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第5話 色鉛筆
「葵くーん……先生、帰った?」
辺りを警戒するようにキョロキョロしながら、まるで忍び足の猫みたいにこっそり病室に滑り込んできた。
美咲さんはいつもの看護師の白衣じゃなくて、アイボリーのふんわりしたブラウスに、ネイビーのフレアスカートを着ていた。
ほのかに甘い香水の香りが病室の消毒液の匂いと混じって、なんだか新鮮だ。
「美咲さん?あれ?今日、休みじゃなかったっけ?」
美咲さんに見つからないように、スケッチブックを慌ててシーツの下に押し込み、ベッドの上で身体を起こして振り返る。
だって、このスケッチブックには佐藤先生の下描きがぎっしり描かれているから……
こんなの美咲さんに見られたら、絶対からかわれるに決まってる。
「うん、休みなんだけどさ!葵くんにどーしても渡したいものがあって、こっそり来ちゃった♪」
美咲さんは、いたずらっぽい笑顔でウィンクしながら、ベッドの横に置かれた椅子にちょこんと腰かける。
手には、ちょっとくしゃっとなってしまった紙袋があった。
きっと、急いでここに来てくれたから、途中で握り潰しちゃったんだろうな。
彼女のネイルが、淡いピンクにキラキラ光ってるのを見て、なんかデートっぽい雰囲気だなって思った。
「もしかして、旦那さんとデート中なんじゃないの?」
オレがちょっと不安げに聞くと、照れたように頬を手で挟みながら、はにかんだ笑みを浮かべていた。
「お買い物~って言うのが一番なんだけど、久々だからデートと言えばデートかな?」
口ではお買い物って言ってるけど、美咲さんの表情を見ると嬉しくてしかたないって感じだった。
そんな旦那さんとラブラブなデート中なのに、わざわざオレのために来てくれたんだ。
「はい、葵くんにプレゼント~!今日、街の文房具屋さんで見つけた色鉛筆!どの色もすっごく綺麗で、迷っちゃってさ。もう、気になるの全部買ってきちゃった!」
美咲さんが紙袋から取り出した封筒を開けると、色とりどりの色鉛筆が十本、コロコロとベッドの上に転がる。
深い海の青、柔らかな空の水色、夕焼けみたいなオレンジ、森の緑……。
どの色も、今まで使ってた色鉛筆にはない、キラキラした輝きがある。
並べるだけで、なんか心が踊るみたい。
「うわぁ~!めっちゃ綺麗!美咲さん、ありがとう!」
思わず目を輝かせて、大きな歓声を上げてしまった。
だって、こんな色、見たことない!
この青、海を描くのにぴったりだ。
深い海の青。
晴れた日の空みたいな水色。
この色があれば、ずっと描きたかった海が描けるかもしれない。
それに——
この青なら、佐藤先生の目にも近いかもしれない。
ほら先生の目って、診察の時にじっと見ると深くて冷たい海の底みたいだけど、どこか温かみがあるんだよね。
この水色なら、先生の髪のハイライトにも合うかも。
「シィーッ!葵くん、声大きいよ!バレちゃうからっ!」
美咲さんが慌てて手を振って制止するけど、オレの嬉しさは止まらない。
だってこの色鉛筆があれば、先生の絵がもっと、もっとリアルになるんだもん!
でも、歓声を上げたせいか、ちょっと息が切れて胸がチクチクした。
痛みを押さえようとそっと胸元に手を添えてハッと気づき、唇の裏を噛み締めて美咲さんにはバレないように笑顔をキープする。
「ご、ごめん、美咲さん。つい、テンション上がっちゃって……」
口元に人差し指を添えて、シーっというようなジェスチャーをオレもする。
「でも、ほんと、めっちゃ嬉しいよ。これ、絶対大事に使うから!」
笑顔は崩れてないはずだから、バレてないつもりなんだけど……
そう思っているのに、美咲さんはちょっと心配そうな目でオレを見ていた。
大丈夫。バレてないはず……
大丈夫。
このくらい、いつものことだ。
少し休めばすぐに治まる。
だから……美咲さんに言う必要なんてない。
せっかくの休みの日なのに、オレのせいで心配なんてさせたくない。
……だから、大丈夫。
「もう、葵くんったら子どもみたいなんだから!でもさ、その笑顔見ると持ってきた甲斐があったなって思うよ。で、どんな絵を描くの?まさか、また佐藤先生の絵ばっかりじゃないよね~?」
さっきまでの心配そうな雰囲気が一気に引っ込み、ニヤニヤしながら揶揄うように言う美咲さん。
「ち、ちがっ!違うよ!」
美咲さんの言葉に顔がカッと熱くなる。
やばい、図星すぎる!
「べ、別に先生ばっかり描いてるわけじゃ……。海の絵とか、描きたいな~って思ってるだけ!」
慌てて否定するけど、声が裏返っちゃって余計に怪しまれてしまった。
「ふーん?」って、めっちゃ疑う目で見てくる。
これ以上顔を見られてると先生への気持ちもバレちゃいそうだったから、急いで顔を背けて隠したのに、美咲さんの一言で全てがパーになってしまった。
「まぁまぁ。葵くんが先生のこと好きそうなのは、私の胸の内にしまっておいてあげる♪大丈夫、私誰にも言わないよ~。でもさ、先生のあのクールな顔、葵くんが絵にしたらどんな感じになるんだろう?ねぇ、ちょっと見せてよ、ね?」
美咲さんがベッドに身を乗り出して、スケッチブックを覗こうとするから、慌ててシーツをギュッと握る。
「は?え?え!?……オ、オレ……そんなにわかりやすい?」
思わず両手で顔を覆う。
オレ……そんなに先生の話ばっかりしてたかな?
……うぅ、してたかも。
ヤバい、恥ずかしすぎて首も耳も熱い。
チラリと横目で美咲さんを見ると、彼女はニヤニヤと楽しそうにオレの反応を見ていた。
「……ちゃ、ちゃんと完成したら、いつか見せるから……。だから、今はダメ!」
「はいはい、焦らないでよ~。葵くんのペースでね」
オレがムキになって言っても、美咲さんはクスクス笑いながら軽く手を振ってくるだけで、気にした様子もない。
「はぁ……美咲さんには敵わないや……」
ため息と共に降参すると、美咲さんはいつもと変わらない笑顔を向けてくれた。
美咲さんの笑い声が響いた後、ふと穏やかな時間が流れて、買ってきてもらった色鉛筆に目を落とす。
「あ……美咲さん旦那さんとデート中でしょ?こんなところで油を売ってちゃダメだよ。旦那さん心配するよ?」
オレが仕返しと言わんばかりにちょっとからかうと、美咲さんはマズいという表情を浮かべ、慌てて立ち上がる。
「うっ、確かに!じゃ、そろそろ行くね!明日はちゃんとシフトで来るから!」
来たとき同様、誰にも見つからないようにコソコソと扉を開け、振り返って小さく手を振ってくれる。
「葵くん、いい絵描いてね!」
元気なそよ風のような美咲さんが出て行くのを、扉が静かに閉まる音を聞きながら見送った。
誰もいなくなった病室で、オレはコロンとベッドに寝転がって買ってもらったばかりの色鉛筆を胸に抱く。
この色で、海を描きたい。
先生に、オレの描いた海を見てもらいたい。
そして——できることなら、先生のことも……
時間がなくても、描きたいものがまだまだいっぱいある。
だからもう少しだけ、頑張ってみようと思えた。
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