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第十話:包帯と末代
助かった……?
殺され……なかった……!
リジャスが自室から去った後のこと。
天井を見上げていたアイザックは目を伏した。
熱いものが耳の辺りを流れてゆく。
まだ正気を保てている。
呼吸のリズムを乱しながらも、アイザックはそう自覚していた。
——だって、ずっと、恐怖を感じていたじゃないか。
リジャスはコテージから侵入してきた。
ここは二階なのに。まるで、空から降ってきたみたいに。
それだけでも恐ろしいのに、彼はナイフを握っていた。
殺される——何度か死を覚悟したのは、リジャスに対する疑念のため。
とにかく、片付けなくては。
接着剤を剥がすような苦労をして、アイザックは体を起こした。
冷めた風呂に入って体液を完全に洗い流す。
窓を開け、滞っていた精の臭いを外へ追いやる。
白濁の痕が残るシーツを乱暴に引っ張った瞬間。
「い……っ!」
右手首がズキンと痛んだ。思わず唸り、手を放す。
そうだった。リジャスから逃げた時にベッドから落ち、捻ってしまったんだ。
片付けを通して落ち着きを取り戻し始めたアイザックは、ようやく痛みを覚えたのだった。
手当をしなくては。
ガウンを羽織ったアイザックは、ランプを持って自室を出た。
真っすぐな廊下の奥には闇が巣食い、そこから幽霊が飛び出してきそうだ。
それでもアイザックは微塵も恐怖心を抱かない。
アイザックにとって恐ろしいのは幽霊ではなくリジャスだ。
あれほど触れ合ったのだ。満足して、今ごろは自室に籠っているだろう。
眉根に皺を寄せたアイザックは、ランプを頼りに廊下を渡る。
手当に使う包帯はリネン室にしかなく、その扉には鍵が掛けられている。
開けるためには、まず義母を訪ねなければならない。
階段を降りたアイザックは扉を叩いた。
非常識な時間ではあるが、まだ起きているだろう。
「義母 さま。アイザックです。開けてくださいませんか」
少しして、ドアの向こうからガウン姿の義母が出てきてくれた。
「アイザックさん。一体、どうしたの?」
彼女が不思議そうに目を瞬かせる。
アクアマリンのような瞳からは、リジャスとの血の繋がりを感じた。
「実は……その、ベッドから落ちて手首を捻ってしまいまして。手当をするためにリネン室の鍵を貸して欲しいのです」
「まぁ」彼女の顔に憂色が重なった。「見せてちょうだい」
言われた通り、アイザックは右手を差し出した。
患部は赤く腫れていた。ドクドクと脈を打ち、熱を持っている。
「痛かったでしょう? ……アイザックさん、私も一緒に行くわ」
義母の提案に、アイザックは首を横に振った。
「大丈夫ですよ。ただ、鍵を貸してくだされば。遅い時間なのですから」
「ダメよ」
ぴしゃりと言われる。
「自分で手首に包帯なんか巻けないもの。手当してあげるわ」
優しい声の中には、有無を言わせない強引さがあった。
そうだ。いつも父はこれに負ける。そんな男の息子が彼女に勝てる訳がない。
負い目を感じながら、アイザックは小さく頷いた。
母の後を追うように階段を上がり、廊下を北側へと進む。
「ベッドから落ちるなんて。アイザックさんもおっちょこちょいなのね」
義母が鈴を転がすような声で笑う。
アイザックは彼女に合わせたが、苦々しい笑みしか浮かべられなかった。
リネン室に通じる扉は、廊下の突きあたりにポツンと建っている。
昔、アイザックはこの場所が苦手だった。
鉄格子に阻まれた小さな窓しかなく、常に薄暗いから。
子供の頃のアイザックはお化けを恐れていた。
夜になると一人で廊下を渡ることも出来ず、母や手伝いに付き添ってもらっていたほどだ。
そんなアイザックにとって、リネン室の暗さはまさに恐怖の対象であった。
義母が鍵束をカチャカチャと鳴らす。その中から一本見つけ、扉を開けてくれた。
ランプの灯りでぼんやりと照らされたのは、堆く積み上げられたリネンの群れ。
義母は上の棚から細長く切られた布を見つけ、持ってきてくれた。
「ほら、手ぇ出して」
言われた通り、アイザックは右手を差し出す。
「ねぇ、アイザックさん。最近、学校は楽しい?」
包帯を巻く義母に訊ねられた。
——楽しいとは思えない。
キーガンの退学。ヴィクター教授の病。
そして……フォスターの死。
「はい」と、アイザックは気持ちを押し込めて頷いた。
「……そう」
義母は小さな溜息を吐いた。
「あの学校、なんだか怖いのよ」
領主の妻である彼女もまた、学校で起きた出来事を把握しているのだ。
「なんだか、悪魔でも住み着いてるみたいで」
その言葉を聞いたアイザックは、わずかに口元を引き攣らせた。
悪魔の正体が……彼女の息子かもしれないから。
不幸が起こる直前、共通して起こったことがある。
それは、アイザックがその人物に関わったこと。
