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「俺の敵はお前だけ」

柔道場へ足を踏み入れた瞬間、独特の匂いが鼻を掠めた。畳。汗。消毒液。 慣れ親しんだ空気に、陽彩は小さく息を吐く。 全国常連校。さすがにレベルが高い。 陽彩は無意識に辺りを見回した。探している人物はどうやらまだ来ていないらしい。そう思った時だった。 「お前も特待?」 隣から声が飛んでくる。振り返ると同じ一年らしい男子生徒が立っていた。 陽彩が頷くと、相手は笑う。 「今年やばいらしいな」 「なにが?」 「一年」 男子生徒は柔道を見回した。 「全国経験者めっちゃいるじゃん」 確かにそうだった。それぞれの地区で結果を残してきた選手ばかりだ。 けれど陽彩の頭には別の名前しかなかった。 全国無敗。中学柔道の頂点。その時だった。 柔道場の扉が勢いよく開く。 「さーせん!!遅れましたー」 間延びした声が道場へ響いた。一斉に視線が入口へ向く。 陽彩もつられるように振り返った。 茶色い髪。着崩された制服。肩には適当に引っ掛けられたスポーツバッグ。まるで今起きてきたみたいな顔をしている。 「お前なあ……」 顧問が額を押さえる。 「入部説明会初日に遅刻してくるバカがどこにいんだよ」 「だって、守谷とかいう教師が俺のこと追いかけてくるし」 悪びれる様子は一切なかった。 道場の空気が微妙にざわつく。 「お!」 不意に詩の視線がこちらへ向く。目が合った。 詩は一瞬だけ目を丸くすると、次の瞬間には口元を緩めた。 「俺のライバルみーっけ」 そう言いながら真っ直ぐこちらを指差す。 道場中の視線が陽彩へ集まった。 「ライバル?」 「朝倉にライバルとかいんの?」 周囲がざわつき始める。当の本人だけが楽しそうだった。詩はそのまま陽彩の前まで歩いてくる。 そして昔と変わらない笑顔で言った。 「俺の敵はお前だけ」 詩の言葉で一瞬、道場が静まり返った。 そして次の瞬間。 「は?」 「敵?」 「俺らは眼中にすらねえって?」 周囲がざわつき始める。中には露骨に顔をしかめる者もいた。無理もない。この高校に特待生で入れることすら簡単なことではない。それ相応の結果を残し、努力を積み重ねた者だけがここへ来られる。だからこそ詩の言葉は挑発的に聞こえたのだろう。 「あ?眼中にねえよ」 そんな周囲の声も気にせずに、詩は不思議そうに眉を寄せる。まるでなにを怒っているのか本気で分からないと言いたげだった。 すると、一年のひとりが立ち上がる。そしてそのまま詩の方へ向かって歩く。 「俺と勝負してから言え」 場の空気が張り詰める。男は大きかった。詩ですら高身長の部類に入るのに、目の前の男はそれをさらに上回っていた。百九十センチ近い身長。 分厚い肩。柔道着の上からでも分かる体格。 陽彩もその顔に見覚えがあった。 北海道大会優勝。重量級の特待生。東智晴(あずまともはる)。 「お前だれ」 詩が挑発的に見上げている。 「東智晴だ」 二人の試合がぶつかり合う。 「知らないねー」 道場の空気はみるみるうちに、悪くなっていく一方だった。 「お前が本当に全国無敗なら証明してみろ」 周囲がざわつく。入学初日。まさかこんな空気になるとは誰も思っていなかった。けれど当の本人だけは楽しそうに笑っている。 「別にいいけど、後悔すんなよ」 その言葉に周囲の誰もが思わず口を開く。体格差は然程でもないだろうけれど、さすがに勝てないんじゃないかと不安になるくらいには、東から放たれている空気は恐ろしいものだった。 この場にいる誰もが東の実力を知っている。 だからこそ詩の言葉は自信ではなく、傲慢に聞こえた。 「言ったな」 東の口元が歪む。 周囲の空気もさらに張り詰める。 「うん」 詩は笑う。強敵を前にした時の顔。陽彩はそれを知っている。相手を見下しているわけではない。むしろ逆だ。強い相手と戦えることを誰よりも喜ぶ。 「せんせー」 不意に詩が顧問の方を振り向く。 「畳使ってい?」 その一言で、道場の空気が爆発した。

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