハリンストン家自慢の庭を、リジャスはじっと眺めていた。
「リジャス君」
無邪気な声で呼びかける。
「ボードゲームしない? これ、面白いんだよ」
窓際に立っていたリジャスが振り返った。
寂しげな瞳の美しさに、少年アイザックもドキリとしてしまう。
「……それ、知らない」
「僕が教えてあげる」
リジャスが頷き、窓から離れた。
アイザックの前に立った彼は、次の言葉を待っているようだった。
「遊んで、くれるの?」
アイザックは目をパチパチさせる。
「君から誘ったんじゃん」
「そ……そうだね、そうだね!」
アイザックは何度も首を縦に振った。
自然と声が弾み、血色のよい頬を緩ませてしまう。
「じゃ、ルール教えるね。まずはこのコマから——」
この出来事をキッカケに、二人の仲は更に深まった。
最初はアイザックから誘うばかりだった。
だが次第に、リジャスから話しかけられることも多くなった。
ゲームやボール遊び、勉強に食事……。
多感な少年期を共にしたハリンストン兄弟の絆は、何者にも打ち砕かれない。
自分はそう思っているし、弟も同じ気持ちだろう。
——そう、アイザックは信じていた。
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