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第33話 せめぎ合う理性

 ドクン、と心臓が大きく波打った。  さらさらと冷たい水が胸の真ん中を流れたような気がして、螢緋は足を止めた。 「俺は、どうして……宇緑を……殺すんだ?」  神力と記憶が戻っただけだ。宇緑を殺す理由がない。  ドクン、と今度は別の何かが、胸の奥で跳ねた。黒い衝動が擡げてくる。 「ぁ……はっ、殺したい、殺さねば。宇緑を殺す」  胸の内側から強い衝動が湧く。体の中が焼けるように熱い。 「呪詛のせいで、こんな衝動が……?」  螢緋は、奥歯を強く噛んで衝動に耐えた。 (雲類鷲を殺しても、発動した呪詛は消えない。宇緑を殺すか、俺が死ぬしかないのか)  宇緑を殺したくて仕方がない。殺したくない自分もいる。  二つの心がせめぎ合って、苦しい。 「祟り神にも、なりきれていない。狐神にも、戻れない」  狐神の緋色の狐火なら、呪詛を焼ける。  祟り神の黒い狐火では、殺人衝動が増すだけだ。 (けど、今ならまだ、呪詛に抗う理性は残っている)  螢緋は部屋の隅で蹲る紫葉に目を向けた。  紫葉がビクリと体を震わせた。 「頼まれて、くれないか?」  螢緋は粧を抱き上げて、紫葉に歩み寄った。 「典薬寮に粧を届けてくれ。それから宇緑に伝言を。俺を殺しに来てくれ、と」  紫葉が怯えた様子で何度も頷いた。 「わかった……行く。行くから、殺さないでくれ」  立ち上がった紫葉が、粧の体を受け取った。逃げるように部屋を出て行った。  部屋の窓から、紫葉が車を走らせるのを見送った。  不意に、鏡が目に入った。 「姿が、変わっている」  十九歳のあどけなさが残る短髪の青年とは程遠い。  長い髪に高い身長、大人びた顔。装いも和装に戻っている。神使の頃のようだ。  違うのは、髪が銀髪ではなく黒いことと、爪が長い。何より、やけに目が真っ黒だ。 「宇緑は、緋色の瞳を綺麗だと言ってくれたのに」  鏡に映る自分の目を見詰めた。  穢れが瞳の中までを支配している。ぞっとするのに、心地良く感じる。 「早く宇緑を、殺したい」  無意識に口走った。そんな自分に、怖気が走る。  螢緋は床に転がる鈴音と雲類鷲を眺めた。あの二人の死体を見ても、何も感じない。  人を殺すことに抵抗がない。宇緑を殺したい衝動が止まらない。  理屈など、どうでもいい。ただ殺したい。これはきっと、呪詛の影響なのだろう。 (今以上に呪詛に侵食されないように、踏み止まらなければ)  螢緋は部屋を出た。  適当に広い部屋を選んで、ベッドに座り込んだ。 「俺が宇緑を殺さないために。これ以上、誰も殺さないために。宇緑に俺を殺してもらわないと」  狐火を浮かせて、手足を火で拘束した。 「……ふっ、ふふっ。早く来い、宇緑。俺に殺されに来い」  口走った言葉に、自分が正気ではないと気付かされる。 (このままだと、本当に)  唇を噛んで、衝動に耐えた。 「すまない、宇緑。お嫁さんは、やっぱり無理だ」  ぽつりと、言葉だけが流れた。 「頼むから、俺を殺してくれ、宇緑」  祟り神に完全に堕ちる前に、終わらせてほしい。  それだけが、宇緑を損なわない方法だ。炎の縄で、自分の手足をきつく縛った。

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