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第16話
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「人体ってすごいんだよ? エッチすると、オキシトシンとかエンドルフィンとかっていう幸せ気分になれるホルモンが体内に分泌されるんだって」
(なるほどなるほど)
二年になってから嫌がらせされるたびに、俺は絶不調で暗鬱に過ごしていた。でも最近は嫌なことがあってもはやく立ちなおることができていたんだ。竹中たちの嫌がらせや暴力は日増しにひどくなってきているのに、翌日にはケロッとして病室でプリンなんか食ベていたりしてね。
それは学校に行かなくてすんでいるってこともあるし、きっと哲也くんやゆうくんや、まぁ美濃もだけど、―いまは俺に構ってくれるひとがいるからなんだと思う。
そしてこの本によるとなによりも俺をこんなに元気にしているのは、どうやらゆうくんとするエッチが最大の決め手らしい。俺はプラスティックのスプーンを咥えながら、ページをペラリとめくって、ふんふんと頷いた。
ちなみにこれは階下の売店でみつけた『セックスでハッピー脳になれる』って本だ。
今や俺のスマホは学校のヤツらのイジメのためのツールになっている。だからかれこれ一年以上は電源を入れてはいない。で、スマホを持っていない俺は、勉強の合間の暇つぶし用に本を買ってきた。
病院の売店に並んでいる本なんて、大した量もなくほとんどが医学ものだ。俺はいかにもわかりやすくエッチそうな本を選んできた。
「じゃあ俺はゆうくんに感謝しなきゃなぁ。あ、でもゆうくんと出会えたのは哲也くんのお陰?」
首をかしげて考えた俺は、哲也くんはやっぱり俺の恩人なんだと感謝の気持ちを強くした。
「哲也くん、ありがとうねっ」
彼の手を握って自分の頬にスリスリ擦りつける。
「お礼に絶対センター試験でいい点取れるようにしてあげるからね」
「ふふふふふ。勉強がんばってるのね」
そう声をかけてきた女性は、隣りのベッドで眠る坊主頭のおじさんの奥さんだ。彼女はちょっとやつれた感じで、しんどそうな表情をしていた。
「あっ、プリン食べますか?」
そうだ、こういうときはプリンだと、俺はいそいそと小さな冷蔵庫からプリンを取りだすと彼女に手渡した。「ありがとう」と受け取ってもらえて、俺はほっとする。
おじさんの奥さんと会ったのは今日がはじめてだった。ここに居ついている俺が出くわさないくらいなんだから、おばさんがここに顔を出すのはホントに稀なんだろう。おじさんはずっとヘルパーさん任せにされていたんだから。
坊主頭のおじさんは、じつは本当に坊主だったのだ。家がお寺で、僧侶なんだって。
しかもけっこう偉いお坊さんなんだとおばさんは教えてくれた。ただおじさんは自分にだけでなく家族にもとても厳しかったらしく、家族のみんなはおじさんにうんざりしているらしい。
ある日滝修行をしていたおじさんは、落ちてきた岩で頭を打って病院に運ばれた。そして手術には成功したらしいんだけども、哲也くんとおなじで目を覚まさないという。
でもこのおじさんは哲也くんとちがって、もしかして死んじゃうのかもしれないと俺は思っている。彼の霊魂は昨日よりもまた今日、濁りを増して輝きを薄くしていたのだ。
(おじさん、哲也くんが起きるまでは頑張って!)
