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第3話
***
「来てしまった……」
午前で授業を終えて学校をでた俺の足は、自然と氏家のいる病院に向いていた。カーテン越しの柔らかな陽射しが注ぐなか、今日も氏家はベッドで静かに眠っていた。
(寝ているだけでも、かっこいいよな)
くっきりとした二重瞼に、頬に影をつくるまつ毛。俺は挨拶がわりにちょんちょんと彼の高い鼻をつついた。
壁際によせてあった折りたたみ椅子をひとつ借りて、そばに座る。とりあえずは鞄から英語の教科書を出して、ベッドの上に広げてみた。教科書には落書きはない。
今日学校に行ったら、美濃が教科書を全部新しいものに取り換えてくれた。いまはもう十一月で、私学に専願受験で合格した俺の受験は終わっていて。これからさき授業なんてほとんどない。それなのに新しい教科書を用意した美濃に、そのとき俺はいまさらこんなのいらないと思った。でも二限目が終わって三限目の途中くらいから、すこし彼へ感謝の気持ちが湧いてきていた。
悪口が書かれていない教科書は、手にしたときに嫌な気持ちにならなかった。
美濃に対するお礼のつもりか、だれかにそのことを聞いてもらいたかったのか自分でもわからないが、俺はここに来てしまった。
「……新しい教科書だぞ」
氏家も隣のベッドのおじさんも寝ているので、誰も聞いていないし見ていない。ここは誰かにつけいられないようにと気を張っている学校とは違う。それに憂いた顔を見せると心配する親もいない。もしかしてここはとてもいい場所なのかもしれない。
ベッドマットに頬をつけると昨夜の寝不足のせいか、次第にうとうとしてくる。俺は人恋しさに駆られて布団のなかに手をつっこむと、氏家の手を探りだしてそっと握らせてもらった。
そしてこの日の夜もまた金縛りにあった。
(こわいよ~。こわよ~。こわいよ~)
昨夜、母の布団に潜り込んだ俺はそこでも幽霊に身体を擽られつづけ、笑いつづけた。結果、朝になるまえに「うるさいっ」と怒られて部屋から追い出されたのだ。だから今夜は部屋を開けた途端に、「あんたと寝たら寝た気がしない。自分の部屋で寝なさいよ」と即効追い払われてしまっている。クスン。
「うぅ……、う~ん……重いぃ……」
苦しいよぉ。どうやら幽霊は俺にぎゅっとしがみついているらしい。
今日は目の下に寝不足のクマをつくって授業をうけた。だから病院についたあとは教科書を広げたにもかかわらずすぐに眠ってしまって、面会の終わりの時間に看護師に揺さぶられて起きた。なんと二十時までぐっすり寝てしまったのだ。お陰で今になって眠りたくてもぜんぜん眠くない。結局俺は眠けが訪れた明け方まで、ずっと見えない幽霊にぎゅうぎゅう抱きしめられて過ごしたのだ。
***
「ふぁぁぁっ」
バスを降りて、大きな欠伸をひとつする。
(ね、眠い……)
連日の寝不足でいまにも倒れそうだ。それでも今日もまた俺は氏家のところに向かっていた。
てくてく歩いて病院のロータリーまで来たら、気を引き締める。玄関の周辺にはすでに幽霊たちがうろうろしている。ガラス越しに見える院内にいたっては怨霊悪霊地縛霊で盛りだくさんだ。蒼い顔をしたヤツらは今日も元気に右往左往していた。ここから東棟三階一番奥の氏家の病室まではダッシュだ。
「せーのっ」
鞄をしっかり肩にかけ、コンクリートを踏み込んだ俺はいっきに走りだす。誰かのために開いた自動ドアをすり抜け、ひとをかわしながらどんどん進む。「走らないでくださいっ!」と、すれ違う看護師の何人かに叱責されてしまったが、でも足を止めることなんてできない。だって、幽霊怖いんだから。
ところが東棟の階段を上がりきったところで、ふいに肩を掴まれ引き留められた。
「こらっ、藤守!」
「うわっ⁉ せ、先生?」
「お前、病院で走るなよぉぉ」
「だって……。うぅ。……ごめんなさい」
しゅんと眉を垂らしてみせる。
「なんで先生がここにいるの? 学校は?」
「まだあるよ。ちょっと氏家の様子を見に抜けてきたんだ」
そうこう足を止めているうちにぬいぐるみを抱いた子どもが寄ってきた。もちろんこれも幽霊だ。
「先生、手、放して。はやく氏家の部屋行かせて」
「いや、いい機会だから、ちょっと話をしよう、藤守」
「話って? 氏家の病室でいいだろ?」
あいつの部屋は不思議と悪い幽霊が入ってこない。たまに入ってきても成仏する間際の幽霊が迷い込んだ程度のものだ。見えるかどうか気配があるかどうかの『悪い』ヤツじゃないうす~い幽霊。
「いや、万が一あいつに聞こえていいもんじゃないから」
「それ、なんの話なの? ヒイッ」
ほらほら、興味津々であっちの病室からもこっちの病室からもひとが、もとい幽霊が出てくるじゃないか。こいつ前に俺が云ったこと忘れてんじゃないのか? 幽霊見えるって。俺、怖いって。
「ほら、お前がクラスで……その……」
「ああ、いじめられてるって?」
「しっ、あんまり大きな声で云うなよぉ」
「先生、世間体気にしてんの?」
俺にはうようよ集まりだした幽霊のほうが気になるよっ!
