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第十五話:凶器は我が手に
自宅の手洗いでアイザックは咳き込んでいた。
便座から顔を上げて虚空を睨む。
胸を上下に揺らすアイザックの瞳には剣呑な光が宿っていた。
「ぐ……うぅ、っ」
昨晩の記憶が異臭を伴いアイザックに襲い掛かる。
「ゲホ……ゲホッ! ゲホッ、ゲホッ!」
喉に滞る悪感情を追い払うように咳き込む。
胃酸で焼けた器官がジリジリと痛み、筆舌し難い不快感が這い回った。
胸がむかつく。貧血かのように頭がくらくらとする。
アイザックはまた吐いた。
「はぁ、はぁ……ッ、あ、あぁぁあぁ……!」
両手で頭を掻きむしる。
油汚れのように付着した記憶を削ぎ落すように。
それはほとんど自傷行為であった。
アイザックにとって、今や自分すら憎悪の対象になっている。
この身は穢れてしまった。
せめて相手が他人だったら良かったのに。
どうして、兄弟である男にこれほど執着されなければならないんだ。
俺が、なにをしたって言うんだ。
アイザックは個室の中で座り込み、震える体を抱くように腕を回した。
……人間というのは悲しい生き物だ。
高度な知性を持ち合わせているはずなのに、最終的には暴力に行きつく。
それは高等教育を受けているハリンストン兄弟も変わらない。
……リジャスに敵うだろうか。
だってアイツは……人を……。
「ッ!」
アイザックは壁に頭を打ちつけた。
本能的な恐怖によって手加減したはずなのに、重苦しい痛みが頭の中心まで伝わった。
——どうして、こんなことに。
自分はただ、彼と仲良くなりたかっただけだ。
兄弟として、親友として。
それがどうして、こんなことに。
いや、それだけではない。
リジャスは……弟は、取り返しのつかない罪を犯した。
ただの青年フォスターを、殺した。
キーガンやヴィクター教授の件については確信できていないものの、彼がなにかしたのは間違いないだろう。
数々の人間を破滅させた。
そしてそう至った原因は自分にある。
リジャスのことを何も知らないまま、軽率に三人に近付いてしまった。
自分は、死神なのだ。
リジャスという武器をコントロールできない死神なのだ。
——大丈夫。俺はまだ正気だ。
だって、この頭と胸が痛いと叫んでいるじゃないか。
大丈夫。大丈夫。
アイザックは自分に言い聞かせるように何度も繰り返す。
「兄さん?」
扉の奥から聞こえた声に、心臓が冷たく跳ねた。
「大丈夫?」
「……いや。吐いてしまった」
「え?」と頓狂な声が返ってくる。
思い当たる節しかないはずだ。
「医者を呼ぶように言ってくるよ。兄さん」
医者はすぐにやってきた。
アイザックは自室のベッドに身を横たえて、大人しく診察を受ける。
部屋の隅にはリジャスと手伝いのラナがいて、こちらを心配そうに見ている。
本当は、ここに他人を呼びたくなかった。
この部屋で性行為が行われたと気付かれないか不安で仕方ない。
今だって、ベッドに身を横たえているだけなのに、リジャスの匂いをかすかに感じるのだから。
「胃が荒れているようですな」
白髪頭の医者が呟いた。
「……食事のせいでしょうか」
ラナが不安げに訊ねる。
「そうだとしたらリジャス様も腹を壊したでしょうな。まぁ、心因性の胃腸炎でしょう。アイザック様が学校に通われてまだ数か月しか経っていない。ご両親の不在も重なって疲れているのでは」
ストレスによる胃荒れ。まったく、この医者は優秀だ。
粉末状の整腸剤を貰ったアイザックは、ベッドの上で医者を見送った。
ラナに水を持って来てもらい、さっそく薬を飲み下す。
「もう出て行っていいよ」
淡々とした口調でリジャスはラナに命じた。
「はい。かしこまりました」
——待ってくれ。この男と二人きりにさせないでくれ。
アイザックは言葉を飲み込んだ。
もし助けを求めたら、ラナが次の被害者になってしまうかもしれないから。
静々と部屋を辞す彼女の姿を、アイザックは指を咥えて見ているしかなかった。
「良かったよ。今日が休みで」
部屋の隅に立っていたリジャスが、二人きりになった瞬間動き出して、ベッドの上に腰を降ろした。
「兄さんが体調を崩しているのに、勉強なんてできるわけないから」
アイザックは何も答えない。もう、この男と口も利きたくない。
「……それで、誰なの?」
……誰?
