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第八話:月から天使が降ってきた

 哲学の講義を受けた後、アイザックは学校併設のカフェで休憩することにした。  ヴィクター教授の代わりを務めたのは彼の孫で、祖父と同じく研究者だという男だ。  壁際の席に着いたアイザックは、紅茶と一人の時間を楽しんでいた。  今のアイザックにとって、最も落ち着く場所はハリンストン家ではない。  学校だ。しかも、哲学の授業が終わった後という、限定された場合のみ。  この時間帯になると、リジャスは薬学の講義を受ける。  ほんの数時間程度だが、絶対にあの男から脅かされないという安心感は、何物にも代えがたい。  ふと顔を上げると、あるものが目に入った。  クラブ会員募集のポスターだ。  この学校には、いくつかのクラブがある。  数名の生徒が集まって、演劇や乗馬、フェンシングなどを楽しんでいるようだ。  その中で、アイザックはロングポームに興味を惹かれた。  トリケという木製のラケットで、革で作られた球を打ち合うスポーツだ。  昔、自宅の庭でやったことがある。  一人ではできないので、御者のイーソンに付き合ってもらって。  無性に懐かしくなったアイザックは、ロングポーム・クラブを覗くことにした。  ***  本校舎から図書館へ行くには、庭の通路を行く必要がある。  そこから少し離れた所で、ロングポーム・クラブは活動していた。  庭に一本の縄が張られている。それを境に、二人の青年がボールを打ち合っている。  トリケが唸る。跳ね返された球が、空を裂きながら弧を描く。  実際のプレイを間近で見ていると、懐かしい記憶が蘇った。  まだ幼かった頃の話。イーソンを相手に、球を打ち返す練習をした時のことだ。  いつまで経ってもアイザックは空振りしかできなかった。  イーソンから休憩を提案されても、意地になったアイザックは駄々を捏ねた。  繰り返し、何度も何度も練習した。  天高く登っていた太陽が沈みかけた頃、ようやく打ち返すことができた。  とても嬉しくなったアイザックは、燃えるような日に包まれながら、イーソンと強く抱きしめ合ったのだった。 「おや、アイザック様」  クラブ活動を見ていたアイザックは、背後から声をかけられた。  たった今トリケを持って校舎から出てきた彼は、まさにスポーツマンといった男だった。  彼の彫刻を英雄像の中に混ぜられても、きっとアイザックは気付けないだろう。  それほど大柄で、かつ上品な男だ。  アイザックは彼の名前を知っている。  入学当初、ハリンストン兄弟に挨拶をしてきた者の一人だから。 「フォスターだったね?」  呼んだ途端、フォスター青年が笑窪(えくぼ)を作った。  焼けた肌と白く整った歯が対比を生み出している。 「覚えてくださっていたのですか!」    彼の親は、葡萄酒製造ギルドの総代だ。  広大な畑とワイナリーを何代にも渡って所有している。  この前父と飲んだ葡萄酒も、彼の家が管理している醸造所で作られたものだった。 「アイザック様はロングポームにご興味が?」 「あぁ。昔、やったことがある」 「なら一戦、やりませんか?」  「ぜひ」とアイザックは口角を上げて頷いた。  貸してもらったトリケを手に馴染ませるよう振ったり握ったりしながら、アイザックは顔を上げた。  縄を隔てて向こう側にいるのはフォスター。  試合の場に立ったアイザックの目には、彼の姿が闘牛のように映った。  これは強敵だぞ。アイザックは身構えた。 「いきますよー」  間延びした声で合図を送ってくれたフォスターの腕は、木の幹のようだった。  緩やかなサーブが飛んでくる。アイザックはフォスターに倣い、優しく返した。  自分は今、実力を探られているんだ。  お遊びのようなラリーを続けながら、アイザックはそう思った。  次第に球足が速く、鋭くなってゆく。  喰らいつくアイザックの額には、汗の球が浮かんでいた。  打ち返す直前、フォスターが笑顔を見せた。一見爽やかなそれは、スポーツマンとしての好戦的な顔だ。  大きく振りかぶった青年の一打が、銃声に匹敵するほどの音を伴い、こちらへ向かってくる。 「うぉ……っ!」  なんとか受け止めたものの、トリケ越しに衝撃を受け、両手がじんじんと熱くなる。  打ち上げられたボールが間抜けな軌道を描き、太陽と重なった。  それでもフォスターは狼狽えず、凛々しい目をわずかに細め、冷静に打ち返す。  アイザックは反応できず、ついに球を落としてしまった。 「なかなかお強い!」  フォスターの言葉に闘争心を煽られる。  負けている相手に対し「強い」と言うなんて、なかなか無神経じゃないか。  勉強熱心なアイザックだが、ただ机に齧りついていた訳ではない。  それなりに運動もしてきたアイザックは、それなりの負けん気も持っているのだ。  試合は続けられた。  アイザックとフォスターは、点を取り、取られを繰り返す。 