美濃に聞かれたらまた不謹慎だと怒られそうだが、それについてはおじさんの家族のほうがひどかった。おばさんはおじさんがいないうちにと、彼を勝手に引退させて寺を息子に継がせたそうだ。
「老いたら子に従えって云うでしょ? それなのにこのひとはいつまでもガミガミと息子夫婦に口出しして」
フンと荒い鼻息をついたおばさんは、おとなしそうな見た目に反してなかなかの強者だ。
この数日のあいだにバイアフリーのマンションを買ったそうで、すでに寺から夫婦の家財をすべて移しもしたそうだ。それで忙しかったおばさんや息子夫婦たちは、ここへほとんどお見舞いに来ていなかったらしい。
「はぁ、このひとが寝ていてくれて助かったわ。神や仏っているものね」と云いながら、彼女はプリンを口に運んだ。
「まぁ、このまま死ぬか生きるかは、このひとしだい。それこそ神のみぞ知るってやつよ。あ、うちは寺だから仏か?」
(おじさん……、ちょっとかわいそう)
おばさんが帰っていったあと俺は、
「おじさんっ、起きないと死んじゃうよ。こんな嫌われ者のまま死んでいいの? はやく起きて名誉挽回しなきゃっ」
と、いつもより強くおじさんの脛をバシバシと叩いておいた。そしてこの夜。思いがけずしておじさんは目を覚ますことになったのだ。
「学校……」と呟いて、肩を落として溜息をついた俺は、コートの襟もと引っ張り上げて、顔を埋めた。
十二月の夜は身を切るほどの冷たさだ。今夜は風はないが気温は低い。はやく家に着きたかったが、それでも軽快に走れるような気分には到底なれず、家までの道のりをとぼとぼと歩いていた。
俺自身はもう登校する必要がないけども、でもやっぱり哲也くんの力になるために彼に必要な補講を受けておきたい。俺が哲也くんに会うためにはそれくらいのことはさせてもらわないといけないと思うんだ。
哲也くんは必ずセンター試験までに目が覚める。だから彼といっしょにいられる時間はあと僅か。俺はその貴重な時間を彼に負い目を感じないように、彼のことをまっすぐみつめて過ごせるように存在していたかった。
学校と縁を切らなければまた竹中たちに酷いことをされるかもしれないし、クラスメイトたちに敬遠されて嫌な思いをするかもしれない。けれども彼らにうっかり殺されないかぎりは、哲也くんに会いにいけるんだし、そしたら嫌な気持ちも慰められて元気になる。
「あとすこしだけだし、がんばろう」
それに俺には家もあるしね。帰ったらお母さんとお父さんがいる。家族と他愛無い話でもしていたら気持ちを紛らわせることもできるし、温かいお風呂も柔らかいお布団もある。
「なんとかなるよ、ね? 哲也くん」
俺はきっと情緒不安定なのかもしれないけど、こんな綱渡りのような日々を送りながらでも、運がよければこのままなんとか春を迎えられるんじゃないかって、考えた。
そんな俺の当面の不安要素は竹中たちと遭遇するハメになる恐れと、美濃が竹中のスマホをどうするかということだった。
昨日はあれからどうなったんだろう。
散乱していた机や椅子。教室の割れたガラス、壊れた蛍光灯。あのあと美濃はずっと俺につきっきりで病院にいたけど、なんどか学校と電話でやりとりをしていた。
(警察は来たのかな? でもあれってほとんどゆうくんの仕業だし……)
幽霊がやったことなんて証明しようがない。仮に警察になにかを質問されても俺は答えようがないじゃないか。正直に話しても絶対嘘つき呼ばわりされるし、こんなヤツだから虐められても仕方がないだろうって冷遇されるんだろう。
面倒なことも、恥ずかしかったりつらい思いをさせられるのも、誰かに疎ましく思われるのも、もうたくさんだ。だから「なんとかこのまま春に」って、俺は祈るような気持ちでいた。
それなのに、やっとの思いで進んでいたその危うい綱が切れてしまった。美濃が、切ってしまった。
帰宅後、自分の部屋に入った俺はすぐに違和感をもった。そしてクローゼットからなくなっているものに気づいて動揺し、それから怒りで体を熱くした。
「誰っ⁉ 俺の部屋に入ったの! なにしたっ⁉」
階段を駆け下りるとリビングにいた両親に俺は声を荒 らげた。
「就一、ちょと落着いて」
テレビを見ていたお母さんが狼狽えてソファーから腰をあげると、お父さんが「俺が話すから」と彼女を制した。
「―なに?」
彼に云われることには見当がついていた。話を聞くのが怖い。
部屋からなくなっていたのは、折りをみてこっそり捨てようとまとめておいた落書きされた教科書やノートだ。親の目に触れないように隠しておいたのに、それなのになぜ知られてしまった?
