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第12話 不調

 悠真さんと初めてキスをしたあと、嬉しくて軽いめまいが起こった。  頭がくらぁっとして、視界がふわふわする。  あ……オレ、悠真さんとキス、しちゃったんだ……  触れ合った唇の柔らかさ。  オレを見つめる悠真さんの熱を帯びた目に、心臓が張り裂けそうなくらいドキドキする。  しあわせでいっぱいになってるのに、胸がキュッと苦しい。  それだけじゃない。  さっきから、悠真さんの匂いを吸い込むたび、身体の奥が熱を帯びていく。  深い緑の森みたいな、優しくて落ち着く匂い。  大好きな匂いのはずなのに——近くにいるだけで、身体が震えそうになる。  熱い。  熱くて……呼吸が、少し苦しい。  抑制剤はちゃんと効いているはずなのに、身体の奥で何かがざわついている。  大丈夫。大丈夫。……大丈夫。  こんなの、悠真さんに気付かれちゃダメだ。  悠真さんのフェロモンに、オレの身体が反応しているなんて……  そんなこと知られたら、きっとまた距離を取られてしまう。  オレの担当が変わっちゃうかもしれないし……悠真さんは、もう今みたいにそばに居てくれなくなるかもしれない。  そうなったら……  俺たちは、きっと終わってしまう。  それに……悠真さんには、こんなオレでも——  今だけは、恋人として見て欲しい。    ◇ ◇ ◇  まだ外は明るかったけど、「初めて外でデートをしたから疲れただろう?」って言われ、早めに病室へ戻ることになった。 「次は夕陽を見に行こう。あの屋上から見る夕陽はすっごく綺麗だから、葵も気に入ると思う」  悠真さんのウキウキした顔を見ていると、オレまで嬉しくなってくる。  他の看護師さんたちには能面先生とか言われてるみたいだけど、オレの前ではすっごく表情豊かなんだって改めて思った。 「うん。楽しみにしてる」  さっきから頭がクラクラして、身体が鉛みたいに重くて倒れそう。  でも、きっとこれは楽しすぎたからだと思う。  子どもが遠足前に熱を出すのと一緒。   「じゃあ、また明日な」  悠真さんがオレの額に触れるだけの口付けを落としてくれる。  映画とかで見るような、恋人同士のじゃれ合い。  普通の人がこんなことをやっても全然似合わないのに、悠真さんがやるとカッコ良すぎて心臓がドキドキしてうるさい。  嬉しくて、幸せで、このまま時間が止まって欲しいって願ってしまう。  でも、彼が出て行ったあと、オレはベッドに倒れ込んでしまった。  身体が鉛みたいに重くて、浅い呼吸を繰り返してしまう。  熱いのに、額には冷や汗が滲む。  身体の中がバラバラになってしまいそうな痛みに、声を出すことすらできなかった。  浅い呼吸を繰り返しながら、左腕から伸びている点滴のチューブを見つめる。  チューブの先で、透明な液がポタポタと落ちる音が、静かな病室に小さく響く。  悠真さんとのデート……夢じゃ、ないよね?  屋上にあんな綺麗な場所があるなんて知らなかった。  あれってなんの花だったんだろ?  花の甘くていい香りが風に揺れて漂ってきた。  サンドイッチもクッキーも、すっごく美味しかった。  悠真さんが、「昨日、遅くまで選んでたんだ」って照れくさそうに言った声。  オレの絵を褒めてくれて、スケッチブックにぎこちない花の絵を描いてくれた……  それに……初めて、キスをした。    そっと右手で自分の唇に触れ、今日の出来事をひとつひとつ思い出す。  唇に残るクッキーの甘い余韻と、ミントのような深緑の匂い。  悠真さんのダークグレーの瞳が、こんなオレをまっすぐに見つめてくれた瞬間。  悠真さん、やっぱり慣れてるんだなぁ……  あんなカッコいい人だから、当然だよね。  嘘でも、キスってできちゃうんだ……  嘘でも……嬉しかったなぁ~……  また、してもらえるのかな……?  あと、何回……こうやって触れてもらえるんだろう……  ズキリと胸の奥が痛み、表情が歪んでしまう。  痛みを堪えるためにギュッと手に力を入れてみたけど、震えてしまって全然力が入らなかった。 「……もう少しだけ……もう少し、だけ……」  涙が頬を伝い落ち、枕を濡らす。  窓の外では、中庭の木々がそよ風に揺れている。  いつも悠真さんが休憩でコーヒーを飲むあの木の下、今日はいつもより遠く感じる。  