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第11話 甘いクッキーの味とミントの香り

『葵、俺と普通の恋愛をしてみないか』  あの日の先生の言葉を、オレは時々思い出す。  先生はきっと、オレのために優しい嘘をついてくれたんだと思う。  オレが『普通の恋愛をしてみたい』なんて、我が儘を言ってしまったから……  いつ死ぬかもわからないオレに、小さな希望を与えてくれたんだ。  ……本当は、違うのかもしれない。  でも、あのときのオレには、先生の言葉が希望に思えたんだ。  本当に、嬉しかったんだ。  憧れだった先生の恋人に、たとえ少しの間だけでもなれるって……  たとえ、あの言葉が優しい嘘だったとしても、先生がオレを選んでくれたこと自体が嬉しかったんだ。  だから……気づいたときには、オレは素直に頷いていた。 「葵くん、今日は午後から佐藤先生とデートだよね!あの堅物先生でも葵くんの魅力には気付いたんだねぇ~。いやぁ~、ホントにすごいんだよ!医局でも話題になってたんだから!あの見た目はイケメン、中身は能面先生が、ちょっとだけど嬉しそうに笑ってるんだもん!表情筋、死んでなかったんだね~」  美咲さんが興奮気味に説明してくれる。  先生、看護師さんたちに能面先生とか堅物先生って言われてるのか……  ん~、まぁ、ちょっとわからなくもないかも……  でも、笑うと目が細くなって可愛かったり、焦ったときに眉が下がったり、実は結構表情豊かなんだけどなぁ……  気付いてるのは、オレだけなのかな?  もしそうなら……ちょっとだけ嬉しいかも。 「それで、十五時には仕事を終わらせる!って朝から息巻いてたから、もうすぐ来るんじゃないかな?」  美咲さんは、オレが少し前に『普通の恋人がするデートをしてみたい』って悩みを話したのを知ってるから、いつもより張り切っている。  今日が、そのデートの日だから……  美咲さんが色々根回ししてくれたんだって、先生がこっそり教えてくれた。  それで、朝からその準備を手伝ってくれている。  私服なんて、もうここには一着もない。  入院した時に来ていた服も、今の身体じゃブカブカになってしまって、全部捨ててしまった。  だから、今日のデートで着る服は、できるだけ新しくて綺麗な病衣だ。 「葵くん、これ買って来たよ~」  美咲さんが今日のために、新しく買ってきてくれたカーディガン。  爽やかなアイスグリーンの綺麗なカーディガンを美咲さんが背後からそっと着せてくれる。 「うんうん。葵くんにはやっぱりこの色はピッタリだね~」  満足気な美咲さんにクスっと笑みが零れた。 「いつもありがとう、美咲さん」  ベッドから車椅子に移り、点滴も車椅子に取り付けられたスタンドに移される。  少し針が引っ張られる感覚にピクリと目元が歪むも、小さく息を吐いて耐える。 「葵くん、まだちょっと肌寒いからこれも持って行って」  美咲さんに渡されたのは、月明かりの海みたいなダークネイビーのブランケットだった。 「葵くん、今日はいっぱい楽しんできてね!後でどうだったのか色々教えてよね」  ダークブラウンのボブが揺れ、ブラウンの目がウインクしながら明るい笑顔で応援してくれる美咲さん。  先生が迎えに来てくれたのは、そのすぐ後だった。    ◇ ◇ ◇  先生がオレの乗った車椅子を押しながらエレベーターに乗り込む。  いつもの白衣姿ではなく、黒のニットに紺のジーンズというラフな格好だった。  普段とは違う姿に、ちょっとだけ胸がドキドキする。 「葵、そのカーディガンは見たことなかったな。よく似合っている」  大きな温かい手がオレの頭を優しく撫でてくれる。  子どもにするような対応がちょっと恥ずかしかったけど、褒めてもらえたのが本当に嬉しくて、自然と笑みが溢れた。 「これ、美咲さんが買ってきてくれたんだ~。今日、オレが先生とデートだって言ってたから」  少し照れながら話すと、先生も嬉しそうに笑ってくれた。  病院の屋上は庭園になっており、色とりどりの花が咲き誇っていた。  風に揺れる花の香りがふわっと漂ってきて、いつもの病室との違いに心が躍る。 「すっごい!見てみて、アレ!こんな場所あったんだ!