そしてそのことをリジャスに知られたこと。
——まさか。俺と関わった人に嫉妬し、恨んでいるのでは。
いや、あり得ない。
アイザックは恐ろしい疑念をズタズタに切り裂いた。
たったそれだけのことで他人を破滅に追い込むなんて狂っている。
だが……もし、窃盗事件の真犯人がリジャスなのだとしたら。
教授との対話の末、アイザックは『キーガンが誰かに恨まれていた』という考えに至った。
何者かが貴族たちの財布を盗み、罪をキーガンに押し付けたのだと。
もし、それがリジャスの仕業だとしたら。
恨んだ理由が俺なのだとしたら……筋が通る。
しかしヴィクター教授の件とフォスターの件が分からない。
ただの青年が他人の健康を害したり……ましてや、殺したりなんてできる訳がない。
それに、ヴィクター教授に嫉妬するなんておかしいだろう。
彼は老齢で、アイザックとは祖父と孫くらいの年齢差があるのだから。
——そうだ。リジャスにそんなことできる訳がない。
アイザックは自分に言い聞かせ続ける。
「ほら、できた」
義母の優しい声によって、アイザックは意識を現世へと引き戻される。
右手首には包帯が丁寧に巻かれていた。
ほどよい締め付けから、抱きしめられているような安心感を覚える。
「ありがとうございます」
礼を言うと、義母が「いいのよ」と笑った。
花が咲いたような、可憐な表情だった。
「ねぇ。最近、リジャスとはどうなのかしら?」
ヤツの名前を耳にしたアイザックは、内心狼狽える。
当然、言えるわけがない。
『つい先ほど、貴女の息子に夜這いされました』だなんて。
「えぇ。……変わらず、仲良くやってますよ」
「良かった」そう呟いた後、義母の表情に陰りが差した。
「あの子には、友達はいるの?」
アイザックは記憶の糸を辿る。
彼が誰かと雑談している所なんて、見たことがない。
「私が知っている限りでは、その——」
「そう。じゃ、いないわね」
どうにかして義母を安心させようとする前に、彼女にそう断言された。
「あの子、昔からそうなのよ。絶対に誰とも仲良くなろうとしなかったわ……父以外とは」
彼女の言葉の裏に、『自分も良く思われていない』という諦観が潜んでいる。
「唯一、貴方だけなのよ。リジャスとうまく関われているのは。だから……どうか、これからも仲良くして頂戴ね」
義母の表情は複雑だった。
憂いと嘆きを包み隠し、無理やり笑っているような顔だった。
子どものいないアイザックには想像するしかないが……相当、不安なのだろう。
これから先、うまくやれていけるのかと案じている。
誰よりもリジャスの気質を知っている母だからこその悩みだ。
『えぇ。任せてください』……昔なら、そう言って胸を張れたのに。
ハリンストン兄弟の関係は既に破綻している。
そしてそれを両親は知らない。知られてはいけない。
『お前なんて嫌いだ』
そう吐き捨てて、離れられる存在だったら良かったのに。
「えぇ。わかりました」
気持ちを奥底へと封じ込めながらアイザックは頷いた。
自室に戻ったアイザックは小さな溜息を吐く。
ついでに新しいシーツを持ってこようと思っていたのだが、義母がいたおかげで叶わなかった。
こんな夜にシーツを替える理由が思いつかなかった。
まさか精液で汚したなんて言えない。
父ならば笑って済ませてくれるだろう。しかし義母にはどのような反応をされるか分からない。
夜尿したなんて嘘も吐きたくない。
次期領主たる男が漏らしたなんて……もし信じられたら、末代までの恥さらしだ。
——末代。
アイザックの頭に、この言葉が妙に重々しくのしかかった。
跡継ぎを残すのも領主の大切な役目だ。
しかし、リジャスの件を解決しないうちに結婚なんて出来るわけがない。
このままでは俺が末代なんてことに……。
いや。もう、考えるのはやめよう。
アイザックはマットレスの上に直接寝転がった。
***
予想に反し、学校は普段と変わらない雰囲気を纏っていた。
噂話をしている生徒ももちろんいたが、大半は何ごともなかったかのように振る舞っている。
それは恐らく、事件が校外で起こったからと、亡くなったのが平民だったからなのだろう。
休憩時間中のこと。
アイザックは校舎と図書館を繋ぐ道へ出た。
やはり、ロングポーム・クラブの面々はいなかった。
「図書館に行くの?」
アイザックの後ろを歩いていたリジャスに、平然とした声で訊ねられる。
「……あぁ」
振り返りすらせず、アイザックは肯定した。
ロンブポーム・クラブの様子を見たかっただけだと正直に話すのが怖かったから。
***
帰宅すると、父の姿があった。
「父さん。ただいま帰りました」
「あぁ、おかえり」
言葉に反し、父の表情は暗く神妙だった。
「二人とも。ちょっと、応接室まで来てくれないか」
父からの招集を受け、心臓が重々しく跳ねる。
リジャスと共に呼び出されるなんて、入学前以来だ。
