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第14話 先生

 美咲さんが帰った後、この時間から翌朝まではオレひとりの時間になる。  午後の健診はもう終わってしまったから、悠真さんに会えるのは明日までない。 「はぁ……悠真さんに、会いたいなぁ……」  ため息と一緒に本音が口から零れる。  ベッドの上で膝を抱え、点滴のチューブを伝って血管内に抑制剤が流れ込んでくる感覚をつい意識してしまう。  静かな病室に、透明な液がポタポタと落ちる音だけが響いていた。  消毒液の匂いが鼻をつくけど、さっき美咲さんが置いていったクッキーの甘い香りが、ほんの少しだけ心を温めてくれる。  オレンジ色の光に染まったテーブルにうつ伏し、ラビヲを指先でツンツンと突っつく。  悠真さんが『葵に似てると思ったんだ』って笑いながら教えてくれた。  トゲのないサボテンなのに、ラビヲは健気に生きている。 「ねぇ、ラビヲは先生のこと、好き? オレはね、すっごく好き。迷惑かもしれないけど、オレの人生で一番好きな人だと思う」  なんの返事も返してこないサボテンに、ひとり想いを吐き出す。  夕暮れの光がラビヲの小さな鉢に影を落とし、まるで頷いてるみたいに見えた。   「本当はね、わかってるんだよ?オレと恋人ごっこなんて、先生はしたくないって……。でも、もうちょっとだけ夢を見ててもいいよね?」  悠真さんにもらった物。  クッキーやどら焼きは食べてなくなっちゃった。  色鉛筆は、悠真さんの笑顔や屋上の花をスケッチするたびに減っていく。  大切に置いときたいのに、使うたびに減っていっちゃう。  悠真さんからもらったもので、残る物って……ラビヲくらいだ。  そっと鉢を手に持ち、緑の果肉部分を指でなぞる。 「ラビヲはずっと一緒にいてね……。てんご……地獄に行っても、そばにいてね」  ふと、窓の外を見ると、中庭の木々が夕暮れの風に揺れている。  スケッチブックを開き、悠真さんが描いてくれたぎこちない花の絵をそっと撫でる。  あの時の笑顔、ミントの匂い、クッキーの甘さ。  全部、夢みたいに眩しいのに、なんでこんなに胸が苦しいんだろう。  ラビヲに話しかけていると、ドアをノックする音が響いた。  こんな時間に誰だろ? 「はーい。どうぞ~」  できるだけ元気なフリをして返事をした。  もしかしたら美咲さんが忘れ物を取りに来たのかも。  美咲さん、結構おっちょこちょいだから、ティーポットの蓋とか置いてった可能性あるよね……なんて、考えてしまう。  オレの返事と同時に病室のドアが開き、消毒液と爽快感のある深緑の匂いが漂ってきた。 「ぇっ……」  入ってきた人を見て、オレはつい驚きの声を上げてしまう。  だって、今日はもう、会えないと思っていた。  会いたいと思っていたけど、会いになんて来てくれないと思っていた人が、そこには立っていた。 「葵、健診だ。調子はどうだ?」  白衣の裾がカサッと揺れる。  カルテを手に持つ先生の姿は、いつものお医者様そのものだ。  ダークグレーの瞳がオレを見るも、どこか距離を感じてしまう。  もう、前みたいに気軽に笑ったり、頭を撫でてはくれない。 「うん、大丈夫だよ!美咲さんがクッキー持ってきてくれて、元気も出たし!でもどうしたの?三時の健診はもう終わったのに……」  無理して明るい声を出してみるけど、掠れた声が裏切る。 「明日は、葵の定期検査の日だからな……。午後のフェロモン濃度の数値が気になったから、もう一度確認に来ただけだ」  そう言いながら、先生は測定器でオレのフェロモン濃度を確認していた。  額に触れた指先はひんやりとしていたのに、その動きだけは妙に慎重だった。  まるで、壊れ物に触れるみたいに、優しかった。  でも、オレがその手を見上げると、先生はすぐに視線をカルテへと落としてしまう。  やっぱり……避けられているのかな。  先生に会えて嬉しいって気持ちと、もう、恋人ごっこは終わりなんだなぁ~って気持ちが入り混じり、ため息が出そうになった。  点滴スタンドの金属がカチャリと鳴り、新しいバックがセットされるも、先生はその間も無言のまま点滴の流量を確認している。  いつもなら看護師さんに任せるような作業まで、今日は先生自身がやっていた。  チューブが折れていないか。  針がズレていないか。  血管に負担はないか……  何度も確認しているようだった。  そんな心配しなくてもいいのに。  多少針がズレてても、痛いのには慣れてる。  血管は……最近新しいところを探すのが大変だって美咲さんが愚痴ってたっけ……  それでも、そんなに心配してくれなくても大丈夫なのに……  でも、こんなに心配してくれるのに、オレのことは見てくれないんだね。  抑制剤の透明な液がチューブを流れ、血管に冷たい滴が流れ込んでくる。 「あ、そっかぁ……。発情期も近いから、また色々調べられちゃうのかな……。オレ、あの検査苦手なんだよね」  オレはできるだけ軽い口調で笑って見せる。 「知らない人に身体触られるの、やっぱり慣れなくてさ……」  先生に笑って欲しくて言ったのに、何の返事ももらえない。  それでも、ほんの少しだけ、本音が零れてしまう。 「Ωだったらお尻の穴で気持ち良くなれるって言うじゃん?あれ絶対ウソだよ。