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休戦
被疑者はベッドに身を預けたまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
結月はベッド脇へ椅子を引き寄せ、警察手帳をポケットへしまう。
「名前」
男はゆっくりと視線を向ける。
「……」
「聞こえてるよね」
数秒の沈黙のあと、男は小さく唇を動かした。
「分からない」
結月は眉ひとつ動かさない。
「名前」
「……俺が、誰か」
静かな病室に沈黙が落ちる。
結月は男を見据えたまま、小さく息を吐いた。
「面倒臭いな」
結月の低い声に、男は力なく首を横に振る。
「本当に……分からないんだ」
その時だった。
「時間だ」
病院の扉が開き、迅が入ってくる。
カルテを片手に、被疑者の様子へ目を向けた。
「どうした」
結月は椅子にもたれたまま、迅を見る。
「自分の名前が言えないみたいだけど?」
迅は男の瞳を覗き込み、静かに名前を呼んだ。
けれど、男からの返事はない。
迅はペンライトを取り出し、瞳孔へ光を当てる。
「頭は痛みますか」
男はゆっくりと頷く。
「……分からないことは」
その問いに、男はしばらく黙り込んだ。
やがて、震える声で口を開く。
「全部……」
病室が静まり返る中、結月は腕を組み小さく息を吐いた。
「被害者は一生傷を負ったまま生きていかないといけないのに、お前はわからないで済むなんて神様も意地悪だよね」
皮肉にも聞こえる結月の言葉に、男は静かに目を伏せる。
その様子を見ていた迅は、カルテを閉じると口を開いた。
「柏木」
名前を呼ばれ、結月は迅へ視線を向ける。
「記憶障害の可能性がある」
「だから?」
「まだ演技だと決めつける段階じゃない」
結月は小さく肩を竦めた。
「都合よすぎでしょ」
「言葉は選べ」
その声は低かった。責めるでも、怒るでもない。
医師として、事実だけを告げている。
結月は一瞬だけ迅を見つめると、小さく息を吐いた。
「はいはい」
皮肉っぽく返しながらも、それ以上は何も言わなかった。記憶障害の可能性がある以上、これ以上問い詰めても意味はない。
結月は静かに立ち上がる。
「煙草吸ってくる」
それだけ言い残し、病室を後にした。
廊下へ出ると、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。ポケットから煙草を取り出し、指先でくるりと回した。喫煙所は病院の裏手にあった。人気はなく、聞こえるのは風に揺れる木々の音だけ。
ライターを鳴らし、煙草に火をつける。ゆっくりと煙を吐き出した、その時だった。
「吸いすぎ」
聞き慣れた声に、結月は振り返らない。
「仕事は」
「一区切りついた」
迅は結月の隣へ立つと、煙草を咥えた。
火をつける仕草に無駄がない。
煙だけが二人の間をゆっくり流れていく。
「本当に記憶障害だと思う?」
結月が煙を吐きながら尋ねると、迅は少し間を置いて答えた。
「可能性はある」
「厄介だね」
「ああ」
短い返事。それ以上、会話は続かなかった。
それでも、不思議と気まずさはない。
煙草を灰皿へ押し付けた、その時だった。
「久しぶりに飯でも行くか」
結月の手が止まる。
「……はい?」
ゆっくりと迅を見ると、相変わらずの無表情。
冗談を言っている顔じゃなかった。
「今なんて」
「飯」
あまりにもあっさりした返事だった。
結月は目を瞬かせる。
「珍しいこともあるもんだね」
「嫌ならいい」
「別に何も言ってないでしょ」
迅は煙草を灰皿へ押し付ける。
「今日は時間ある」
それだけ言うと、先に喫煙所を出ていく。
結月はその背中をしばらく見つめた。
「……なんなの、あいつ」
小さく笑ってしまったことには、自分でも気付かないフリをした。
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