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第5話
***
「うぅ~っ。さむいっ!」
ビュウッと風が吹き荒む公園で、寒さに身を竦める。
洗濯していたせいで家をでるのが遅くなってしまった俺は、いつもより二本遅い電車に乗った。そうしたら学校についたときにはすでに何人かの生徒がさきに教室にいて、俺の机はどこかに消えていた。
クスクスと笑う声、こちらを見てひそひそと話すヤツらに嫌気がさした俺は、教室に入るのをやめて氏家の病院まで移動してきた。それでいまは、こうして近くの公園で時間をつぶしている。
座り込んでいたブランコを揺らすと、キィッと音がたつ。
「あぁあ」
今朝のことを思いだすとおおきな溜息がでてくる。
どうやら、俺は幽霊にヴァージンを奪われてしまったらしい。
この歳になってもなかなか女子に興味がわかず、あ、アイツかっこいいなぁ、とか、コイツに触ってみたいなぁ、とか思うのは決まって同性が相手だった。
あまつさえドラマやマンガで恋人同士の抱き合うシーンを見たりすると、自分より体格のいいひとにぎゅっと抱きしめられるのって、どんな感じかなっと想像するようになってしまい、ついにはまわりにいる男友だちとの距離の取り方がわからなくなっていったのだ。
それから俺は自分は恋愛対象が同性の人間なのだろうかと、不安な毎日を送るようになったのだ。受験勉強どころじゃなく、このさきまっとうに社会にでて生きていけるのだろうかと、本気で悩んだ。
自分がゲイなのか、そうじゃないのか。このさき恋愛は男とするんだろうか、俺にもちゃんと恋人はできるのだろうか? はじめての恋人は男なのか女なのか。
だれかとちゃんとエッチなことはできるんだろうか。それはちゃんと女相手なのだろうか、ちゃんと俺はできるんだろうか? それとも俺は男とエッチをするんだろうか? ちゃんとうまくやれるんだろうか?
俺のことなんて好きになってくれるひと、本当にいるのかな? いないんじゃないかな? ……いや、きっといないんだ。
幸いにも両親は共働きだし祖父母も健康で安定した生活を送っていたりして、我が家は経済的に恵まれていた。せめて受験問題だけでも簡単に解決したいと、俺は私立大学を専願で受させてもらい既に合格を果たしている。
これでもうこのさき、多少学校に行かなくてもなんとかなるだろうと、―だからゆっくり自分のセクシュアリティについて考えてみよう、と思っていたタイミングだったのだ。
よもや恋愛をするまえに貞操を失うことになるなんて、まったく予想していなかった。しかも……。
「脱童貞じゃなくて、脱処女だったか……」
がっくしと肩を落とす。この際相手が生きている人間か、死んでいる人間かはどうでもいい。
「きっと俺がもの欲しそうな目でオトコを見ていたから、ヘンなのを引き寄せちゃったんだ。自業自得だ。バチがあたったんだ」
(そりゃ、色情霊引きよせるぐらいにやらしい目で他人のこと見てたんなら、みんなそれに気づいて俺のことを嫌(きら)って当然だ)
「そっか、俺オトコ運悪いし、オンナ運もなさそうだし。このままだったら一生童貞で処女だったかもしれないんだ。だったら幽霊相手でも初体験できてよかったのかもしれない。……それに気持ちよかったし」
(ダメだ、云っててむなしくなってきた……)
今日は風が強い。ブランコの鎖を掴む手は冷たくなっていた。氏家に面会ができるのは一時からだ。
あと二時間ここで時間をつぶして、それから軽く昼ご飯を食べてから彼のところに行って愚痴を聞いてもらおう。そう思うと、まだすこし泣くのを我慢できそうだった。
「俺が悪いのかもしれないけど、でも、もうちょっとまわりにやさしいひといてもいいんじゃない?」
ヒュウッと冷たい風が吹きつける。身を竦めると、またブランコの鎖がキィッと寂しげな音を立てた。
いつもよりはやい時間に訪れた病室は、とても明るかった。あいかわらず険しい顔で眠ったままの坊主頭のおじさんに、カーテンの隙間から「こんにちわ」と挨拶をして、それから氏家のベッドに向かう。
いつもとおなじように眠っている彼の顔を見てほっとした俺は、窓際に寄せてあった折りたたみ椅子を引っ張ってきてベッドのそばに座った。ちょんちょんと氏家の高い鼻をつついて「こんにちわ」と挨拶する。
へへへ。
頬がゆるむ。擽ったい気持ちが湧きあがった。
「今日はさぁ。ノートのコピーないんだ」
学校では一般授業は十一月の半ばですべて終わっている。いまはもっぱらセンター試験にむけての対策授業が行われていて、受験の終わった俺は別に登校する必要はない。それでも毎日学校に通っているのは親が払ってくれている授業料を無駄にしたくないってのと、俺を虐めてくる連中に負けたくないって意地からだった。
