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第23話 宇緑の暗殺
ぼんやりした頭のまま、螢緋は典薬寮に向かって歩いていた。
思考が上手く働かない。頭に膜がかかったように、何も浮かばない。
(変な感じだ。何も考えられないのに、気持ちだけは幸せで、どうでもよくなる)
フワフワした幸せが、螢緋の胸に広がっていた。
「螢緋」
聞き覚えのある声に、振り返る。
典薬寮の近くの児童公園の中に、宇緑がいる。螢緋に向かって手を振っていた。
「宇緑……」
宇緑に会えた。それだけで嬉しい。心にまた幸せが湧き上がった。
螢緋は宇緑に駆け寄った。
「会いたかったんだ。良かった」
螢緋は宇緑に抱き付いた。宇緑の体が、ビクンと跳ねた。
「これで宇緑も幸せだろ」
手に握ったナイフを、更に宇緑の腹にめり込ませる。
宇緑が螢緋の肩を押し返した。
「……ははっ、凄いね、螢緋。殺気もなく人を刺せるんだ」
腹にナイフを刺したまま、宇緑が後ろに下がった。
「殺気? そんなもの、必要ない。苦しいのは幸せなんだ。俺は宇緑を幸せにしただけだよ」
宇緑の腹にジワリと血が滲む。その身体が、がたりと傾いた。
「一緒に幸せになろう。宇緑をもっと幸せにしたら、俺も同じように幸せになるから」
もう一本のナイフを自分の首に突き立てる。胸が疼くように興奮した。
「その首輪……呪詛じゃなくて、呪具ドラッグの洗脳か」
宇緑が、ぎりっと歯軋りした。
「舐められてるな。残念だけど、この程度じゃ俺は殺せないよ」
宇緑の言葉に、螢緋は首を傾げた。
「殺すんじゃなくて、幸せになるんだよ。苦しいのは、幸せだろ」
「そういうの、幸せとは言わないんだ」
いつの間にか、宇緑が目の前にいた。
「もっと刺してあげるよ」
螢緋はナイフを振り上げた。
宇緑に向かって振り下ろそうとして、違和感に気付いた。
「ナイフがない」
螢緋のナイフは宇緑の手に握られていた。
「三年前に俺を殺しに来た時とは、違う洗脳だね。つくづく趣味が悪い」
宇緑が悔しそうに吐き捨てた。
螢緋には、宇緑の言葉も表情の意味も、わからない。
「それで俺を刺してよ、宇緑。俺も刺してあげるから」
螢緋は宇緑に抱き付いた。最初に刺したナイフをぐりぐりと押す。
宇緑が顔を顰めた。
「苦しめるのが幸せか。思った以上に厄介だね」
宇緑が螢緋の首にナイフを押し当てた。
「切ってほしい?」
「切って。声が出なくなるほど喉を切り裂いて、苦しくして」
うっとりした気持ちで宇緑を見上げる。宇緑が顔を顰めた。
「螢緋の神力が封じられてさえいなければ、この程度の洗脳、指一本で祓えるのにね」
宇緑が悔しそうだ。
螢緋は腹に刺さったナイフを更に押した。
「くっ……」
宇緑が苦悶の声を上げた。嬉しくなった。
「もっと、強く刺さないと、宇緑が幸せになれないかな」
ナイフを握ると、引いて刺すを繰り返した。
「螢緋……っ!」
宇緑の手が螢緋の手首を握って止めた。
「こんなことして……覚悟しておいてよ。キス程度じゃ済まさないから」
「俺のことも苦しくしてくれるの? 楽しみだ」
寄り添った螢緋の首に、宇緑がナイフを添えた。
宇緑の手からナイフの刃に伝った呪力が、明るく灯った。
「邪な力を祓え」
宇緑の口から言霊が飛び出した。光を纏ったナイフが、首輪を断ち切った。
ブチン、と大きな音が頭の中で鳴り響いた。頭の中を覆っていた霧が、一気に晴れた。
「なんだ……? 何が起こって……」
目に飛び込んできたのは、腹を刺された宇緑の姿だった。
「何で……宇緑。誰に刺されて」
そこまで言って、さっきまでのやり取りを思い出した。
「違う……刺したのは、俺だ」
それが正しいと思い込んでいた。宇緑を刺した時、幸せだった。
さっきまでの自分に吐き気がする。
「動いちゃダメだ、宇緑。早く手当てしないと」
手が震えて、ナイフに触れられない。
宇緑が自分でナイフを抜いた。どぷり、と血が噴き出した。
「宇緑! 何して……」
「大丈夫。それより、ちゃんと戻ったね」
宇緑が螢緋の胸に耳をあてた。
「呪詛は、まだ発動していないかな」
宇緑が呟いた。
「そのこと知って……それより今は、早く、救急車」
螢緋の中に呪詛があるのを、宇緑が知っている。
詳しく聞きたいが、宇緑の指が震えているのが気になって、聞けなかった。
「救急車より、典薬寮に帰ろう。終夜が待機しているはずだか、ら……」
宇緑の体が倒れ込んだ。螢緋は倒れてきた体を必死に支えた。
「宇緑、宇緑!」
宇緑の顔が蒼白だ。息が浅くて、顔が険しい。
「ちょっと、血が流れ過ぎたかな」
足の力が抜けて、宇緑がその場に座り込んだ。
「そうだ、電話」
スマホを出して、終夜に電話を入れる。
「螢緋、宇緑さん!」
ワンコールしたら終夜が現れた。どういう絡繰りか聞きたかったが、それどころではない。
宇緑の腹の傷を見つけて、終夜が顔を顰めた。
「俺が、刺したんだ。俺が……」
目の前が涙で潤む。
「とにかく今は、典薬寮に運びますよ」
終夜の背中に宇緑の体を乗せる。歩き出した終夜に続いた。
来ていた上着を脱いで丸めると、宇緑の傷に押し当てた。
(なんで、こんなことに。なんで)
考えても自分の行動が理解できない。
ドクン、と一際大きく心臓が揺れた。
「え……何?」
前のめりになって、螢緋は足を止めた。
「どうしました、螢緋」
「うん、今……」
螢緋は言葉を止めた。
(これ以上、迷惑も心配もかけたくない)
終夜と宇緑の姿を見たら、何も言えなくなった。
「ううん、何でもない」
違和感を飲み込んで、螢緋は宇緑を支えながら終夜の後ろを歩いた。
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