「なぁ、いつからなんだ? お前が学級委員なのって、だってみんなからの推薦だろ? だったら、」
(みんなに好かれているんじゃないかって? こいつ単純だな)
「先生、空気読めないよね。あんときみんなクスクス笑ってただろ! 何人かが結託して嫌がらせで俺に押しつけたんだよ、わかれよ、それぐらい」
「あっ、こら待て!」
そうだったのか? ガーン、とばかりにショックを受けて固まった美濃の手を払い、身を翻して駆け出そうとした俺は、またすぐに捕まってしまう。
図体がでかいばかりでなく美濃は運動神経もいいらしい。それに比べて俺は背はちょっと低めだし、体重だって軽い。運動神経が少しぐらいよくても、リーチのある美濃の腕に掴まれると身動きがとれなくなる。
「やっ、放してくださいっ。はやくあいつんとこ行かせて!」
「なぁ、いつからなんだ?」
「もういいですからっ。もうすぐ卒業なんだしっ」
「じゃ、じゃあ、きっかけは? それだけでも教えてくれ」
ほんとにこの教師、デリカシーない。虐められたきっかけ? そんなの大概が汚点じゃないの? それ自分から他人に話したいひとっているの?
「きっかけ? それ聞くの? それであんたも俺をバカにして影で笑うんだ⁉」
しまった、声が掠れてしまった。涙声になった俺に気づいたのか、一瞬力が抜けた美濃を力いっぱいに突き飛ばす。うまくいってバランスを崩した美濃は廊下に尻もちをついた。
「そんなの俺がホモだからだろ! 教科書にもノートにも書いてただろうがっ。見て来いよ、教室の俺の机にも誰かがご丁寧に『ホモ』って彫ってくれてるよっ。ホモ死ねって!」
「それは……、ホ……、えっと、その、……藤守はそうなのか?」
「そんなの知るかよっ! 俺はただ二年のときクラスメイトとうまくいかなくて、みんなと距離を置いてたらそれに気づいた担任に相談しろって云われた。あいつ、しつこかったから、俺、クラスの男子とどうやって接していいかわかんないって。自分自身でもよくわかんないけど、俺、ホモなのかなって。……そしたらソレ、次の日にはクラス中に広まってた。担任、みんなのまえで、『気にすんなよ』って『大した問題じゃない』って笑いながら云った。クラスのみんなも笑ってた」
「……お前の去年の担任って、誰だ?」
床に尻を突いたままの美濃の顔色は、すっかり変わっていた。
「そんなんもういい! あいつはクラスの連中がどういうつもりで笑っているかなんてわかって―…」
そこまで大口で捲し立てた俺も、息を呑んで顔を蒼くした。取り巻く悪霊怨霊のメンツが、なぜかみな鼻息の荒い男たち。
「なっ、なっ、」
(なんでぇ~っ⁉)
そもそも欲が深い人間のなれの果てが悪霊怨霊なわけであって。こいつらは自己中で浅ましくて、そして死してなお貪欲だ。まるで腫れものに触るような態度になった美濃とは反対で、俺の話を聞いて集まってきたこいつらは三本目の足をバッキリ元気に勃たせていた。
「ぎっ、ぎゃぁぁぁぁ―っ」
(ホモの幽霊だぁぁっぁぁっ‼)
立ち上がったあと俺にどう手を差し伸べようかわからないでおろおろしていた美濃を、ヤツらに向かって突き飛ばす。そして抱きついてこようとした色情霊をギリギリのところでかわすと俺は、一目散に氏家の病室を目指して走りだした。
部屋に飛びこむと足もとのストッパーを外してドアをバタンと閉める。ふつうならドアなんてすり抜けてくるはずの幽霊たちは、やっぱり氏家の病室には入ってこなかった。ついでに美濃も入ってこないようにと、ドアの前まで空いていたベッドを引き摺ってくる。それから氏家のベッドに駆けよると、俺はバサッと布団をはいで中に入り込み、彼にひしっとしがみついた。
「うわあぁぁぁぁぁぁんっ」
(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いぃぃぃっ!)
足がないと云われている癖にアイツらはやたらとはやく移動するのだ。何人もの鼻息荒い色情霊に飛び掛かられ、身体中をまさぐられた。
「怖かったよぉぉっ、うぇええんっ」
怖かっただけではない。美濃のせいで嫌なことを思いだしたから。嫌なことを口にしたから。だからいっぱい涙が溢れてきて止まらなくなった。
あいかわらずこの病室には寝たきりの氏家と坊主頭のおじさんしかいない。恥も外聞も気にしなくていい。点滴の針だけは抜けないように気をつけて、俺はぎゅうっと氏家に抱きついて大声で泣きつづけた。
「あっ、あとでっ、しっかり勉強教えてやるから、うぅ……、いまだけっ、ひっく、許してなっ。うぅっ」
さきにちゃんと謝っておいて、泣くだけ泣いて。そして俺はまた眠ってしまったようだ。
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