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第十一話:兄ができた日

 リジャスがまだ十二歳だった頃のこと。  母に手を取られながら、リジャスはハリンストン家に足を踏み入れた。  外壁は古びているものの、手入れがされており、趣を感じられる。  両開きの門をくぐると、瑞々しい生け花や、歴史を感じさせる調度品に出迎えられた。  リジャスくらいの年頃の子なら「お城みたいだ」とはしゃぐかもしれない。  しかし彼はクマのぬいぐるみを片腕で抱いたまま、眉ひとつ動かさなかった。  親子は手伝いに案内され、応接室に通される。  リジャスは黒革張りのソファの隅に腰を降ろし、ぬいぐるみを膝に座らせた。 「————」  人を待つ間、何度か母に話しかけられた。  しかしそれをリジャスの耳は雑音として処理した。  リジャスは心の底から母を軽蔑していた。その理由は彼女の再婚にある。  父が亡くなってから一年も経たないうちの出来事だった。  ——父さんのことを愛してなかったんだ。嘘吐き。母さんなんて死んでしまえ。  ドアをノックする乾いた音が虚しく響いた後、二人組が入ってきた。  一人は中年で、もう一人はリジャスと同じくらいの少年だった。  どちらも間抜けそうだ。ちらと見ただけでリジャスは思った。  特に中年の男には嫌悪感を抱いた。  着ているものは立派で、地位と教養の高さを思わせる。  しかし全身から疲労が滲み出ていて、頼りないように見えた。  父さんはそうじゃなかった。  頭の良さと精悍さを兼ね備えた、非常に立派な人だった。  こんなくたびれた男が、あの人の代わりになるだなんて到底思えない。  立ち上がり礼をする母に倣わず、リジャスは座ったまま俯く。  こんな奴らに、敬意を払うほどの価値なんてない。 「————」 「————」  全員の声が聞こえない。  ……いや、『聞こうとすらしていない』と表現する方が正しい。  昔からそうだった。  リジャスは他人とは絶対に仲良くしようとしなかった。  リジャスの体にも高貴な血が流れている。……とはいっても、随分と昔に没落した家の血だが。  そのため扱いが平民とほぼ変わらない。  近所の子どもと遊ばされることもあった。  自身も未成年ながら『なんて子どもは馬鹿で汚いのだろう』と思った。  痴呆的な顔で野原を駆けまわり、平気で泥と汗にまみれるのだから。  おまけに物事が思い通りに進まないと癇癪を起こす。  こんな恥知らずどもと遊ぶくらいなら、家で読書をする方が数百倍もマシだ。  子どもと同じくらい大人も嫌いだ。  それなりに若いのは、無鉄砲でくだらない事件を起こしたりする。  それなりに年を取っているのは、偉そうな顔をして説教などをする。  老人は最悪だった。  こちらをただの子どもと思い、むやみに可愛がり、いつの物か分からない菓子を寄越すのだから。  ——父さんだけだ。本当に愛し合っていたのは。  あの人は素敵だった。  落ち着いていて、常識的で、偉ぶらない。  休みの日になると一緒にカードゲームをしてくれたり、面白い話を聞かせたりしてくれた。  独り占めしたくて、家にいる時はほとんど彼の傍から離れなかった。  ——それなのにどうして。どうして、父さんはボクを残して逝ったのだろう。  腫れた目から熱が溢れる。  水をわずかに含んだスポンジを無理やり絞るようなものだった。  白目が充血して炎症を起こしても、涙はとめどなく流れる。  誰の声も聞かず、誰の視線も気にせず……リジャスは父の死を嘆き続けた。  ***  ——これで、良かったんだわ。  リジャスの母エルシーは自分に言い聞かせ、静かに息を吐いた。  再婚の話を伝えてからというもの、リジャスは自分と目すら合わせてくれなくなった。  その理由をエルシーは痛いほど分かっていた。  彼女が再婚したのは、リジャスが考えているような不徳な理由からではない。  愛する夫が遺したリジャスを立派に育てるためだった。  エルシーには教養があった。貴族の家で侍女となれば、それなりに生きてゆけるだろう。  しかし、その賃金で子どもを育てるなんて不可能だった。  彼がお腹にいた頃から、与えられる限りの愛情はすべてあの子に注いだ。  それなのに、金銭的な理由だけのために彼を放すなんて……考えるだけでぞっとする。    ——せめてあの子だけは守りたい。そのためならば、どれほどあの子から嫌われても良い。  そんな想いで、エルシーは再婚したのだった。  ***  母があの男と正式に結婚したことで、リジャスは『ハリンストン』を名乗ることとなった。  家も、教育も、食事も、ベッドも。  すべてが生家より豪華だったが、大切なものが欠けていた。実の父が欠けていた。  寂しさを埋めるように、リジャスはクマのぬいぐるみに固執した。  これはリジャスが五歳の誕生日を迎えた時、父から与えられたものだ。  リジャスにとって、この子だけが友達だった。  今日もアイビーと戯れていると……自室の扉が何度か叩かれた。  向こうから現れたのは、アイザック・ハリンストンだった。  母と結婚した男の子どもで、リジャスとは三ヶ月ほどしか年が離れていない。 「ねぇ。一緒に遊ばない?」  またか。とリジャスは心底うんざりする。  一緒に本を読もうとか、庭でボール遊びをしようとか、アイザックは定期的にリジャスを誘いに来るのだ。  繰り返すが、リジャスは子どもが嫌いだ。  特にアイザックのような、のほほんとした表情の子どもは。  どうせ『みんなとなかよくしましょう』とか大人に教えられて育ったのだろう。  そんなの、ただの幻想に過ぎないのに。 「仲良くなりたいんだ。お願い、ね?」  ほら、やっぱりだ。  無視していると、アイザックが口を開いた。 「そのクマちゃん、可愛いよね」  初めてぬいぐるみのことに触れられたリジャスは狼狽えた。  アイビーだけがリジャスの友だちであり、唯一の弱点でもあるからだ。  この子がいないと不安で仕方なかった。  寝る時はもちろん、外出する時も、自室で過ごす時も、勉強する時も。  家庭教師から『勉強中はぬいぐるみを手放しなさい』と口を酸っぱくして言われても、リジャスは頑なにアイビーを傍に置き続けた。  そうでないと孤独で押し潰され、首を絞められているような息苦しさを感じるから。 「名前は付けてるの?」  「アイビー」答えた直後、リジャスはびっくりした。  こんな奴に答えてやる必要なんてないのに。……自然と、ぬいぐるみの名前を口にしてしまった。  「そうなんだ。……可愛い名前だね」  目の前に座り込んだアイザックの顔を見上げる。  彼の優しげな表情に実父の面影が重なった。一瞬の出来事だった。 「ねぇ。どうして、ボクに話しかけてくるの」 「仲良くなりたいからだよ。だって、兄弟だもん」 「キミは兄弟なんかじゃない」 「僕は兄弟だって思ってるよ」  アイザックの口ぶりに腹が立った。  血の繋がりなんかないくせに、兄弟と名乗らないで欲しかった。 「簡単に、兄弟なんて言わないでよ。……ボクのこと、何にも分かんないクセに」 「そうだね。けれど、クマちゃんのことなら知ってるよ」  アイザックに微笑まれた。突き放してやったつもりなのに。  なんて馬鹿なことを口にするのだろう。アイビーのことなら、さっき言ったばっかりじゃないか。 「アイビー。誕生日に、お父さまから貰ったんだよね?」  ——あの女め。  リジャスは目を伏せ、実母エルシーを恨む。 「知られたくなかったなら、ごめんなさい。僕からお義母さまに訊いたんだ」 「……そう」 「大好きだったんだね。お父さまのこと」 「……うん」  父のことで嘘を吐けず、リジャスは小さく首肯した。 「僕もね、亡くなったお母さまのこと、大好きだったんだ——」  アイザックは実母の話をした後、こう言い切った。 「多分……リジャス君よりは、辛くなかったと思うんだ」  リジャスは驚いて「どうして?」と訊き返してしまう。  自分の方が不幸だと話す者は多いが、自分の方がマシだと言う人は少ないから。 「お母さまが近いうちに亡くなっちゃうって、分かってたから」  「ふふ」と鼻を鳴らしながら、アイザックは口角を緩やかに上げた。 「後悔はないよ。本当はもっと一緒にいたかったし、悲しかったけれど……でも、話したいこと、全部話せたから」  どこか寂しげな笑みには、迷いを感じられない。 「でも、リジャス君には、そんな時間なんてなかった。もっとやりたいこととか、話したいこととかあったと思う。だから……ええと、リジャス君のほうが辛いと思うんだ」  アイザックの言葉が少しずつ心に沁み始めている。  彼の言葉は、あながち間違っていないように思えた。  父が亡くなったと知らされても、リジャスはその意味をうまく理解できなかった。  あの人の死を実感したのは、亡骸を見た時だった。  眠っているようだと思った。  しかし顔には血色がなく、触れてもあの温もりを感じられなかった。  ようやく死というものを知ったリジャスは、胸を中心に体がズタズタに切り裂かれるような思いになった。  