オレ、中弄られても気持ち悪いだけだもん」  唇を尖らせて文句を言ってみても、先生はオレの方を見てくれなかった。 「まぁ、Ωだから……しかたないんだろうけどね。検体だし……ちゃんとデータ取ってもらわなきゃだよね」  点滴のチューブを指先でなぞる。  この中を、ずっと抑制剤が流れている。  オレの身体に入ってきて、オレの病気を抑えてくれている。 「でもさ……たまに思うんだ。オレって……人なのかなぁ……」  自分の零してしまった本音を慌てて笑って誤魔化す。 「あはは、ごめん!変なこと言っちゃった」  ケラケラと笑ってみせるけど、先生は何も言ってくれなかった。  ただ、オレの虚しい笑い声だけが病室の壁に弱々しく反響する。 「発情(ヒート)になれば、誰の指を挿れらても感じることができるのかな?それなら、気持ち悪いより、気持ち良い方が……オレも、いいなぁ……」  本音だけど、ウソ。  ホントは、誰でもいいってわけじゃない。  でも、オレはただの【検体】だから……  こんな病気だし……気持ち良くなっちゃうのも、多分ダメなことだよね。  一瞬、先生の眉が少し寄るのが見えたけど、カルテのページをめくっただけで気のせいかもしれない。 「ねぇ、定期検査が終わったら、ご褒美にまたデートに連れて行ってくれる?次は夕陽、見に行こうって言ってくれてたでしょ?」  オレは、希望を込めてお願いしてみる。  もう一回くらい、恋人として笑い合いたいから……  あの屋上の花の香り、風の感触、悠真さんの温かい手を、もう一度感じたいから。 「葵、熱がまだ下がってないだろ。体温が昨日より高い。抑制剤の量を調整するから、しばらく安静にしていろ」  先生の淡々とした口調に、胸がチクッと痛む。  先生の手は正確だけど、なんだか前よりも冷たく感じた。  夕暮れの光が彼の白衣に淡い影を落とし、まるでオレとの間に見えない壁があるみたい。 「でも、先生。オレ、ちゃんと元気になれるよ!屋上くらいなら、また行けるよね?」  必死に訴えてみるけど、先生の瞳は動かない。  先生はカルテをパタンと閉じ、深いため息を吐き出してからゆっくりとオレを見た。  でも、そのダークグレーの瞳に映る感情を、オレはうまく読み取れなかった。  前みたいな優しい笑顔もなくて、何を考えているのかもわからない。  だから、余計に不安になってしまう。 「葵、外出は当分禁止だ。屋上もダメだ。体調が安定するまでは、ここで過ごしてくれ」  ハッキリとした言葉を言い放つと同時に、先生のカルテを持つ指先に力が入ったのか、紙の端が僅かに歪んだ。  先生は気づいていないみたいだったけど、その手はずっと強張っているようだった。  でも、オレにはそんなことよりも、先生に言われた言葉の方がショックだった。  嫌な検査を頑張っても、屋上にも行けない……  あのラベンダーの香りも、風に揺れるマリーゴールドも、先生の笑顔も……もう全部、感じられないの?  スケッチブックに描いたぎこちない花の絵が、急に遠い記憶みたいに感じる。 「そんな……先生、約束したじゃん!夕陽、見に行くって……オレ、ちゃんと頑張るから!」  声が震える。  点滴のチューブがチクッと刺さる感覚が、涙を堪えるのを邪魔する。  目頭が熱くなり、視界が滲む。  先生は一度だけ目を閉じた。  長い睫毛が伏せられ、苦しそうに息を吐き出す。  その表情だけは、いつもの余裕のある先生じゃなかった。 「葵、無理はするな。俺が……気付けなかったから、こうなったんだ」  抑えた声に、後悔が滲む。  先生は、オレの体調悪化を自分のせいだと思ってる?  そんなの、違うのに。  オレが、楽しすぎて無理したかっただけなのに。 「先生、違うよ!オレが、オレが勝手に頑張っちゃっただけで、先生のせいじゃない!」  必死に言ったけど、先生は小さく首を振るだけでオレのことは一切見てくれなかった。  ダークグレーの瞳が、どこか遠くを見ているみたい。  オレの声なんて、もう届いてないのかもしれない。 「安静にしていろ、葵。明後日、また健診に来る」  そう言うと、先生はカルテを持って病室を出て行こうとし、ドアノブに手を掛けたその背中が、一瞬だけ止まった。  何か言おうとしたようにも見えたけど、結局振り返ってもくれず、そのまま静かに病室を出て行った。  消毒液とミントの匂いが、ほんの一瞬残って、すぐに掻き消えてしまった。 「ぁ……名前、呼べばよかった……」  自分が無意識に『先生』と呼んでしまっていたことに気づき、胸がズキンと痛む。  『悠真さん』って呼べば、また笑ってくれたかな……  あの時みたいに、額にキスをしてくれたのかな……  もう一度、ちゃんと顔を見てくれたのかな……  スケッチブックを開き、オレンジの鉛筆で夕陽の輪郭をなぞってみる。  屋上で見たかった夕陽。  悠真さんと一緒に見たかった、あのオレンジ色の空。 「また、行けるよね……夕陽、見に行くよね……」  誰にも聞こえない震える声で呟くと同時に、涙が一滴、ページに落る。  こんなオレでも、悠真さんとまた笑い合える日が来るって、信じたいのに……  ちゃんと、『好き』って伝えたいのに…… 「悠真さん……オレ、まだ……悠真さんの恋人でいても、いい……?」

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