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第20話 幸せな洗脳

 螢緋が連れてこられたのは、東九条の古アパートだった。 (ここは、粧と一緒に来た。ドラッグ窟になっていたアパートだ)  外階段を昇って、三階の角部屋三〇一の扉を開ける。  何もない真っ白な部屋に入った。 (窓もない。また鈴音の幻想空間なのか?)  部屋に入った瞬間から、感覚が微妙に変だ。  足が床を踏んでいる気がしない。体が重いような気もするし、水の中にいるような浮遊感を感じる気もする。  普通の空間でないのは間違いないらしい。 「お前、本当に何も覚えていないの?」  鈴音が首を傾げた。 「何も、とは」  何を指しているのだろう。 「自分が何者なのか。何のために僕に作られたのか」 「お前に作られたとかは、よく覚えていない。目が覚めた時、才貴がいた。それは覚えている」 「ふぅん、他には?」  鈴音が鼻を鳴らす声が、やけに部屋の中に響いた。 「雲類鷲才貴が飼い主で、宇緑を殺せと命じられた」 「殺しに行ったのに、何で今まで典薬寮にいたの?」 「宇緑に拾われたから」  口がスルスルと言葉を話す。 (ダメだ。話し過ぎるのは、危険だ。宇緑に迷惑がかかる)  そう思うのに、質問されると口が勝手に開く。 「今の螢緋にとって、典薬寮はどんな場所?」  鈴音の口が緩慢に動く。鈴音から目が離せない。 (首、痛い……苦しい……)  いつの間にか鈴音が首輪を締めていた。 「早く答えてよ、螢緋」  鈴音の命令が脳に沁み込む。 「居心地の良い場所、皆が大事」 「宇緑は?」 「とても、大事……うっぁ」  首が締まって、息が苦しい。それがやけに心地良く感じる。 「気持ち良くなってきたねぇ、螢緋。どうしてほしい?」  鈴音の指先が螢緋の顎を撫でる。  くすぐったくて、もどかしい。 「もっと、締めて。もっと、苦しくして」  自分から鈴音の手を首に押し当てた。  首輪を締めてほしくて、我慢できない。 (ダメだ、感覚が、思考が、変だ。何とかしないと)  頭の片隅で、別の自分が囁く。なのに、衝動に逆らえない。 「息が、できないくらい、締めて……ぁ、ぁあっ」  鈴音が首輪の端を持って締め上げる。首に首輪の皮が食い込んだ。 「ぎっ……ぃっ」  口が泡沫を吹いて、視界が上転する。気持ちが昂って意識が飛びそうだ。 (もっと、もっと苦しくなりたい) (やめろ。これ以上は死ぬ)  二人の自分が自分の中でせめぎ合う。  螢緋の手が鈴音の腕を掴んだ。 「やめ……」 「苦しくて、幸せだね、螢緋」  鈴音の声が耳に流れ込んできた。体が大きくビクンと跳ねた。 (……苦しいほうが……幸せだ)  頭の中が幸せで満たされた。 「しあ、わせ……ぐるじ、ぐで……幸せ、もっと……」  鈴音の腕を掴む螢緋の手が、乞うように伸びる。  鈴音が、ぱっと手を離した。 「げほっ、かはっ……はぁ、はぁ」  浮いた体が床に座り込んだ。  体が無意識に空気を欲して息を吸い込む。 (何を、しているんだ、俺は。今、変な感覚になった)  息を吸いながら自分の首に触れる。首が捥げたかと思った。 「話の続きをしよう、螢緋。典薬寮は螢緋にとって居心地が良い場所なんだね。じゃぁ、宇緑は、螢緋にとって、どんな人?」 「とても、大切な、人」  ひりつく喉で、そう答えた。  鈴音の口が、弧を描いた。 「そっか。大切なんだ」 「心地良くて、大切で……側にいると、幸せだ」 「ふぅん。そういう者は、どうするんだっけ?」  鈴音の顔が、二重に見える。  自分の頭が揺れているみたいだ。 「そういう、もの、は……幸せなものは、壊すと、もっと幸せだ」  鈴音の指先が螢緋の首をなぞる。  チクリと痛みが走って、幸せな気持ちになった。 「そうだ、これだ。宇緑たちが大切だ。