あまりにも脈絡のない言葉に、アイザックは思わず顔を上げた。
「心因性の胃腸炎って言ってたよね? 学校で、嫌がらせでも受けてるんじゃないの?」
そう訊ねるリジャスの表情は真剣そのものだった。
「……お前。本気で、言ってるのか」
自然と言葉が漏れる。しかしリジャスは小首を傾げるばかり。
「本気で……って、もちろんだよ」
頤 を手で支えられ、顔をさらに上げさせられる。
「兄さんは完璧な人だからね。地位もあるし、顔だって綺麗だし……なにより、これ以上なく優しいから。勝手に僻むヤツだって出てくると思うんだよね。……で、誰なの。兄さんのストレスの原因は」
——自分が原因だって少しも疑わないのか。
アイザックはまた言葉を飲み込んだ。
もし言い切ってしまえば、昨日のように襲われかねない。
「違う。虐められてなんかない。ただその、父さんたちがいないから、不安で」
「嘘だ。……だってこんなこと初めてじゃん。オリバーさんたちが家を空けるなんて珍しいことじゃないのにさ」
リジャスに手を取られる。薬を飲んだはずなのに、また胃がキリキリと痛みだす。
「ねぇ、誰かに虐められたんでしょ? 誰? 僕が懲らしめてやるからさ」
アイザックは手を振り解いた。
「出て行ってくれ」
静かだが強い口調に、部屋が静まり返る。
「……兄さん?」
「頼むから」
しばらくして、リジャスは諦めたように自室から去った。
***
夜がまたやってきた。屋敷の中はハリンストン兄弟だけとなった。
「ねぇ、兄さん? どこにいるの?」
リジャスの声を聞き、アイザックは身を震わせた。
アイザックは今、ダイニングテーブルの下にいる。
床に届くほど長いクロスが掛けられているため、めくられなければ見つかることはない。
まさか今日も誘ってくるとは思わなかった。
リジャスが言うには『セックスはストレス発散に良い』らしい。
まったく、ふざけた男だ。
こんな物まで渡してくるなんて。
アイザックは薬包を握り締めた。中にある黒い丸薬は、即効性のある下剤らしい。
兄弟で愛し合うために飲んでもらいたいようだ。
後で捨てようと決意しながら、アイザックは薬を寝巻きのポケットに突っ込んだ。
どうにかして、この場から立ち去りたい。
リジャスから身を隠すには、この場所はお粗末だ。
不意を突かれて咄嗟に逃げ出したために、ここしか隠れ場所を思いつけなかった。
——いや。逃げて隠れるだけなんて駄目だ。
自分には弟を止める責任がある。
リジャスのことを外部の人間に伝え、彼のことを徹底的に調べてもらう必要がある。
殺人の証拠が見つかれば、流石にヤツも観念するしかないだろう。
そして同時に、ハリンストン家が築いてきた地位が一気に崩れることとなる。
アイザックが今やるべきことは保身ではない。
あの悪魔を捕らえて被害を最小限に留めることだ。
それが領主になるはずだった青年アイザック・ハリンストンの最初で最後の仕事だ。
「ねーぇ! ねぇってばー!」
間抜けな声と共にダイニングの扉が開かれた。
どうする、どうする、どうすればいい。
リジャスに見つかった後の行動を何度もイメージする。
回り込んで玄関から逃げるか。窓を突き破って庭へ出るか。
暗闇に、光が差した。
光が恐ろしいと思ったのは初めてだった。
「……あは、見つけた」
リジャスの口が三日月のように歪んだのを見て、アイザックは反対方向へ這う。
机の下から抜け出すと、追手の顔をじっと観察する。
楽しげな表情からは、罪悪感も疑問も読み取れない。
「ねぇ、どうして逃げるの」
ゆっくりとした動作でリジャスがこちらへ向かってくる。
常に彼とテーブルを挟むように、アイザックはジリジリ足を擦りながら逃げる。
「追いかけっこのつもり?」
軽やかな問いにアイザックは答えない。
「逃がさないよ」
リジャスは机に飛び乗った。最短距離で捕まえるつもりだ。
アイザックは咄嗟に右方向へ逃げて、間一髪でヤツの手から逃れた。
玄関へ向かって全力で走る。
庭や門の方には護衛がいる。
彼らにすべてを話そう。
どう思われようが構わない。
心神喪失を疑われ、どこかに隔離されたっていい。
あの男の傍にいるのと比べたら、天国のような環境に違いないから。
あと少し。あと少しで屋敷から出られる。
——右手首が強く締め付けられた。
「離せ! 離せよッ!」
振りほどこうとしても離れない。まるで手錠だ。
「ねぇ、本当にどうしちゃったの? 最近おかしいよ」
リジャスの目は憂いに満ちている。
本気で、アイザックを心配しているようだ。
腕を乱暴に振るいながらアイザックはどんどん退く。
サイドテーブルに尻をぶつけた。その上に飾られている花瓶が、ぐわんぐわんと円を描くように揺れた。
「やっぱり嫌なことがあったんだ。そうなんだよね? なんでも話してよ。絶対に力になるからさ。だって僕たち、兄弟で——」
「ふっ……」
アイザックの瞳から暗い光が溢れ出した。
「ふざけるなぁぁッ!」
後ろ手に花瓶の口を掴み、ヤツの蟀谷 に叩き付けた。
陶器の割れる音がけたたましく響く。
リジャスの体が、叩き付けたのと反対方向に倒れた。
「は……は……っ」
黒曜石の瞳が、リジャスの姿を鏡のように映しだす。
濡れたシャツの上に、白百合が何本か散らばっている。
立ち昇る青臭さの中に、かすかに鉄の臭いを感じた。
花瓶の破片が、リジャスの頭部付近に散らばっている。
くすみのない金髪の一部が真っ赤に染まっていた。
「あ……あ、っ?」
理解するより先に視界が滲んだ。
アイザックの両眼から滴った熱が、絨毯の上へと絶え間なく落ちる。
ころ……した?
まさか。
俺が。
弟を。
殺した。
殺した?
……殺した。
殺した。
殺した。
殺した。
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