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第十四話:リジャス・ハリンストン

 リジャス・ハリンストンはキーガンを退学まで追い込んだ。  ——ざまあみろ。僕の兄さんに近付いた罰だ。  ひとりの人間を破滅させてもなお、リジャスの心に罪の意識は芽生えなかった。  リジャスにとって兄以外は有象無象に過ぎない。  ただの肉袋が幸せになろうが不幸になろうが関係のないことだ。  だがキーガン——あの男だけは、許せなかった。  平民のくせに。頭が悪いくせに。顔も良くないくせに。  あの完璧なアイザック・ハリンストンに近付こうとするなんて。  兄だって、迷惑だと思っていたに違いない。  キーガンを「友人」と呼んだのは温情からだ。  決して安っぽい繋がりを感じたからではない。  言葉を交わさずともそれくらいは分かる。兄弟なのだから。  アイザックとリジャス。  リジャスとアイザック。  愛情で結ばれた僕らの間には、何者も入れさせやしない。  それから少しの間は平穏な日々を送ることができた。  地政学の講義を受けた後、≪あの女≫を見かけた。  いつだったか。図書館で兄さんに熱の籠った視線を送っていた女だ。  こいつにも痛い目に遭ってもらわなければ。  リジャスは女の後を追った。  女という生き物は信用できない。  人を本気で愛せないヤツらだから。  僕の母親みたいに。  ヤツが階段を降りようとした時。  ——今だ。  心の中で叫び、リジャスは背中を押した。  女はバランスを崩した。耳をつんざくような悲鳴を上げて、階段をゴロゴロと転がってゆく。  最後には踊り場に突っ伏した。  馬車に轢かれたカエルみたいな姿勢のまま、ピクリとも動かなくなった。  ——いい気味だ。  ちらと女を見降ろした後、リジャスはすぐその場から立ち去った。  廊下を渡り、別の階段から一階まで降りる。  地政学を受けた講堂の中を探しても、兄の姿を見つけられない。  ——しまった。アイツに気をとられ過ぎてしまった。  講堂で待つように言っておけば良かったと(ほぞ)を噛む。  これ以上なく気が進まないが、リジャスは他の生徒に兄の行方を訊ねることにした。  必ず兄を探さなければならない。キーガンのような者から唆される前に。  研究室が立ち並ぶ廊下まで辿りついたリジャスは、また過ちを犯したことを知った。  兄が、研究室から出てくるところを目撃したのだ。 「……あ、兄さん!」  思わず駆け寄った。 「探したよ。突然、いなくなるから」 「突然いなくなったのはお前だろう? お前こそ、授業の後、どこに行ってたんだ」 「その……」  リジャスは少し戸惑った。  兄には真実を知られたくない。  故意に人を傷付ける。その罪の重さをリジャスは分かっていたから。  領家の人間とはいえ、自分は養子だ。  兄の傍に居続けるには『良い子』であり続けなければならない。 「少し、手洗いに」  だから嘘を吐いた。 「それより、兄さんはどうしてこんなところに来たの」 「哲学について、教授に訊きたいことがあったんだ」  ——哲学?  リジャスが受けていない科目であったが、その教授のことは知っていた。  風邪を拗らせたとき、兄が面白そうに話してくれたのを覚えていた。  ——まさか、僕がいない間、研究室の中で二人きりだったの……?  途端に不安が沸いてくる。  何度でも繰り返すが、兄は非常に魅力的だ。  兄弟になってから六年ほど経つが、未だに彼の美貌にクラっとくるほどだ。  そんな兄さんと二人きりだなんて……正気を保てる訳がない。 「……本当に?」  訊ね返す。  一瞬だけ目を逸らされた。  その瞬間、不安が憎悪へと姿を変えた。 「本当だよ」  ——嘘だ。  兄さんは優しいから、そんな嘘を。  絶対に、あの老人に何かされたに違いない。  なんて気持ち悪いのだろう。  兄さんが逆らえないと分かっていながら迫るだなんて。  ヤツにも報復をせねば気が済まない。  後悔させてやる。兄を穢したことを。  その日の深夜。リジャスは屋敷を抜け出した。  先端にフックを付けたロープを自室のコテージに引っ掛け、それを伝って地面まで降りる。  庭や門には護衛たちがいるものの、ヤツらの目をかいくぐるなんて簡単なことだ。  静まり返った街の中を進む。小道を通って空地へ出る。  子供たちが遊ぶような場所だが……ここに生えている草を精製すればステキなことが起きる。  リジャスは十分な量を摘んで自宅に戻った。  すぐに精製を始める。必要な器具はもう買い揃えてあった。  そうしてできた液状の毒薬を懐に忍ばせて、リジャスはヴィクター教授の研究室に入った。  ありがたいことに、ヤツも部屋に鍵を掛ける習慣がなかった。  入った途端、コーヒーの酸っぱい臭いがした。  机を見ればカップが置いてある。  なんて汚らしいのだろう。まだ中身が入っているじゃないか。  こんな男に兄さんは……。  憎悪を滾らせ、リジャスは小瓶の中身をすべてコーヒーの中に投入した。  まったく、愉快だ!  あのヴィクターが腹を壊して入院したらしい。  年寄りのくせに、兄さんに近付くからこうなるんだ。  ……しかし、不安だ。  兄さんに近付いてくる者はそれなりにいると分かっていた。  けれど、これほど多いとは。  