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第8話 普通の恋愛

 え、なに?今、なんて? 「君が嫌でなければ、俺とやってみないか?」  先生の声は、いつもより低くて……でも、めちゃくちゃ真剣な眼差しでオレを見ていた。  あの目は、嘘とか冗談じゃなくて、本気で言ってる目だ。  海の底みたいに深い。でも、どこか温かい光がキラキラしてる。  オレの手を先生の大きな手がそっと握り締める。  カルテを持たないその手、ちょっと汗ばんでる気がする。  先生、緊張してる?   「葵、俺と普通の恋愛をしてみないか」  名前を呼ばれた瞬間、胸がギュッと締め付けられたように感じた。  先生がオレを【患者】としてじゃなくて、【葵】って呼んでくれるの初めてだと思う。 【検体】としてのオレじゃなくて、【神崎 葵】として、先生がオレのことを見てくれている。  そんな風に真っ直ぐな目で言われたら、嘘でも冗談でも、信じたくなる。  だってこんなこと、夢でも見なかったんだから。 「え?嘘……ホントに?これ、夢じゃないよね?」  試しに頬をギュッとつねってみるけど、鈍い痛みが走るだけで夢じゃなかった。  オレの手を握る先生の手が、めっちゃ温かい。  オレの手、震えてるのバレてないかな? 「えっと、いいの……?ホントに?オレ、こんな病気なのに……?」  声が震えて、言葉がうまく出てこない。  だって、佐藤先生だよ?  いつもクールで、笑うのすらレアな先生。  照れるとぶっきら棒な口調になって、耳が真っ赤になる先生。  でも、すっごく優しくて、オレのことをちゃんと見てくれる先生。  αで、お医者様で、イケメンで……すっごくモテる先生。  そんな先生が、オレと恋愛するなんて信じられない。  末期のフェロモン崩壊症患者でしかないオレなんかと恋愛ごっこをしても、時間の無駄でしかないのに……  先生には何の得もないんだよ?  こんな身体じゃ、普通のデートもできないのに……  ホントに?夢じゃなくて?  こんな……こんなしあわせなこと、本当にあり得るの?  先生は、フッと優しい笑みを浮かべ、そして、そっと額を合わせてきた。 「うん、本気だ。君がいいなら、俺は本気で葵と恋愛をしたい」  先生の節ばった男性の指が、オレのやせ細った手にそっと絡む。  初めて感じる、先生の肌の感触。  深緑の香りみたいな先生の匂いがいつもよりも近くて、胸が苦しくなるくらいドキドキする。   「俺が相手だと、葵の【普通の恋愛】相手にはふさわしくないか?」  間近で見つめてくるダークグレーの瞳と目が合う。  先生の目、想像していたよりもずっと綺麗。  海よりも深い、闇のような黒。  でも、星を含んだようなキラキラの輝き。  青だけじゃ表現できない。黒だけじゃ足りない。  海のような先生の瞳。 「ううん……。先生が、いい。うん……やってみたい。先生と、恋愛、してみたい……!」  さっきから心臓の音がバクバクと鳴り響いてうるさい。  顔が熱くて、頭沸騰しそう。  耳まで真っ赤になってるの、自分でもわかる。  オレが先生の手をギュッと握り返すと、先生はちょっと驚いた顔をしていた。  そのあと、【ラビヲ】をくれたときの笑顔より、もっと柔らかい笑顔を見せてくれた。 「これからは、恋人として……よろしく頼む」 【恋人】という言葉に頭の中で花火がパチパチ弾ける。  嬉しいのと、恥ずかしいのと、なんか泣きそうなのと……いろんな感情がぐちゃぐちゃになって、胸がパンクしそう。 「じゃあ、まずは今度デートしようか。病室でも、俺たちなりのデートができるだろ?」  恋人になれただけでも嬉しくてしかたないのに、先生が次に発した言葉に、目の前がくらくらする。  デートって……、あの【デート】?  あ、でも、病室内だけのオレたちのデートって、どんなことをするんだろ?  病室の窓辺でクッキー食べながら色んな話をする?  先生と一緒にスケッチブックに絵を描いたりする?  病院の屋上で夕陽を眺めたり、星を見たり……  え?そんなの普通の恋愛より、ずっと特別なデートになるって決まってる!  先生とだったら、車椅子でも、こんな身体でも、全部忘れられる気がする。  ひとりで色々妄想しているせいで、顔がにやけてしまい、だらしない顔になってしまう。  そんなオレを見て、先生は小さく息を吐いた。  呆れているみたいにも見えるし、困っているみたいにも見える。  でも、その目はどこか優しかった。 「葵……」  名前を呼ばれただけなのに、胸が熱くなる。  先生の声は、低くて穏やかで……まるでオレを包み込むみたいだった。  顔を上げると、先生は少し困ったように笑っている。  いつものクールな顔じゃない。  オレだけが知っている、柔らかな表情。  その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。  あぁ……好きだな。  どうしようもなく、先生のことが好きだ。  今日、オレと先生は恋人になった。 【期限つきの恋人】    フェロモン崩壊症のせいで、残された時間はたぶん長くない。  それでもいい。  先生と出会う前なら、そんな現実を考えるたびに怖くて堪らなかった。  描きたい絵も、行きたい場所も、やりたいこともたくさんあるのに……  全部を置いていかなきゃいけない気がして、どうしようもなく苦しかった。  でも——  今は少しだけ違う。  だって、先生がオレのことを『葵』って呼んでくれたから。  患者じゃなくて、検体でもなくて…… 【神崎 葵】として、オレのことを見てくれた。  そのことが、どうしようもなく嬉しかった。  だから、大丈夫。  先のことなんてわからない。  明日のことだって、この身体がどうなるのかわからないんだ。  それでも、今だけはこのしあわせを信じたい。  オレの初めての恋は、今日、始まったんだ。  窓から差し込む夕陽が、カーテンをオレンジ色に染めていた。  先生の手のぬくもりは、まだ指先に残っている。  スケッチブックを開く。  今日は先生の笑顔を絶対描こう。  海の絵の端っこにラビヲ。  その横には、先生。  そして……少しだけ笑っているオレの顔も描いてみようかな。  描きたいもの、また増えちゃった。  だから、明日も頑張ろう。

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