「凄いな、あの方」  試合を終え、隅でアイザックらの様子を見ていた青年の一人が、そうこぼした。  フォスターとの試合の中、アイザックは笑っていた。  心の底から楽しいと思えたのは久しぶりだ。  リジャスに襲われたことで、アイザックは精神的に追い詰められていた。  そんな中での激しい運動が、頭からリジャスのことを追いやってくれたのだった。  結局、わずかな差でアイザックはフォスターに負けてしまった。  ——悔しい。  敗北を認めた瞬間、腹から嫌な感情が溢れ出す。  同時に、前向きにもなる。  次こそは彼を打ち負かしてやると。 「どうです、もう一戦」  額の汗を手の甲で拭ったフォスターに誘われる。  何とも子憎たらしい男だ。勝った末に、これほど眩しい笑みを浮かべるなんて。  いつの間にか、アイザックはフォスターに友人の面影を重ねていた。  時計に目をやったアイザックは、「いや」と頭を振った。 「嬉しいが、そろそろ戻らなくてはいけなくてね」  思わず長引いてしまった。もしもう一度試合すれば、リジャスを待たせてしまうことになるだろう。  ヤツのことを思い出した途端、腹がずんと重くなる。  ——まるで、俺があの男のために行動しているみたいじゃないか。  いや、違う。  リジャスのためではなく、迎えに来てくれるイーソンのためだ。  「そうですか」  フォスターの表情が、わずかに悲しげになった。  後ろ髪を引かれるようなその顔は、飼い主を見送る犬に似ている。 「またいつか、貴方と手合わせしたい」  これは社交辞令ではない。心の底から、アイザックは彼と再戦したいと願っている。  途端にフォスターは表情をパッと明るくした。 「ええ、ぜひ! この週の、この時間帯には必ずいますので。正式にこのクラブに加わることも検討してくだされば嬉しいです」  人懐っこい笑みに見送られながら、アイザックは図書館に入った。  ***  リジャス・ハリンストンは学校の図書館に入った。  こちらを見て頬を赤らめる女生徒には一瞥(いちべつ)すらやらない。  紙とインクの匂いに、新鮮な空気が混ざり合った。  哲学の講義を受け終わった兄は、図書館にいることが多い。  勉強熱心な彼は、待ち時間も無駄にしないのだ。  背の高さを利用して館内を見回す。  アイザック・ハリンストンの姿が、きらきらと輝いて見えた。  珍しいことに、今日は小説を読んでいた。  長机に腰を降ろし、漆黒の長いまつげを瞬かせている様は、どこからどう切り取っても絵になる。  感嘆の息をわずかに漏らしたリジャスは、他の者には目もくれず、兄の向かいに浅く座った。 「兄さん」  よほど集中していたらしい。呼びかけてようやくアイザックはリジャスの存在に気付いた。  勢い良く顔を上げたアイザックは、狼狽えながら身を縮こませた。 「あ、あぁ」  アイザックが閉じた小説のタイトルを、リジャスは頭に一瞬で記録する。  後ほど、自分もこれを読まなければならない。  兄の好きな物はすべて把握しなければならないからだ。 「珍しいね、小説なんて」  訊ねても、「まぁ、な」という曖昧な返事しかもらえない。  ずっとそうだ。あの夜、愛し合ってから……。  リジャスは後悔していた。  互いに覚醒している状態で触れ合うのが嬉しくて、つい虐め過ぎてしまった。  アイザックは兄だ。  ただ一方的に何かされるなんて、プライドが許さないのだろう。  ——だから、あんなことを。  半ば狂気じみた力で打たれた頬にそっと触れる。  あの痛みが、今は消えてしまったのが口惜しい。 「……帰ろうか」 「うん、帰ろう」  リジャスはアイザックに合わせて立ち上がった。  拳の他にも、リジャスはアイザックから報復を受けている。  彼が自室に鍵を掛けるようになってしまい、入れてもらえなくなったのだ。  ——なんて可愛い人なんだろう。こんな幼稚な方法で、僕を焦らそうとするなんて。  兄の後ろを歩きながら、彼の頭頂部に視線をやるリジャスは、緩やかに口角を上げた。  『兄と自分は愛し合っている』……リジャスはそう信じて疑わない。  ***  リジャスを連れたアイザックは図書館を後にした。  庭の青い匂いを感じながら、本校舎へ続く道を歩いてゆく。  ——視線を、感じる。  アイザックは身震いする。  毛虫が肌の上を這いまわるような嫌悪感に。  昔から、リジャスに見られることが多かった。  ちらりと視線を送られるのではなく、長い時間じっと見つめられるのだ。  兄弟から離れたくないという不安からくる行動だと思っていたが……。  今になって考えれば、まったく違うのだろう。  ヤツはきっと、私のことを恋人のように想っている。だから私を目で追い続けているのだ。  昔から、ずっと。  突然、風が吹いた。思わず身を強張らせてしまうほど強烈な。 「危ないッ!」  一瞬立ち止まった時、庭の方から鋭い声が飛んできた。  間もなく、頭に衝撃を受ける。  