(でもとうとう机がなくなっちゃったんだもんな。もう無理じゃん)
胸がずんと沈んだ。慌てて彼の手首にそっと触れる。
「ごめんな。そのかわり英語の構文いっぱい唱えてやるよ。それとも数学がいいのかな? 俺、お前のこと知らないから、なにをしてやればいいのかわかんないや」
氏家の左手を持ち上げ、ぷらんぷらんと振る。
「今日は点滴ないの? それとも夕方になったらまたするのかな? ポカポカしてるな、お前の手」
ぎゅっと指をからめて握りしめると、冷えていた俺の手に氏家の手は熱いくらいだった。
睡眠学習って有効なんだろうか? 鞄から単語帳を取りだすと、試験に役立ちそうな英単語をひとつづつ唱えていく。手を繋いだままでいるのは、ちょっとしたお駄賃のつもりだ。
(お前がこうやって寝ていても、一月のセンター試験でちゃんといい点数が取れるようにしてやる。だからちょっとのあいだだけ、お前、俺の友だちでいてくれな)
傾きかけた太陽がちょうど背中にあたって温かい。身勝手だとはわかっているけど、それでもとても幸せな気分で過ごす午後のひとときだった。
三時のおやつにプリンを食べていると、氏家のお母さんがやってきた。
「あらっ、あらあら。ええっと、藤守くんよね?」
うれしそうに駆け寄ってきた美人に、俺はプラスチックのスプーンを咥えたままのけ反りぎみにコクコク頷く。彼女は息子の枕もとに置いてある未開封のプリンカップに目を細めると、うるうると涙を流しはじめた。
「あのっ、こんにちわっ。お邪魔してます」
「まぁ、まぁまぁ、藤守くん、この子にまでプリンを⁉」
慌てて立ちあがり、持っていた食べかけのプリンとスプーンをベッドテーブルに乗せた俺に、氏家母はとびつかんばかりの勢いだ。先日の美濃の憐れな姿を思いだした俺はびびって数歩あとずさった。そして氏家の枕もとのプリンを指さす。
「あ、あのっ。よかったらおばさんが食べてくださいねっ」
「えぇ、えぇ。ありがとう。今日この子が起きなかったら明日私がいただくわ。私ね、看護師さんに聞いてるの。藤守くん、いつも哲也に会いにきてくれてるんですってね。本当にありがとう」
氏家母に感謝されるいわれはなかった。
俺が毎日毎日、行くところがなくて―話し相手がいなくて、勝手にここに通ってきてるだけだ。それなのにお礼なんて云われてしまうと、申し訳ない気持ちになってしまうじゃないか。
狼狽える俺に彼女はハンカチで涙を拭いながら話しつづけた。
「藤守くん、哲也の勉強相手してやってくれてるのね?」
ベッドには参考書と単語帳が転がったままだ。俺は散らかしちゃって悪かったと、いそいでそれらをかき集めた。
「あのね、私、哲也はもう学校のことはいいと思っているの。この子が起きたらピアノも、予備校ももう無理して行かなくてもいいよって、云ってあげるつもりなのよ」
「……」
「哲也はずっとピアノをやめたがっていたし、大学も行きたい私学があるからそこだけを受けたいって云っていて。でもこの子、とても優秀で、目指せばもっといい公立に合格できるのよ。その私学にしたってこの子の行きたがっている学校より、もっともっといいところに行けるの。でもこの子はなんでも器用にできて、難なく生きてきているから苦労とか、世間のたいへんさを全然わかってなくって……」
氏家のお母さんはくやしそうに口を歪めたが、それって違うんじゃないかと俺は思った。このひとは勘違いしてるんだって。
俺は氏家と仲良くしていたわけじゃないし、学校の活動でなにかを一緒にするってことも一度もなかった。ただ学級委員とクラスメイトって繋がりしかなかったけど、そのなかでも俺にも知っていることはあった。
ノートを集めるとき、プリントを集めるとき、氏家はいつも遅れることなくちゃんと提出日を守って出してくれていた。俺が声を張り上げて回収してまわるまえに、毎度律儀に俺のところに持ってきてくれていたのだ。そんなヤツ、コイツ以外クラスにはほかに誰もいなかった。
頭脳には個人差があって、勉強できるできないはあるかもしれないけど、人間ってみんな一日がおなじ二十四時間だ。限りある時間に宿題をして提出物をだして、予備校やピアノのレッスンに通っていたんなら、こいつはたくさんの自由の時間を諦めてきている。
それは決して『器用に』『難なく』できたわけじゃない。みんなが遊んでいる時間に、やりたくもないことに身を拘束されていたんだ。悔しかっただろうし、腹も立ったと思う。それを氏家はずっと我慢してきた。それって、すごい努力だったんじゃないだろうか。
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