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第53話 諦めさせてくれない
頭が真っ白になって。
弱々しい手つきでクヴァールを押しのけた。顔が見れなくて、ずっと下を向いて。
クヴァールは、そっと俺から距離をとった。
俺は後ろの本棚に掴まって、ゆっくりと立つ。
「帰ります」
「エルマ」
「ごめんなさい」
クヴァールがため息を吐く。その隣をすり抜けて、扉へ向かう。
ドアノブに手をかけた瞬間、クヴァールの声が響いた。
「十月十八日、十九時。ノイヤール峠で待ってる」
俺は振り返らないで、廊下を駆けた。
動悸が止まらない。
クヴァール邸を出て、もう二時間は経つのに。
呆然とトラオムの街を歩いていたら、いつの間にか夕方になっていた。
空は紫がかり、そろそろギルバートも帰っている頃だろう。俺も帰らなければ。
魔素研究を目にできたのは成果だし、魔素の理解を深められたのはよかった。
なのに。
なんで自分がこんなに動揺しているのか、わからない。
ーーー拠点に戻ったら、きみと聖騎士くんの地位は、どんどん離れていくよ
クヴァールに言われなくたって、わかっていたのに。
改めて言語化されたことで現実が見えてしまったからだろうか。
冷静になれば、クヴァールは、俺のことを親身になって考えてくれたんだと分かる。
おそらくクヴァールは……俺のことを好いている。一緒に海外に行こうと言ってくれるくらいには。恋愛的な感情と言っても差し支えないだろう。
この国<ギルバート>を選んでも、未来はない。
ヴァルトラ共和国<クヴァール>を選んだら、もしかしたら。
もしかしたら、俺は、幸せになれるのだろうか。
「……まさか」
俺はふっと笑った。
空はもう、吸い込まれるような群青になっていた。
「エルマ、遅かったな」
拠点に戻ると、ギルバートが心配そうに俺を迎えた。
俺は眉根を下げて「ただいま」と笑った。
特に何をされたわけでもないんだから言う必要もない。ギルバートには、気づかれたくない。
「ちょっとな。わりぃ、遅くなった」
「……あの男と何かあったのか」
「なんもねーって。研究所で魔素入りドリンクの作り方とか見せてもらった。詳しくはあとで話すわ」
軽く笑いかけて、先に風呂に入ることにした。
ギルバートはもう入っていたようだ。
シャワーの水が、勢いよく俺の頭を叩く。
ギルバートの顔を見た途端、涙が溢れそうになった。
ずっとムカついて、小うるさくて、めんどくさくて、優しくて、
ずっと好きだった。
この気持ちは捨てたほうがいい、諦めたほうがいい。幸せになれない。
縋ったところで、未来はない。
キュ、と蛇口を閉める。強く、握って。
ぼたぼたと髪を伝う冷水が、煩わしかった。
シャワーからあがると、ギルバートが料理をテーブルに並べていた。
仕事が終わって疲れてるだろうに、俺のために作ってくれたんだろう。テーブルにはパンとスープ、サラダ、美味しそうな肉料理が並ぶ。
俺が席につくと、ギルバートは魔法でパンをちょっと焼いてくれた。いつもは、そんなことしないんだけど。
「気が利くな」と笑いかけると、ギルバートは困ったように口を開いた。
「エルマが」
「なに?」
「……傷ついた顔をしてる」
俺は顔をひきつらせた。
うまく笑ってたはずなのに。なんで。
ギルバートは温めたばかりのパンを俺の皿に置いた。そして、スープにも魔法をかけた。途端に湯気が立ち、食欲をそそる香りが漂ってくる。
「クヴァールに何かされたのか。ひどいこと、とか、痛いこと、とか………」
「え、あ、え?」
「やっぱり俺もついていけばよかった。トラオムの騎士団に突きだそうか」
「待って待って、何の話?」
「……あの男に、乱暴なことをされたのかと思ったんだが」
は、と間抜けな声を出すと、ギルバートは険しい表情で真正面の席に座った。
瞳は怒り狂う凶暴な獣のようで、鋭敏な殺意が押し込められている。
「違う違う! 何もされてないよ! なんもなかったって!」
「……じゃあ、なんで落ち込んでるんだ」
「あー、その、うまく言えないんだけど、……ちょっとムカつくこと言われただけ。別に、襲われたりとか、そういうことはないから!」
慌てて叫んだ。
ひどいことはされてない。それで捕まったら冤罪になってしまう。
俺の様子をギルバートはじっと観察した。唇を噛みながら、じっと。
「何を言われたんだ」
「え、あ……。ごめん、これは俺の問題だから。あんま言いたくない、かな」
「……言葉の暴力も暴力だ」
「あー、うん。わかってる、んだけど……。クヴァールさんも悪気があったわけじゃないよ。……ホントに、俺の問題なんだ」
このままじゃホントに騎士団に突き出されてしまいそうだ。心配性だなと笑うと、ギルバートはそのままむすっと口を閉じた。
俺は温めてもらったばかりのスープをひとくち飲んだ。
じんわりとトマトの味が口に広がる。野菜の甘みと、コクのあるベーコンと、ほっこりする味付けが、美味しかった。
身体の奥から温まっていく感じがする。
「言いたくないなら無理には聞かないが……。俺は、エルマを傷つけるヤツは許さない」
ギルバートも食事を始めた。パンを千切って、口に放り込む。もそもそと、眉根を寄せたまま咀嚼する。
「………うん」
ありがと、と、小さく零した。
ふわふわのパンも手に取って、千切る。
柔らかくて、温かくて。
噛み締めると、小麦の味が広がった。美味しい。
ふと、涙が零れそうになって、必死にこらえた。
ギルバートはずるい。
何度諦めようとしたって、こうして諦めさせてくれない。
だから。俺は、きっと
いくらこの国が俺たちを隔てようとしたって、
たとえ報われなくても。
ずっとギルバートを追いかけてしまうんだろう。
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