ずっと入院してたのに初めて来た!」  持っていたスケッチブックを落としそうになるくらい興奮してしまい、先生に「ちょっと落ち着け」って苦笑いで窘められちゃった。  それからふたりで簡単なピクニックをした。  先生が用意してくれたサンドイッチやクッキーを食べながら、オレは今日のことを忘れないために、スケッチブックに何枚も絵を描いていく。  サンドイッチの包み紙には、売店のシールが少し曲がって貼られてた。 「自分で用意したんだ」って照れくさそうに言う先生の耳が、ほんのり赤かった。 「やっぱり上手いな」  オレの手元を先生がそっと覗き込んできて褒めてくれる。 「ふふ~ん、でしょ?だって、これでも人気イラストレーターだったからね。一年前までは仕事もすごかったんだよ」  褒めてもらえたことが嬉しくて、胸を張って自慢してみる。 「一年前まで?今は違うのか……?」  先生の疑問にハッとし、慌てて言い訳を口にする。 「いや、えっと……ここじゃパソコンもないし、イラストの依頼受けるのも難しいから……そ、それだけ!」  慌てて言い訳を口にするも、不自然じゃなかったか不安になる。  これ以上聞かれたくなくて、スケッチブックに視線を戻し集中して絵を描き続ける。 「そうか……。でも、本当に上手いな」  どこか柔らかな先生の声が耳元で聞こえる。  さっきよりも距離が近いのか、肩や腕が触れる。 「せ、先生も描いてみない?」  先生の深緑のようなミントのいい匂いに胸がドキドキする。 「俺は絵心がない」  鉛筆とスケッチブックを押し付けるように手渡すと、眉間に深い皺を作りながらムッとした表情で言われてしまった。 「いいから。先生が描いた絵、オレにちょーだい?」  彼のダークグレーの瞳を見つめながらおねだりする。  先生は眉間に深い皺を作り、大きなため息を吐き出し、何か考え込んでいる。    あ、また、わがまま言っちゃった……  嫌われたかな……  先生の様子に不安が隠せず、表情に出てしまう。 「じゃあ、葵が俺のことを名前で呼んでくれたら描いてやる」  ニッとイタズラっぽい笑みを浮かべ、突然条件を提案してきた。 「え?な、まえ……?」  先生の言っていることの意味がわからなくて、間抜けな返事をしてしまう。 「そうだ。葵が俺を名前で呼んでくれるなら、いくらでも俺の下手な絵を描いてやる」  えっと……なんで名前?  先生の、名前って…… 「さ、佐藤先生?」  オレが苗字で先生の名前を呼ぶとムッとした表情に変わり「違う」と怒られてしまった。 「……ゆ、悠真(ゆうま)……先生?」  初めて彼の下の名前を口にした瞬間、先生の匂いが強くなった気がする。 「葵、先生はいらない。恋人なんだから、もっと名前を呼んでくれ」  先生のとろけるような嬉しそうな笑顔に、見てるこっちが恥ずかしくなってしまい、首まで真っ赤になってしまう。  だって、あんな先生の笑顔、初めて見た。  本物の恋人を見ているみたいな優しい笑顔…… 「ゆ、悠真……さんって、呼んでいい?」  オレがおずおず訊ねると、先生は頷いてくれた。  まるで、ずっとその名前を呼んで欲しかったみたいに、嬉しそうに笑ってくれた。    それから、先生の名前を呼ぶたびに先生のフェロモンを強く感じて、胸がドキドキして身体が熱くなる。 「……葵、見過ぎだ。やっぱり、下手だろう?」  真剣な表情で絵を描く姿に見惚れていたのに、先生はバツの悪そうな顔をしていた。  先生の描いた絵は、ぎこちない花の絵だった。  先生ならなんでもそつなくこなすと思ってたから、そのギャップがおかしくて笑ってしまったけど、すっごく嬉しかった。  オレのために、苦手なのに先生が描いてくれたから…… 「全然下手なんかじゃないよ。オレ、これめっちゃ好き。愛らしい先生みたいで好き」  クスクス笑いながら言った瞬間、唇に柔らかい何かが触れる。   「葵、先生じゃないだろ?名前」  先生……悠真さんと初めてキスしたことに気付き、顔から火が出るかと思った。  オレのファーストキスは、ほんのり甘いクッキーの味とミントのような深緑の匂いがした。

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