視界が揺らぎ、意識が遠のく。  倒れそうになった体を、誰かにしっかりと受け止められた。 「アイザック様、大丈夫ですかっ!?」  視界に白いものが重なる中、声をかけられる。  アイザックを見下ろし、顔を青ざめさせているのはフォスターだ。  そうか。先ほどの衝撃は、ロングポームの球だったのだな。  あの競技のボールは石のように硬い。動物の毛を強く巻き付けた芯に、革を張りつけて作られるからだ。  先ほどの風で、球を打つ手が狂ったのだろう。それがたまたまアイザックの頭に直撃したのだ。 「……っ!」  突然、フォスターが体を硬直させた。  化け物に遭遇したかのように、口元を臆病に震わせている。  一体、どうしたのだろう。  彼の視線は、アイザックの上を通過している。  アイザックは虚ろな眼球を動かして、化け物の正体を見つけた。  リジャスだ。  憎悪の念が、溶岩のような粘度を持って、彼の全身から溢れ出している。  海のように穏やかだった双眸は、今や津波のような暴力性を有していた。  信じられない。リジャスが……こんな目をするなんて。  鞭打たれたような衝撃を受けたアイザックは、手放しかけた意識を取り戻した。  そして、リジャスに体を抱き止められているのに、ようやく気付いた。 「あのさ——」 「いい! やめろ!」  文句を言おうとするリジャスを制し、アイザックは彼の胸から離れた。  「でも——」次に口を挟んできたのはフォスターだった。「頭に、当たって。怪我とか、その」  狼狽したフォスターの言葉は要領を得ない。  仕方ないことだ。他人に怪我を負わせてしまうのも不味いのに、それが領家の人間だなんて。  フォスターに対し、アイザックは微笑んで見せる。 「大丈夫だ。咎めたりなんかしないさ。それに、怪我なんてしなかったから……な?」  下手な言い訳を、アイザックはほとんどリジャスに向けて話した。  時間はかかったものの、リジャスを落ち着かせることに成功し、その場を収められた。  それでも、アイザックは不安を抱かずにはいられなかった。  あの時のリジャスの目は……異常だったから。  ***  それから数日後の夜のこと。  どうしても水が飲みたくなり、階下に降りたアイザックは、神妙な面持ちで話し合っている両親の姿を見つけた。 「不味いな。よりによって今——」  うまく聞き取れない。  しかし、良くない話をしていることだけは分かった。  アイザックは、二人に声をかけた。 「アイザック……」  憂いの目を父から向けられた途端、嫌な予感が腹を下ってゆく。 「……何か、あったのですか?」 「お前は、フォスターという青年を知っているか?」  彼の名を聞いた瞬間、みぞおちの辺りに鉛のような重さを感じた。 「……葡萄酒ギルドのですか?」  訊ねると、重々しく頷かれた。  ——この先を、聞きたくない。  身が凍えるような嫌悪感を抱いた次の瞬間には、父に言葉を紡がれた。 「その青年が……先ほど、亡くなった状態で見つかった」  ***  フラフラとした足取りでアイザックは自室に戻った。  布団に包まり、父から聞かされた話を思い出す。  フォスターは、どういう訳か森の中で見つけられた。  死因は頭部に与えられた打撃。  彼が発見された森には、獰猛な獣が出る。  ところどころ喰われていたため、クマあたりがフォスターを襲ったのだろうとのことだ。  ——どうして。  どうして、こんなことに。  アイザックが通学するようになってから、不運なことばかりが起こっている。  窃盗事件に教授の休養。そして、死亡事故。  この前、アイザックは馬鹿げた想像をした。  『自分が死神にでもなったみたいだ』と。  ——実際、そうなのかもしれない。  突然降ってきた妄想に、アイザックは叫びそうになった。  今思い返せば、これらの不運の直前には、共通する出来事が起こった。  キーガンが退学に追い込まれた直前、アイザックは彼と勉強していた。  熱中し過ぎたために、リジャスが迎えに来るまで続けてしまった。  ヴィクター教授が病に伏す前、アイザックは彼の研究室を訪れた。  部屋を辞した直後、自分を探しに来たリジャスと出会った。  フォスターが亡くなる前、アイザックは彼が打ったボールにぶつかった。  倒れそうになった自分の体を受け止めてくれたのは、リジャスだった。  その時、アイザックは初めて見た。  彼の悪魔のような目つきを。  ……嘘だろ? そんな、あり得な——。  ——ドン。  コテージの方から、何か重いものが落ちたような音が聞こえた。  咄嗟に上体を起こしたアイザックは息を呑む。  全身を温めてくれていた血が、一気に蒸発してしまったかのような感覚に襲われた。  月光を背に受けたリジャスが、コテージに立っていたから。  天使のように微笑む彼は……右手に、ナイフを持っていた。

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