兄さん自身も不安なのか、最近は何か思い詰めたような表情を浮かべている。  ……もう、これ以上は待てない。  兄さんと素敵なひと時を過ごした翌朝。リジャスは殴られた。  残念なことに傷痕は残らず消えてしまった。  もう少し強くぶってくれれば良かったのに。  その傷跡を見れば、兄さんとの繋がりをいつでも感じられるから。  あの夜は素敵だった。  けれど兄があれほど恥ずかしがりだとは思わなかった。  少し愛撫しただけなのに、兄はずっとあの夜のことを反芻(はんすう)し、恥を覚えているようだ。  ——本当に、可愛らしい人だ。  あの夜以降、リジャスは兄からささやかな復讐を受けていた。  いつもは掛けていなかった鍵をしっかり施錠するようになったのだ。  締め出して焦らす事で、リジャスの反応を楽しんでいるのだろう。  アイザックの思惑を見抜いたリジャスは、兄を想いながら自慰に耽る日々を過ごしていた。  今日、兄が怪我を負わされた。  リジャスは憎悪を抱いた。胸に灯った炎は帰宅しても衰えなかった。  自室の机に着く。  たまたま手元に鉛筆があった。その両端を握り、へし折った。  不注意のために傷付けた手のひらをじっと見ながら、リジャス自身困惑していた。  これほど激しい感情を抱いたのは、父が亡くなって以来初めてだ。  もしあの時、兄に止められなかったら……確実にヤツに暴力を振るっただろう。  いや。それだけでは足りない。  聡明な兄の頭を傷付けた罪が、殴る蹴る程度の罰で済んでいい訳がない。  今回は倒れそうになったくらいで済んだものの、当たり所が悪ければ、頭に障害を負ったり、死んだりしたかもしれないのだ。  ……やはり、ヤツを許す訳にはいかない。  たとえ兄さんが咎めなかったとしても。自分は……自分だけは、ヤツの罪を許してはいけない。  ジンジンと疼く手を握り締める。壁を鋭く睨んだリジャスは、黒の決意を胸に宿した。  ハリンストン領には森がある。  この場所について、リジャスは実の父からこう言い聞かされていた。 「あの森の近くには行ってはいけないよ。あそこには怖い獣がたくさん出るからね」  深夜。森の入り口にて、リジャスはランプすら持たずに人を待っていた。  ——来た。  草を踏みしめる音を聞いたリジャスは顔を上げた。  ランプを持った男が、こちらに近付いてくる。  どうやらこの男はフォスターというらしい。  立派な体躯を縮こませて顔を青ざめさせている。  自分の立場はしっかり弁えているようだ。  ただの平民が、次期領主であるアイザック・ハリンストンを傷付けた。  過失だとしても、その罪は重い。  兄や義父がその気になれば、ヤツの家を文字通りめちゃくちゃにできるだろう。 「……アイザック様は」 「屋敷で休んでる。頭を酷く打ってすぐ外出なんかできる訳ないだろ」  黒い外套(がいとう)のポケットに手を突っ込んだまま、淡々と答える。  フォスターがさらに体を小さくした。  ヤツの様子に鼻を鳴らしてリジャスは続ける。 「大ごとにしたくない。君だってそうだろうし、僕たちもそうなんだよ。だから今回だけは不問にする」  そう言ってやった途端、フォスターの表情に光が差した。 「どうせ事業は君が継ぐんでしょ? ……言いたいこと、分かるよね?」  「えぇ」とフォスターは何度も頷く。  彼の顔と声は、物を恵んでもらった乞食のようであった。  馬鹿な男。  ハリンストン家にちょっと融通を利かせるだけで許してもらえると思うだなんて。 「分かったら行って。これ以上話すことなんて無いから」 「は、はい。かしこまりました」  フォスターは深々と礼をした後、体の向きを百八十度変えた。 「あぁ、気を付けて。靴紐、解けてる」 「へ?」  フォスターの意識が自分の足に向いた時。  ——ゴンッ。  鈍い音が、森のざわめきに重なった。  完全な暗闇の中。  リジャスは≪ヤツ≫に馬乗りになっていた。  ポケットに隠し持っていた石を使い、の頭部を何度も打つ。  何度も。何度も。何度も。  硬いものを砕く乾いた音が、規則的なリズムを刻む。  ベチャ。ベチャ。ベチャ。  水っぽいものが重なる。  ヤツがとっくに息絶えているのは分かっていた。  ——あぁ。なんて、悔しいんだろう。  一撃で仕留めるしかなかった。大声を上げさせる訳にはいかなかったから。  生と死の狭間を彷徨わせ、兄さんを傷付けたことを地獄の果てまで後悔させてやりたかった。  腕を大きく振りかぶる。  憎悪で瞳をギラつかせながら、それを肉塊へ叩き付けた。  顔に生温かいものが掛かった。鉄の臭いに頭がぐらぐらする。  その最中、リジャスは高揚感を覚えていた。  殺人鬼が抱くような下卑た感情では決してない。  この崇高な想いは、主の敵を討った騎士のそれに似ていた。  ——後は、任せよう。  獣どもが汚物を喰らいにやって来る。  旨そうな臭いが充満しているのだから。  近くの川で鮮血を洗い落とす。  丹念に顔を清め、凶器を投げ捨てる。  コートを脱ぐ。これだけはこの場で遺棄する訳にはいかない。  折を見て焼却炉に放り込もうと決意し、リジャスはフラフラとした足取りでその場から立ち去った。

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