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第4話 スケッチブック

 午後からの問診が終わり、先生が病室を出て遠ざかっていく革靴の音を聞きながら、オレはパタンとベッドに横たえる。  カツ、カツという規則正しい音が遠ざかっていき、廊下の静けさに溶けていく。  まるで時計の針みたいな正確な音が、冷たく感じるも、どこか安心できる音。  先生が去った後の病室は、いつもより少しだけ広く静かに感じてしまう。    今日は、朝からいつもよりたくさん喋ってしまった。  午前中、ふとした流れで恋人とか番の話しをしてしまったから、欲が出た。 「先生、休みの日は何してんの?」なんて、ちょっと意地悪な質問だったかも。 「先生のことだから、休みの日は医学書とか論文を読んで終わりだったりして」  オレが冗談で先生の休日のことを言うと、先生はちょっと不機嫌そうな顔をして「そうだ」って言ってた。 「別に、他にやることがないというわけじゃない。普段できない家の用事を済ませて、時間ができたときに医学書を読み返したり、新しい論文を読んだりしているだけだ」  と、予想通りすぎる仕事人間の先生らしい回答に、思わずクスクスと笑ってしまった。 「えぇ~、先生真面目過ぎない?それじゃ疲れちゃうよ?」  オレが揶揄うように言うと、先生は一瞬ムッとしたような、でもどこか拗ねたような表情を浮かべた。  普段はクールで感情を閉じ込めたガラス細工みたいな先生の、こんなレアな表情を見れるなんて……ちょっと、ドキッとする。  耳、真っ赤だったなぁ~。うん。なんか、可愛かった。  あの耳の赤いの、色鉛筆でどう描こうかな。  朱色に少しだけオレンジをのせて、ほんのり淡くすればいいのかな?  またひとつ、先生の一面を知ることができた。    ベッドに横になりながら、オレはスケッチブックを開いた。  朝に書いた先生の横顔。  まだ下書きの段階だけど、不思議と消したくない。  今日だけで、前よりも先生のことを少し知ることができた気がするから……  休みの日の過ごし方とか、焦ると『俺』って言うこととか。  照れると耳が赤くなることとか……  そんな小さな発見が、なんだか嬉しかった。  先生の黒髪に色を重ねながら、思わず口元が緩む。  もっと知りたいな。  先生の好きな食べ物とか、好きな映画とか……  海を見たとき、どんな顔をするのかとか。  そんなことを考えながら、オレはひたすら鉛筆を走らせていく。  夢中になって絵を描いていれば、病室の静けさも少しだけ気にならなくなる気がした。  そういえば……先生のあの匂いってなんなんだろう?  消毒液の清潔な香りにほんの少しだけ混じった柔らかい何か……  石鹸?ううん、違う。もっと温かみのある木の香り。  診察のとき、先生が近くに来ると胸の奥がキュッとなる。  でも、それと同時にホッとする匂い。  あの匂いに包まれたら、少しは痛みがマシになるんじゃないかな?って、馬鹿みたいなことを考えちゃう。   「――ッ!」  不意に胸を何かで刺されたようなズキンッとする痛みが走った。  思わず小さな声が漏れて、胸元をギュッと手で押さえ、唇の裏側を噛み締めてなんとか耐える。  額に冷や汗が滲むのを感じながら、ゆっくり、ゆっくり深呼吸を繰り返し、痛みが引いていくのを待つ。  痛みは波みたいにやってきて、何度目かの深呼吸の後に収まっていく。  やっと痛みが落ち着き、震える唇で小さく呟く。 「大丈夫……」  そう呟いた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。  本当に大丈夫なら、こんなふうに自分へ言い聞かせる必要なんてないのに…… 「大丈夫……まだ、大丈夫……」  それでも、自分の心を偽るように繰り返し呟く。  でも心の奥底ではわかっている。  この痛みはフェロモン崩壊症のいつもの発作だってこと。  Ω性の身体が勝手に自分のフェロモンを拒絶して、こうやって時々暴れて苦しくなる。  先生には『安静にしてください』って言われてるけど、安静って何?  ただじっとしてるだけじゃ、頭がおかしくなりそう。  だから、何でもないって、オレの未来はまだ明るいって、自分に言い聞かせる。   「はぁ……やっと、治まったぁ……。はぁ……コレ、先生の匂いに包まれたら、痛いのマシにならないかな?先生の匂い、すっごく落ち着くんだけど……」  額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭い、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。 「あ……でも、いきなり先生の服が欲しいなんて言ったら引かれちゃうか……。恋人とかなら、先生の服もらえるのかな……」  最近、独り言が増えた気がする。  ここに来てから、もうすぐ三ヶ月。  もともと、誰かとワイワイ騒ぐタイプじゃなかった。  イラストレーターとして、部屋にこもって絵を描いて、ネットで知り合った友人と通話で喋るのが好きだった。  アニメの話とか、好きなアーティストの話とか、くだらないことで笑い合って。  それが、オレの【外】と繋がってる実感だった。  ここに来てからは、先生と美咲さん、あと数人の看護師さんとしかまともに話もしていない。  他の誰かと気軽に話すのが、なんだか怖くなってしまった。    自分の声が病室の白い壁に吸い込まれていくみたいで、余計に孤独を感じる。 「でも、Wi-Fiくらい強化してもらえばよかったかな……。タブレットがあれば、もっと自由に絵が描けるのに。海の絵とか、描きたいな……」    海。  朝、先生に話した海の話。  退院なんて無理だって、頭ではわかってる。  でも、頭のどこかで青い海をスケッチブックに描く自分を想像してしまう。  深い青、明るい水色、波の白い泡。  色んな青を重ねて、広くて大きな海を……  先生と一緒にその海を見られたら、なんて、考えるだけで胸が熱くなる。 「先生の匂い、思い出すだけでドキドキする。海の風に混じったら、どんな感じになるかな……」  スケッチブックに描いた先生の絵に、そっと指で触れる。  先生の髪、先生の目、先生の匂い。  全部、絵に閉じ込めたい。  だって、時間はそんなに残ってないから。    この病院が、医療費も入院費も全部負担してくれるのはありがたい。  オレの病気は珍しいらしいから、採血も検査も……他の人よりずっと多い。  今日の数値がどうだったとか、病状がどれくらい進んだとか……  きっと、全部が全部、誰かを救うために必要なことなんだと思う。  それは……わかってる。  わかってはいるけど……  時々、無性に怖くなる。  病室の名前じゃなくて、番号で呼ばれているような気がするときがある。  病気の名前ばかりが先にあって……【神崎 葵】が置いていかれてしまったような気がする。  オレはまだ……生きている。  まだ絵を描きたいし、海も見たい。  美味しいものだって食べたいし、先生や美咲さんと話して笑っていたい。  恋だって……できるなら、してみたい。  それなのに……ふとした瞬間、思ってしまうんだ。  だからこそ、先生にはオレを見てほしかった。  フェロモン崩壊症の患者じゃなくて。  研究対象でもなくて……  ただの……【神崎 葵】として。  先生には……そう見てほしい。  クールな先生がほんの少しでも、オレを【葵】として見てくれる瞬間があるなら……  それだけで、もう少しだけ、頑張れる気がする。  まぁ……わがままを言うなら、先生ともっと仲良くなりたい。  本音ではそう思っているけど、それは無理な話だって自分でもわかってるから、心の内に秘めておく。 「ねぇ、先生。いつか、オレの絵、ちゃんと見てくれる?海の絵、先生に見せたいな……」  スケッチブックを胸に抱えながら、誰もいない病室で小さく呟く。  先生の革靴の音は、もう聞こえない。

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