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第9話 悩み事

「それで~?佐藤先生とお付き合いを始めることになった葵くんは、何が不満なのかなぁ~?」  オレのベッドに備え付けられている簡素なテーブルに頬杖をつきながら、ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて聞いてくる美咲さん。  白い看護師の制服が彼女の明るい雰囲気に少しだけ落ち着いた印象を与えているけど、その目は好奇心とからかいでキラキラしてる。  オレと佐藤先生が恋人になってから、もうすぐ二週間が経とうとしていた。  病室の窓から差し込む柔らかな日差しが、彼女のオレンジがかったショコラブラウンの髪を輝かせ、まるでこの部屋で一番明るい存在みたいだ。 「べ、別に不満なんてないよ?ただ……デートしようって言ってくれたけど、やってることって、いつもとあんまり変わらないなぁ~って、ちょっとだけ思っただけで……」  ベッドのシーツの端を無意識に指でつまみながら、俯き加減で美咲さんに愚痴をこぼす。  自分の声が少し震えてるのに気づいて、ちょっと恥ずかしくなる。  この二週間、オレが頭の中で何度も妄想したデートは、確かに現実になった。  先生は検診時間をいつもより早めてくれて、終わった後もそばにいてくれる時間が長くなった。  一緒にお菓子を食べたり、病室の窓から見える病院の中庭の景色を眺めたり、オレが描いたラビヲの絵を照れくさそうに、でも優しく褒めてくれたりした。  先生の笑顔は、いつもより少し柔らかくて、ドキッとする瞬間もあった。  一緒にいられるのは、ほんとにすっごく嬉しい。  先生の落ち着いた声や、時折見せてくれる不器用な優しさに心が温まる。  でも、『これってデート?』って考えると、なんだか疑問が湧いてくる。  ぶっちゃけ、今までの関係とそこまで大きく変わってないと思う。  いや、確かに今までよりは親密になってるとは思うけど……  先生がオレの絵に真剣にコメントしてくれたり、ちょっとした冗談を言い合ったりする時間が増えたから。  でも、恋人って呼べるほどの関係か?って聞かれたら、なんだか親しい友人止まりな気がしてしまう。    だって、手を握るのも健診の時に脈を測るためのあの一瞬くらいだ。  本当はもっと先生の温もりを感じたいし、触れてもらいたい。  先生の手の温もりを思い出すだけで、胸がキュッとなるけど、同時に物足りなさも感じてしまう。    αとΩが恋人同士になれば、発情期を一緒に過ごしたり、もっと深い絆で結ばれると思ってた。  でも、オレの場合、その夢みたいな話は遠い。 【フェロモン崩壊症】  ――Ωのフェロモン感受性が異常に高まり、自身のフェロモンや外部(特にα)のフェロモンに過剰反応することで、神経系や全身の機能が徐々に崩壊していく進行性疾患。    この病気のせいで、オレは入院してからずっと、発情期が起こらないように抑制剤の点滴を受け続けている。  点滴のチューブが腕に刺さる感触は、もう日常の一部だ。  Ωがαを求めて放つフェロモンが、逆に自分を壊すなんて、なんて皮肉な病気なんだろう。  時々、本当に時々だけど……  この病気って、失敗作のΩを優秀なαと番わせないための自然の仕組みなんじゃないかって。  そんな考えが、時々だけど、頭をよぎってしまう。  でも、ちょっとだけ納得しちゃってる自分がいるんだよね。  だって、オレみたいなΩを番にしても、誰の得にもならないから……  誰も、オレみたいなΩを番になんて選ばないだろうから……   「ん~、デートかぁ~」  美咲さんは腕を組み、顎を指でスリスリしながら考え込む。 「街に出るってのは、さすがに難しいよね?ん~、この際、色仕掛けでもしてみる?」  いたずらっぽく笑いながら、身をくねらせてポーズを取る美咲さん。  そんな姿を見て、思わずクスっと笑ってしまった。  けど、それは美咲さんみたいに綺麗な人だから許されるわけで、男のオレじゃ意味がないと思う。 「はぁ~……美咲さんみたいに綺麗だったらその作戦でも行けるだろうけど、こんな貧相な男の身体で魅了できるわけないじゃん……」  ガクッと項垂れ、ベッドの背もたれに身体を預ける。  鏡を見るたび、自分のやつれた顔や細い腕が目について、余計に自信がなくなる。  こんな身体で、先生みたいな素敵な人にどうやってアピールしろって言うんだよ…… 「あ~……佐藤先生も恋愛とか慣れてなさそうだもんね~」  美咲さんはそう言うけど、わかんないじゃん。  先生みたいにカッコいい人、恋人なんていっぱいいたと思うし……  オレが文句言いたげな視線を送っていると、美咲さんはふと視線を逸らした。  さっきまで揶揄うような笑顔が、ほんの少しだけ薄れる。 「でもさぁ~……」  いつもの軽い調子なのに、どこか含みのある声。 「案外、葵くんが思ってるより必死なのかもしれないよ?」 「え?」  思わず顔を上げるも、美咲さんはすぐにいつもの笑顔に戻ってしまった。 「んーん、なんでもな~い♪」  そう言って、人差し指を唇に当てる。  なんだそれ。  気になる言い方をされたら、余計に気になるじゃん。 「えぇ~!絶対なんか知ってるでしょ!?」 「さぁ~?どうだろうねぇ~?」  ケラケラと笑いながら肩を竦める美咲さんを問い詰めようとしたけど、美咲さんは猫みたいに軽やかな足取りで出て行ってしまった。 ◇ ◇ ◇   恋人になって二週間。  一緒にいる時間は増えたと思う。  先生は優しいし、オレの話もちゃんと聞いてくれる。  でも——  先生がオレを見る目は、あの日と同じくらい優しいままだ。  それなのに、時々わからなくなる。  キスも……したことなんてない。  抱きしめてくれたこともない。  もちろん、先生がそんなことを無理にする人じゃないってわかってる。  でも……恋人って、もっと特別なものなんじゃないのかな?って、つい考えてしまう。  もしかして先生は、オレが死ぬ前に恋愛を経験させてあげようって、ただ思っただけなんじゃないかな。  慰めとか……同情とか……  そういう、優しさ。  深い意味なんて何もなくて、オレの思い出作りのために、恋人になってくれたんじゃないかな。 「先生、オレを恋人にしたこと……後悔、してたりしないのかな……」  先生だけを何ページも描き溜めたスケッチブックの表紙を、そっと撫でる。  スケッチブックには、先生が診察室でカルテを手に持つ姿や、窓辺でコーヒーを飲む横顔が、鉛筆の線で丁寧に描かれている。  どの絵も、オレの心の中の先生を閉じ込めたくて、時間をかけて描いたものだ。  でも、今はその絵を見ていても、なんだか切なくなるだけだった。

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