——まさか、関係がバレてしまったのではないか。
二人の間柄は徳に反している。
男同士且 つ家族であるにも関わらず、性的な繋がりがあるのだから。
一方的とはいえ、これは許されざる行為だ。
昨晩、アイザックは声を上げてしまった。
射精直後のペニスを乱暴に扱かれて、堪らず喘いでしまったのだ。
まさかそれを聞かれたのではないか……。
内心恐れながら、アイザックは応接室のソファに腰を降ろした。
「実はな、二人とも——」
父の言葉を待ち、唇を噛みしめた。
膝の上で拳を握り、目視では確認できないほど小さく震わせる。
「王都まで行かなくてはならなくなった」
アイザックは拍子抜けした。
父は公務のために家を空けることも多い。
領地の巡回や視察。近隣の領地との外交。王都で行われる御前会議への出席などによって。
「国王が崩御された」
「——え」
アイザックは目を瞬かせる。
亡くなった国王は若く、その子どもはまだ十歳にも満たなかったはずだから。
——あぁ、あれはそういうことだったのか。
昨晩、両親が話し合っていたのをアイザックは思い出した。
『不味いな。よりによって今——』
父の言葉は、フォスター青年の不穏な死と、国王崩御が重なったことに対するものだったのだ。
「誰が摂政を務めるかを決める会議が開かれる。それに私も参加しなくてはならない」
ここまで聞いたアイザックは息を呑む。
国の大事に気を取られ、自分にも危機が迫っているのに気付かなかった。
父が王都へ旅立つなら、その妻も付いて行くことになる。
つまり……しばらくの間、この屋敷はアイザックとリジャスの二人だけになる。
両親共に屋敷から離れるというのは何度もあったし、アイザックもリジャスも既に慣れている。
それでもアイザックは、両親が王都へ出立するのをひどく恐れた。
この男だけと日々を送るだなんて、考えるだけで身の毛がよだつ。
両親は屋敷にいてくれるだけで抑制力となる。
二度行われた暴力。そのどちらでも、リジャスは親たちに知られないよう立ち回っていた。
しかし彼らがいなくなり、止めてくれる人がいなくなれば……!
「アイザック?」
父に視線を向けられ、ハッとする。
「どうしたんだ」
「……いえ」
アイザックは首を重々しく横に振った。
「やはり……フォスター君のことが気になるのか?」
絶妙なところを突かれ、アイザックは少し狼狽えてしまう。
父自身、不可解な死が起きたばかりのこの時期に、領地から遠く離れるのは不安なのだろう。
「この前も言ったが……これは、お前にはどうしようもない話だ。悲しいことだが、そう塞ぎ込むな」
「……はい」
とても明るく振る舞えず、アイザックは少し俯いたまま返事をした。
「大丈夫ですよ、オリバーさん」
それまで黙っていたリジャスが場の空気を変えた。
アイザックは仰天し、悩みの種に視線をやる。
——あぁ。やはり、この機会を逃すまいとしているみたいだ。
頼もしそうな笑みの奥で、邪悪な企てを膨張させている。
少なくとも、アイザックの漆黒の目にはそう映った。
「兄さんには僕が付いていますから」
リジャスが傍にいてくれるなら、どれほど心強いだろう。
……もう、そのようには思えない。
アイザックの心など知らない父は大きく頷いた。
リジャスの凛とした顔に、すっかり気を許しているようだ。
「あぁ、そうだな。……頼むぞ、リジャス君」
「はい」
手の内が不快に湿るのを感じながら、アイザックは二人の会話を聞くしかできなかった。
***
リジャスはご機嫌だった。
鼻歌を歌いながら廊下を渡っている。足取りは軽やかで、今にも踊り出しそうだ。
自室に入った。棚にちょこんと座っていたクマのアイビーを抱き上げる。
「ねぇ、聞いてよ」
リジャスはアイビーに話しかけた。赤子をあやすように高い高いしながら。
「オリバーさんがさ。王都に行くんだって。母さんを連れてさ。だから、しばらく兄さんと二人きりになれるんだよ」
アイビーを胸に抱きながら、上ずった声で話を続ける。
「『頼むぞ、リジャス君』だってさ。……兄さんを頼むって! ねぇ。こんなに嬉しいことってある? 兄さんを……ふふっ、頼むってさ!」
義父の言葉を繰り返しながら屈託なく笑う。
ダンスを踊るように何度かクルクル回った後、リジャスはベッドへ身を投げた。
その姿はまさに少年だった。
「……ねぇ、アイビー」
真剣な声で呼びかけるリジャスの頭には、兄と自分の姿が浮かんでいる。
「僕たち、よく我慢できたと思わない? オリバーさん……いや、義父 さんも認めてくれたし……もう、いいよね?」
当然、答えは返って来ない。
「——うん、そうだよね!」
しかしリジャスは頷き、パッと表情を明るくした。
「楽しみだなぁ……やってあげたかったこと、いっぱいあるんだぁ……えへへ」
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