悠真さんがそばに置いてくれたスケッチブックを抱き締め、オレはギュッと目を瞑って無理矢理眠りについた。    ◇ ◇ ◇  翌朝、首筋に触れる冷たい手の感触で目が覚めた。  冷たいはずなのに、火照った身体には気持ち良くて、猫のように擦り寄ってしまう。 「……葵、どうして言わなかったんだ」  最初、誰の手なのかわからなかったけど、声を聞いて悠真さんだと気付いた。  どこか怒っているような口調だけど、ダークグレーの瞳は心配そうに揺れている。 「……」  返事をしたいのに、熱のこもった吐息が口から出るだけで、応えることができなかった。  消毒液の匂いが鼻をつく病室で、悠真さんの深緑のような匂いだけが、ほんの少し安心をくれる。 「昨日、無理をさせてしまっていたのか……」  昨日と違って、悠真さんの格好はいつもの白衣姿だった。  お医者様……だもんね。  やっぱり、遠いなぁ…… 「だ、じょ……ぶ。き、のう……たのし、くて……ちょ、と……寝るの……おそく、なっちゃった……だけ……」  やっとの思いで出た声はカスカスだった。  大丈夫だと言いたくて、手を伸ばしたけど、手はカタカタと震えて力が入らない。  オレの様子を観察していた悠真さんの手が、カルテを強く握っているのか、指先が白くなっているのが見えた。 「……無理を、するな……」  どこか気持ちを抑え込んだ声に、申し訳なさが募っていくと同時に、ちょっとだけ心配してくれてるんだって思って嬉しかった。  ただ、抑制剤の点滴バックが入れ替えられるのを見て、また投薬の量が増やしてしまったんだと悲しくなった。  点滴スタンドの金属がカチャリと鳴る音が、胸に小さく刺さる。 「ゆう、ま……さん。また、デート……連れて、行って……くれる?」  掠れる声でオレが言えたのはそれだけだった。  悠真さんをこれ以上困らせちゃいけないってわかっているけど、希望が欲しかった。  わがままを言って迷惑をかけたくないってわかっているけど、願ってしまった。    困っているような、どこか寂しげな表情でオレの額を撫でてくれる悠真さんの手が冷たくて気持ちいい。  悠真さんの指先が、汗で濡れた前髪をそっとかき分ける。  その優しさに、胸が温かくなるけど、同時に、どこか遠く感じる。  医者としての悠真さんと、恋人としての悠真さんの間で、彼が揺れている気がした。  もっと、触って欲しいなぁ……  悠真さんの手、好きだなぁ……  今度、手だけの絵も、描いて……みようかなぁ……  先生の手が気持ち良くて、いつの間にかまた眠りに落ちていた。  ◇ ◇ ◇  この日から、寝ている時間が増えてしまった気がする。  朝、起きようと思っているのに、気づけば朝食の時間をとっくに過ぎていたり、お昼過ぎにまた眠ってしまったり……  窓の外の陽光が、いつもより眩しくて、目を開けているのも辛い日がある。  先生に会いたいのに、話したいことはいっぱいあるのに、寝てしまっているせいで会えない日が続いた。  身体の奥が、ずっとざわついているような感覚が気持ち悪い。  抑制剤で抑えられているはずなのに、熱っぽさはなかなか引いてくれない。  お腹の奥も、時々チクチクと疼いてしまう。  発情期が……近いのかもしれない。  それとも、病気のせいなのかな?  どちらにしろ、オレには原因がよくわからなかった。  でも、最後くらい、好きな人と一緒に発情期を迎えることができたらいいなぁ……  そんな夢みたいなことを考えてみるけど、オレには無理だってわかってる。  こんなオレに、そんな未来、来るわけないよな……  暗い気持ちを少しでも明るくしたくて、前に悠真さんが描いてくれたあの花の絵を見つめる。  花びらの大きさはバラバラで、線もちょっと歪んでるけど、見ていて温かい気持ちになってくる花の絵。  この絵を見ているだけで、オレは少しだけ心が軽くなるのを感じた。 「大丈夫……まだ、大丈夫……」  自分に言い聞かせるように、誰にも聞こえない声で何度も呟き、スケッチブックを抱きしめる。  次は悠真さんと屋上で夕陽を見たい。  屋上で並んで座って、この前みたいに笑っていたい。  それだけでいい。  それ以上のことは、望まないから……  だから、信じたかった。  また、デートに連れて行ってもらえるって……信じていたかった。

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