それから、後悔をいくつも背負った。  もっとこうすれば良かった。もっと甘えればよかった。  それはまだ小さな体では支えきれるものではなく、どんどん沈んでしまった。  初めて、誰かに気持ちを分かってもらえた気がした。  自分が抱えていた辛さを理解してもらえたような……。 「……また、話しに来るね」  そう言って立ち上がり、自室から去ったアイザックの背中を、リジャスはいつまでも眺めていた。  ***  リジャスがアイザックに心酔するようになるまで、そう時間はかからなかった。  アイザックは他の子どもとは変わっていた。  話は整然としている。無駄に走り回ることも、癇癪を起こすこともない。  そのうえ彼はよく遊んでくれた。兄と一緒にいる時だけは、孤独を忘れられることができた。  ある夜のこと。 「お父さま。僕にも少し——」 「駄目だ、アイザック」  アイザックは、ダイニングテーブルに着いているオリバーに(たしな)められた。  リジャスはその光景を、ほんの少し離れたところで見ていた。 「まだお前には早い」  オリバーは片手にワイングラスを持っている。  その中で揺らめく赤い飲み物を見つめると、甘酸っぱいブドウジュースの味が口に広がった。 「では、いつになったら飲ませてくださるのですか」  アイザックは少しだけ頬を膨らませる。  それはリジャスが嫌うチャイルディッシュな仕草であった。  しかしそれをやっているのがアイザックだと、なんだか愛おしく見えてくる。 「大人になったらだ」 「じゃあ、僕も早く大人になりたいです」  頬に酒気を帯びたオリバーが大笑いした。 「ハハハハハ……! そうかそうか。大人は良いぞぉ。大人になったら、学校に通って——」  一瞬、彼は口を(つぐ)んだ。  しかし次の瞬間には、なにかを懐かしむように微笑を浮かべた。 「ルイーザと出会ったのも学校だった」 「お母さまと……ですか?」  アイザックは丸い目を瞬かせた。 「あぁ。もしかしたらお前も……そういう人と出会えるかもな」  一連の話を聞いたリジャスは、胸の内がざわめくのを感じた。  眠る時間になり、布団に潜っても、一度抱いた不安は消えない。  むしろますます膨らんで、鳳仙花(ホウセンカ)のように破裂しそうになった。  ——アイザックが他の女に取られる?  リジャスは想像してしまう。  成長したアイザックが女と出会い、結婚し、家庭を築く姿を。  ——絶対に嫌だ!  リジャスは胸の中で叫び、目を固く瞑った。  居ても立っても居られなくなったリジャスは、アイビーを小脇に抱え、寝巻き姿のまま自室から飛び出した。 「ねぇ、兄さん、起きてる!?」  手の甲でドアを連打し、アイザックを呼び出す。  すぐに兄は出てくれた。  既に驚きを顔に貼りつけていたアイザックは、リジャスの姿を見るなり目を見開いた。 「リジャス? もう、ガウンも羽織んないで……一体どうしたの?」 「ねぇ——」  肩をわずかに上下させながら、リジャスは言葉を紡ぐ。 「一緒に寝てほしいんだ」 「……悪い夢でも見たの?」 「……うん」  そうだ。彼がいつか結婚するなんて、悪い夢だ。 「分かった。いいよ、おいで」  アイザックは嫌な顔ひとつせず迎え入れてくれた。  同じベッドに寄り添うように寝転がる。  寝具からは兄の匂いがして、それだけで心が少し落ち着いた。 「リジャスも悪い夢なんて見るんだね」  アイザックは無邪気に笑った。 「一体、どんな夢だったの?」 「……兄さんが、遠くにいっちゃう夢」 「僕が?」  リジャスは頷き、アイザックの胸に潜り込んだ。  兄のハグからは実父と同じ温もりを感じた。 「大丈夫だよ、リジャス。僕は遠くに行ったりなんかしないよ」 「……本当?」  上目遣いで訊ねると、頼もしい様子で頷かれた。 「うん。ずっと一緒だよ」 「ボクのこと、好き?」 「もちろんだよ」  そこまで聞いたリジャスは、ようやく心の底から安堵した。  ——あぁ、兄さんも、自分とおんなじ気持ちなんだ。  くすぐったくなるような良い心地に浸りながら、リジャスは夢の世界へと旅立った。  アイザックとリジャス。リジャスとアイザック。  そうだ。ボクたちは二人でひとつなんだ。  ボクたちの関係は夫婦よりも崇高なものなんだ。  兄さん。  僕だけの、素敵な人。  兄さんのためなら……なんだってできる。

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