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第58話 加護サイド<庭の夜風>
仕事が終わり、手配してもらったタクシーでゆったりと帰路につく。
院長たちと一緒に帰れない時は、気兼ねなくタクシーを使っていいと言われている。
こういう時の院長って、本当に太っ腹で大好きだ。
「電車で帰れ」なんて野暮なことは言わない。
同じ港区とはいえ、電車だと妙にアクセスが不便な上に、駅からあのすっごい急な坂道をハァハァ言いながら登らなきゃいけないんだから。
途中、生家に寄って温かいお弁当を受け取り、そのままホテルへと戻った。
由紀さんたちが作ってくれるお弁当は、いつも丁寧で心にしみる美味しさだ。
こんな手作りの味が毎日食べられるなんて、本当に幸せだと思う。
ちなみにミツワでの昼食は、いつも社員食堂でお世話になっている。
これも安定の安さと美味しさで、お財布にも優しくて大助かり。
そのうえ、昼食の時間は光枝蓮先生と一緒に行けるのだ。
これがもう、日々の勤務の中で最大の楽しみと言ってもいい。
スラリとスマートで、どこをどう切り取ってもイケメンな横顔をこっそり眺めるだけで、午前中の疲れなんて一気に吹き飛んでしまう。
仕事って、こういうご褒美がないとやっていけない。
夜、寝る前にちょっと中庭の緑でも眺めようかなと、ラウンジへ足を運んだ。
ここは2階への階段を上ると、客室の手前に共用のラウンジがある。
雨の日でも過ごせるように、ガラス張りの小さなサンルームのようになっている。
網戸がしっかり張られているから、夏の夜でも蚊や虫の心配をせずに心地いい風を感じられるのがお気に入りだ。
客室のバルコニーでもいいけど、一人だとちょっと殺風景な感じになる。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を優しく撫でていく。
――けれど、静かな空間に足を踏み入れると、すでに先客がいた。
なんと、そこにいたのは蓮さんだった。
「あ、こんばんは。お疲れ様です」
上品な声で、ふわりと穏やかに挨拶をされる。
「こんばんは。先生こそ、お疲れ様です。……もしかして、オンライン診療が終わったところなんですか?」
「はい。なんだか今日は人の深い悩みとずっと向き合っていたから、少し頭が疲れてしまって。それで、気晴らしにここへ」
「そうですよね、このガーデン、本当に落ち着きますよね」
「ええ、本当に天国のような場所です。……幸せだなあ」
彼は庭の緑に目を向けながら、マグカップを両手で包み込み、ゆっくりと温かい飲み物を口に含んでいた。
庭は、うっすらと木々や草花が浮かび上がる程度にライトアップされている。
防犯上、真っ暗にはならない。
そんなさりげない気配りが行き届いているところも、この場所の好きなところだ。
私も草花の青い匂いを孕んだ夜風を、すーっと深く、思いきり吸い込んだ。
ゆっくりと時間が流れる。
「仕事はどうですか?」
ふと、気になっていたことを尋ねてみる。
「いや~天国でしょう? 誰にもせかされないし、自分のペースで自由にできる仕事なんて最高ですよ。これ以上なんて望めないです。
……ところで、部長は? いつも忙しそうに走り回っていらっしゃいますが」
夜の少し湿った空気が、彼の穏やかな声でふわっと和らいだ。
――ちゃんと、私のことを見ていてくれたんだ。
「そう見えます? 実は、忙しい『ふり』がうまいだけなんですよ」
そうおどけてみせると、彼はくすっと小さな笑い声をこぼした。
あぁ、本当に、なんて可愛い人だろう。
「そういえば、今頃イタリアの一行はどうしているんでしょうねえ」
庭の緑に目を向けたまま、ぽつりと言葉が漏れる。
「ああ、満喫しているんじゃないですか? あれだけ万全の準備をして出かけたんですから」
「良いなあ……。すごく楽しそうですよね。
医者に『海外の買い付け』なんて縁のない世界ですからねえ」
彼のため息交じりの声には、ほんのちょっぴり本気の一途な羨ましさが滲んでいた。
「そうそう、私も全く同じことを思っていました! それがこの仕事の、数少ない難点ですよねえ~」
二人で顔を見合わせ、自嘲気味にクスッと笑ってしまった。
「……普通に有休を取って行けばいいじゃないですか。まだクリニックも本格的な本格稼働の時期じゃないですし、ちゃんと休暇を取れば行けますよ」
「ええっ? まさか。始まったばかりなのにそんなの無理ですよ」
「平気ですよ。院長も支配人たちが帰ってきたら、颯太さんと一緒にイタリアへ行くって言ってましたもん」
「本当ですか? いいなあ、羨ましいなあ……」
彼はテーブルにコトンと頬杖をついて、子供のようにうらやましがってみせた。
「そういえば院長たち、新婚旅行で行ったイタリアをよほど気に入ったみたいで、自宅の部屋をまるごと現地のホテルと同じ仕様にしちゃったんですよ。あれもすごかったなあ」
「え、部屋をですか? 見たことあるんですか?」
「はい、しっかり見学させてもらいました。なんせインテリアが本気で凄いです。現地のホテルのデザイナーをわざわざ呼んだそうですよ。家具も日本サイズでオーダーメイドしたんだとか」
「あぁ~だめだ、それは精神衛生上良くない話ですねえ」
「えへへ、今夜はもう眠れなくなっちゃいます?」
大げさに顔をしかめて見せたその姿は、どこか少年っぽくて愛おしい。
「……こんなことなら、聞くんじゃなかった」
「ふふ、ごめんなさい」
私は静かに微笑み返し、温かいマグカップにそっと口をつけた。
ほんの束の間だけど、最高に楽しいひと時を過ごせた。
忙しい日々の疲れなんてどこかへ吹き飛んで、今夜はぐっすり、心地よく眠れそうだ。
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