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残業

職員室の窓の向こうはもうすっかり暗くなっていた。腕時計へ視線を向けると、午後九時を回っていた。職員室には昼間の賑やかさはなく、残っている教師も数える程しかいない。 今年は学園祭実行委員を任されていることもあり、この時期は授業以外の仕事が山積みだった。クラスの出し物の進行確認に加え、各クラスとの打ち合わせ、当日の配置やタイムスケジュールの調整。一つ片付ければ、また新しい仕事が増えていく。 「……終わらないな」 小さく呟き、キーボードを打つ手を止めた、その時だった。 ガラリと静かな職員室に扉の開く音が響く。 「あれ、水瀬先生」 聞き覚えのある声に顔を上げる。 「一之瀬先生」 体育教師の一之瀬斗真(いちのせとうま)だった。ジャージ姿のまま肩にスポーツバッグを掛け、驚いたように凪を見つめている。 一之瀬は赴任してまだ二年目と若いが、爽やかな容姿と人懐っこい性格で、生徒から絶大な人気を集めている教師だった。特に女子生徒からの人気は高く、休み時間になれば職員室の前には、一之瀬を一目見ようと集まる生徒の姿も珍しくない。体育教師ということもあり、運動神経は抜群で、授業はいつも笑い声が耐えない。その一方で面倒見もよく、教師たちからの信頼も厚かった。 「まだ残ってたんですか?」 一之瀬はそう言って、凪の机いっぱいに広げられた資料へ目を落とした。 「学園祭の準備しなくちゃいけないので」 「この量を? 一人で?」 凪は苦笑いを浮かべるだけだった。 毎年この時期はこんなものだ。今年は実行委員を任されている分、例年以上に仕事が積み重なっている。 一之瀬は少し考えるように資料を見つめると、近くの椅子を引いた。 「俺も手伝いますよ」 遠慮しようと口を開きかけたが、一之瀬はすでに袖をまくり、資料を手に取っていた。あまりにも自然な動きに、断るタイミングを失う。 「……ありがとうございます」 凪はそう礼を言うと、仕分ける資料を一之瀬へ手渡した。慣れた手つきで資料を受け取ると、内容を確認しながら次々と分類していく。思っていた以上に手際が良かった。 体育教師ということもあり、細かな事務作業は苦手なのかと思っていたけれど、その予想はあっさりと裏切られる。 「そっちは終わりました」 そう言って差し出された資料は、一枚の乱れもなくきれいに揃えられていた。 「助かります」 一人で黙々と進めるはずだった仕事は、二人になっただけで驚くほど早く片付いていく。静まり返った職員室には、紙をめくる音とキーボードを打つ音だけが規則正しく響いていた。 「……終わったあ」 最後の資料をファイルへ綴じると、一之瀬は大きく背伸びをした。 「お疲れ様です」 凪もパソコンの電源を落とし、小さく息を吐く。腕時計へ目を向けると、時刻は午後十時を少し回っていた。 「今日は本当に助かりました」 凪は鞄へ資料をしまいながら、一之瀬へ頭を下げた。 一人だったら、まだ終わっていなかっただろう。ここまで手伝ってもらっておいて、このまま何もせずに帰すのは気が引ける。 凪は少しだけ言葉を選び、ゆっくりと口を開いた。 「また今度、お時間が合えば食事でも行きませんか」 「え?」 「今日のお礼です」 一之瀬は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑みを浮かべる。 「もちろんです」 その笑顔に、凪もどこか安心したように小さく頷いた。 「日程はまた後日、決めましょう」 「楽しみにしてます」 荷物を手に職員室を出る。消灯された廊下には二人の足音だけが響いていた。昇降口でそれぞれ靴を履き替え、校門の前で足を止める。 「今日は本当にありがとうございました」 「こちらこそ。また明日」 軽く手を振る一之瀬を見送り、凪は夜道へと歩き出した。まだ少し肌寒い夜風が頬を掠める。 学園祭まであと一ヶ月。慌ただしい毎日は、まだ始まったばかりだった。

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