だから俺が、壊してあげれば、もっと幸せになれる」  とても良い案を思い付いた。螢緋の心が満たされる。 「そうだよ、いい子だね、螢緋。やっと僕の螢緋が戻ってきた」 「鈴音はいつも、俺に正しさを教えてくれる。好きだ」  鈴音が好きだ。無性に好きだ。螢緋は鈴音に抱き付いた。 「僕も螢緋が好きだよ。だから、みんなを幸せにするために、宇緑を殺そう。典薬寮の皆を殺そうね」 「全員、殺したら幸せになれる。どうして今まで、気が付かなかったんだろう」  こんなに良い方法があったのに、今までどうしてしなかったのだろう。とても不思議に思った。 「そのためには、自分が死んだっていいよね」 「構わない。命は使うためにある。それが幸せだ」  ずっとそう思っていたのに、大事なことを忘れていた。 「螢緋の緋色の狐火は毒を焼くためじゃない。命を刈り取るためにあるんだ。そうだね」 「その通りだ。刃に緋色の炎を走らせて心臓に突き立てたら、きっと宇緑も幸せだ」  これで宇緑を幸せにしてやれる。そう思ったら安心した。 「螢緋は、いい子。螢緋の本当の飼い主は、誰?」  螢緋を抱く鈴音が、頭を撫でてくれる。  そんなことより、痛く、苦しくしてほしい。 「才貴?」 「正解はぁ、才貴と僕。僕の命令は?」 「鈴音の命令は、絶対だ。従えば、幸せになれる」  鈴音の手が首輪に伸びた。端を掴んで思いっきり引っ張り上げる。  首が締まって、また苦しくなった。 「あっ! ぁあっ」  息ができなくて、苦しくて、痛い。  脳が興奮して、どうにかなりそうだ。歓喜が体中を支配した。 「ふふ、あはは、きゃははは! そうそう。お前はそうやって、ずっと狂っていればいいんだよ、穢れた狐神!」  鈴音が片方の手で呪具ドラッグの小瓶を開けた。 「この呪具ドラッグはさぁ、お前のために作ったんだよ。可愛い僕のペットに戻すためにね」  泡を吹く螢緋の口に、鈴音が無理矢理に呪具ドラッグを流し込んだ。  首を絞めていた手を緩める。 「んぐっ……ぁ、かはっ」  勢いで呪具ドラッグを飲み込んだ。螢緋の体はそれどころではなく、空気を求めて呼吸を繰り返す。  ぐわんぐわんと、変な音が耳の奥で鳴っている。 「一本目はきっかけ。二本目は、お土産に持たせて、あ・げ・る。仕上げは、じっくりとね」  鈴音の声が、頭の中で反響する。  胸の奥が熱くて、重い。何かが膨れ上がって、弾けそうなほど張り詰めている。  鈴音が螢緋の髪を掴んで顔を上向かせた。視界には鈴音の顔しか見えない。 「お前の飼い主は?」 「鈴音様です」 「そう、それでいいよ」  何も考えなくても、口は動いた。  耳には鈴音の言葉しか入って来ない。 「仕込んだ呪詛が動き出した。お前は呪いで穢れる。あんなに美しい神使の狐神だったのにねぇ。死んだ人間の中に閉じ込められて、可哀想にねぇ」  鈴音の笑い声が耳元で聞こえる。 「閉じ込めたのは、僕だけどぉ。死と呪いで穢れたお前は祟り神になるしかないねぇ。もう美しい狐火には戻れないんだ。きゃはは!」  鈴音の足が、螢緋の腹を蹴り飛ばす。体が床に沈んだ。 「ぐっ……痛くて、幸せ」 「本当に馬鹿で可哀想な子。その調子で、宇緑を殺すんだよ」  鈴音が何を言っているのか理解できない。なのに、言葉が脳に沁み込む。 (宇緑を殺せば、幸せだ。俺も宇緑も、幸せだ)  満たされた気持ちになって、螢緋は薄ら笑んだ。  鈴音の指が螢緋の額を押した。幸せな気持ちが、どんどん大きくなった。 「さぁ、螢緋。もっと幸せになるために、宇緑を殺しておいで」 「わかりました、鈴音様」 「その首輪を外さないようにね。命より大事にするんだよ」 「命より大事な首輪、嬉しい」  螢緋は幸せな気持ちで首輪を撫でた。

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