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#3/4:リモートの境界線と、残る甘い残り香

ヒート明けの身体はまだ鉛のように重い。 今日は二人とも在宅勤務の日だったが、九条(クジョウ)とは別の部屋に籠もって仕事を進めることになっていた。それが今の二人にとって、最も「安全」な距離感だった。 午前中の業務を終え、そろそろ何か喉を通そうとキッチンへ向かうと、ちょうど九条(クジョウ)も部屋から出てきた。 視線がぶつかる。一瞬だけ空気が固まった。 「……」 九条(クジョウ)は何も言わず、無言のまま冷蔵庫を開け、手際よく昼食の支度を始めた。その背中を見つめているだけで、悠真(ユウマ)の鼓動が少し速くなる。 運ばれてきたのは、湯気の立つ鍋焼きうどんだった。 「……食えよ」 「……あ、ありがとうございます。いただきます」 悠真(ユウマ)が箸を伸ばすと、熱々のつゆが唇に触れて小さく息を漏らした。その瞬間、九条(クジョウ)が悪戯っぽく口角を上げた。 「……熱いか? フーフーしてやろうか?」 「っ……! 大丈夫です! からかわないでください!」 悠真(ユウマ)は顔を真っ赤にして抗議した。九条(クジョウ)は「そっか」と小さく肩をすくめ、どこか楽しげに目を細めたまま自分のうどんに戻る。 その一瞬の表情が、悠真(ユウマ)の胸を甘くざわつかせた。 食事が終わると、九条(クジョウ)はスーツに着替えながら短く言った。 「午後の会議は会社に出る」 「……お気をつけて」 悠真(ユウマ)がそう返すと、九条(クジョウ)は一瞬だけ足を止め、こちらを振り返った。その視線が、悠真(ユウマ)の唇のあたりに一瞬止まる。まるで何か言いたげに。しかし結局何も言わず、九条(クジョウ)は静かに玄関に向かった。 ドアが閉まる音が響いた瞬間、広いペントハウスに急に静けさが落ちた。 悠真(ユウマ)はまだ熱を帯びた頰を両手で押さえ、深いため息をついた。 (……なんだろ? なにかしたかな? 俺…) 鍋焼きうどんの残り香と、九条(クジョウ)が残していった微かなコロンの香りが、まだキッチンに甘く漂っていた。 ◇ 午後になり、悠真(ユウマ)は書斎のデスクに座って月末の定例会議用のZoomを立ち上げた。九条(クジョウ)の家という事実を絶対に誰にも知られるわけにはいかない。慌ててビデオ設定を開き、念入りにバーチャル背景を選ぶ。 「よし……これで大丈夫のはず」 深呼吸をして身だしなみを整え、開始時間の少し前にログインした。すると、同じく早めに入室していたさくらが、画面越しに明るく声をかけてきた。 「悠真(ユウマ)くん、お疲れ〜! あれ? 今日なんか雰囲気違うね。背景変えた?」 「え……あ、うん。部屋がちょっと散らかっててさ。見苦しいから背景入れたんだ」 悠真(ユウマ)は苦笑いを浮かべて誤魔化した。さくらは「へぇ〜」と軽く笑っただけで、それ以上追及してこなかった。 (……鋭いな、あいつ) 悠真(ユウマ)はふと喉の渇きを覚えて、手元のマグカップに手を伸ばした。 熱いコーヒーを一口含んだ、その瞬間—— 画面の端に映り込んだカップを、さくらの視線が鋭く捉えた。 (……んん? それは?) さくらは一瞬だけ眉を寄せたが、表情には出さなかった。会議は淡々と進み、悠真(ユウマ)も何事もなかったように報告を終えた。 通話が終了し、画面が閉じられた直後。 さくらはすぐ隣の席に座る佐藤の方を向き、小声で話しかけた。 「ねえ、佐藤くん。さっきの悠真(ユウマ)くんのマグカップ、見た?」 「マグカップ? ああ、なんか普通のカップじゃなかったっけ? 俺は特に気にしてなかったけど……どうかした?」 佐藤がきょとんとした顔で聞き返すと、さくらはため息を吐いた。 「アンタは本当にアンテナが鈍いわね……。あのマグ、うちのノベルティなんだけど、かなり古い物なのよね。悠真(ユウマ)くん入社の全然前だよアレ! 今日在宅のはずでしょ? なんであんなもの持ってるの?」 「……え? それってつまり?」 「……まあ、なんか怪しいよね」 さくらは腕を組んで、わずかに目を細めた。普段は朗らかで面倒見の良い彼女だが、勘の鋭さだけは誰にも負けない。画面越しに映ったわずかな違和感——背景の微妙なずれ、照明の質、そして何より、あのマグカップ。 悠真(ユウマ)の知らないところで、小さな疑惑の種が、静かに、しかし確かに蒔かれていた。 ◇ 一方、悠真(ユウマ)はZoomを終えた瞬間、大きく息を吐き出した。 まだ九条(クジョウ)の残したコロンの香りが微かに漂うこの部屋で、誰にもバレていないはずなのに、妙な胸騒ぎが止まらない。 (……大丈夫、だったよな?) 悠真(ユウマ)は無意識に、手元のマグカップをぎゅっと握りしめた。 九条(クジョウ)が朝、黙って淹れてくれたコーヒーの残り香が、まだほんのり甘く残っていた。 つづく

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