「お前、学校でイジメにあってるんだって?」
「……なんで知ってるの?」
お父さんの目がさ迷う。なにかを隠そうとしている。
クッソ。美濃だ。やっぱりバラしたんだ。バラしたのは親にだけか? アイツらにも直接問いただしたりしたのか? それとも警察に行ったりした?
「じつは担任の先生から連絡があったんだ。お父さん、今日は仕事を休んでお前のために先生と会ってきた」
「…………」
「お前とはもうすこし様子をみてから話しあおうと思っていたんだけどな、いい機会だ、ちょっとこっちに座れ」
促されたソファーを一瞥した俺は、じりじりと後退した。
「……もう、……もうすこしで、卒業だし、放っておいて」
「先生からはお前がそう云っているってことも聞いている。でも親としてはそうはいかないんだ。いいからこっち来て座りなさい」
そうはいかないって、どういうことなんだろうと思う。体裁? それとも俺を守ろうってこと? でも、守るもなにも、いままで俺が死にそうに怖い思いしてるときは、お父さんいなかったじゃないか。それにもう過ぎたことだよ? いまさらどうする気なんだ?
「なにもしてくれないほうが、絶対うまくいくんだけど?」
卒業してあいつらが俺のこと忘れたら、ぜんぶ風化していくんだ。撮った写真のことだってそのうちネタにもしなくなって削除するだろう。ちょっとくらい出回ったとしてもそんなものを見る最低なヤツらなんて、どうせ大した人間じゃない。だったら俺は気に病まないようにする。それに俺だってそのうち写真の自分とは見た目が変わっていくんだし……。
放っておいてくれたほうが、ぜんぶがうまくいくはずなんだ。
「お前はなにも考えなくていいから、お父さんに任せておけ。まず怪我を見せてみろ。お父さん明日もう一度警察に行く予定だから」
「警察、行ったんだ⁉」
怒りで目が眩んだ。カッと胸が焼けどす黒い塊が身体のなかで膨張していく。怒鳴りたい気持ちはあったが、なにを叫んだらいいのかわからなくて、俺は握った拳を壁に打ちつけた。そして唖然とするお母さんと叱ろうと口を開けたお父さんを後目に身をひるがえした俺は、そのまま家を飛び出した。
みんな大嫌いだ。
ぐるぐるぐるぐるいろんな思いが体内を渦巻いていて、身体が張り裂けそうだった。どうにかなってしまいそうなほどの怒りはいつも俺を苦しくする。
いままで親になにも云ってこなかったのは、心配をかけたくないっていう気持ちもあったし、憐れがられることが嫌だったからだ。俺にだってプライドがあるんだから。―でも理由のひとつには、もしも自分の気持ちがわかってもらえなかったらっていうのもあったんだ。まさにそれにビンゴだ。
わかろうとされない、寄り添ってやろうと思われない。それって俺にとってはあいつらに与えられてきた危害と変わらないくらいの暴力なんだ。知られなければ、俺はこんなひどい仕打ちにあうことはなかったのに。
美濃、大っ嫌い。お父さんも、大っ嫌い。いなくなれっ!
俺は走りながら、呪文のようになんどもなんども心の中でそう繰り返した。家を出るときに玄関にかけてあったコートを羽織ってきたけども、寒さであっという間に身体が凍えてくる。すれ違うひとたちが暖かい恰好をしていたり、連れと寄り添っていたりするのを見ると、無性に泣きたくなった。
いなくなれ、いなくなれ、いなくなれ。みんないなくなれ。
そんな言葉で胸をいっぱいにしている俺は、でもほんとうはちゃんと最後には自分がいなくなるつもりでいる。でもそれはホントに最後の手段で。いまはとにかく、
(哲也くんに会いたい!)
俺は涙にぼやける視界のなか、必死で哲也くんの眠る病院に向かって走った。
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