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第18話 夜の帳
太陽が沈み、オレンジと紫が混ざった空に、雲がその色を吸い込んで濃い紫や明るいオレンジに光っていた。
まるで絵の具を溶かしたような色が、ゆっくりと空を流れていく。
美咲さんが言っていたとおり、今日の夕陽はすっごく綺麗だった。
地平線を明るく照らす太陽と、ほうきで掃いたような薄い雲。
青空にオレンジが滲んで、まるで世界が優しく燃えているみたいだった。
綺麗すぎて、胸がぎゅっと締め付けられて、涙がポロリと零れ落ちた。
こんな夕陽、初めて見た気がする。いや、違う。
悠真さんと一緒にこの病室で見た夕陽も、こんな風に心を震わせたっけ。
あの時は、いつか海へ一緒に行こうって話をした。
スケッチブックにその横顔を描きたかったけど、この震える手じゃ線すらちゃんと引けそうもないなぁ……
オレは、あと何回この景色を見ることができるんだろう?
悠真さんと、こんな夕陽を一緒に……見られるのかな?
そんなことを考えているだけで、胸の奥に黒い塊がまたすこし大きくなったのを感じる。
悲しいこと、苦しいこと、寂しい気持ち……
そんな気持ちが、少しずつ、少しずつ溜まっていて、オレの中で黒い塊になっていく。
後悔なんてないと思っていた。
やりたいことは、全部諦めたつもりだった。
なのに——
悠真さんと出会ってから、欲しい物ばかりが増えていく。
夜の帳が下りるのを、ベッドに背を預けながらひとりで眺めた。
病室の無機質な消毒液の匂いが鼻をつくけど、窓の外の空はそんな匂いすら忘れさせるくらい綺麗だった。
室内の電気は、夕陽の美しさを消したくなくて、付けないようにしていた。
付けたら、あの空がただのガラスに映る暗い影になっちゃう気がして、怖かった。
「悠真さん、まだ忙しいんだろうなぁ……」
時計を見ると、十九時を回っていた。
きっと、大変な手術なんだ。
美咲さんも昨日から帰れなくて、くたくたに疲れてたもんね。
『佐藤先生、絶対葵くんの約束は守るから!』と言ってくれた、彼女のキラキラした笑顔が頭に浮かぶ。
うん。オレもそう思う。
先生は絶対に約束を守ってくれる。
夕陽の時間には間に合わなかったけど、もう一回くらい、今日中に会いに来てくれる。
でも、待ってる時間って、なんでこんなに長く感じるんだろう。
あ、あそこの窓からなら、先生が来るの、見えるんじゃないかな?
美咲さんの『無理しちゃダメ』って言葉が、胸の奥で小さく響いたけど、そっと頭を振って掻き消した。。
ゆっくり身体を起こし、ベッドから足を下ろして床に付ける。
ひんやりと冷たい床に足先が触れると、ゾクッと背筋が震えた。
スリッパを履くと滑りそうだから、裸足のままフラフラと揺れる身体で勢いだけで立ち上がる。
「おっとっとっと……」
ベッドの手摺りにしがみついて、はぁっ……はぁっ……と息を整える。
ふらつく足でなんとか一歩を踏み出し、窓の方に歩み寄る。
支えがないと倒れそうになるけど、夕陽が沈む前に、もっと近くで見たかった。
「すぅぅぅはぁぁぁ……、行け……たっ、ッ!?」
窓辺まで辿り着いたことにホッと息を吐いた瞬間、視界がふわりと揺れた。
立っているだけなのに息が苦しくて、心臓がドクドクうるさい。
あ、れ……?おかしいな。
さっきまで大丈夫だったのに……
窓枠に手を付いて身体を支えようとしたけれど、指先にうまく力が入らなかった。
足の裏からじわじわと力が抜けていく感覚に、背筋がゾクリと冷える。
あ、ヤバッ……
そう思った次の瞬間——
ガクンッ!
足の力が抜け、そのままべしゃりと崩れ落ちてしまった。
窓のサッシに顎を強く打ち付けてしまったのか、頭がグワングワンと揺れ、目の前がグルグルする。
「ッ……ぃ、た……」
打ち付けた顎に手を添えると、ドロッとした血が指先に付いた。
唇を切ったみたいだ。
ペロリと舐めると、鉄の味が口に広がって、なんだか現実が重たくのしかかる。
「はぁ~……失敗、した……ッイタタ……」
もう一度立ち上がろうとしたけど、腕にも足にも力が入らない。
ペタンと座り込んだまま、床の冷たさが布越しにお尻に伝わって、ちょっと寒い。
座り込んでしまったせいで、見上げても窓の外は見えない。
窓に切り取られた空の端っこ、紫に染まる一片だけが、オレの目に映るだけ。
「美咲さんに怒られるかな……無理しちゃダメって、言われたのに……」
そんなことを呟きながら、ベッドのシーツをギュッと握りどうにか立ち上がろうと試みるも、シーツが引っ張られるだけだった。
「ッ……ぁっ……」
ドクンッと心臓が跳ねる。
さっきから感じていた身体の火照りが、一気に熱を持つ。
お腹の奥が疼き、嫌な予感が現実になる。
——嫌だ。
——嫌だ。
——まだ、来ないで……
「葵っ!」
不意に悠真さんの声が響き、ビクッと肩が震えた。
「葵っ!どこに行ったんだ!」
どこか焦った声でオレの名前を呼ぶ悠真さんの声を聞いていると、さっきまで熱くてしかたなかった身体が徐々に落ち着いてくる。
悠真さんがオレを探してる……
あ、オレ……床に座り込んでるから、ベッドの影に隠れちゃって見えないんだ……
「ココ、ココ。悠真さん、ちょっと助けて~」
暗い病室で腕を上げ、ベッドから手が見えるように振ってみる。
さっき付いた血を病衣の裾で拭いて、発情期 になりそうだったのを隠すためにできるだけいつもの笑顔を作る。
悠真さんに、こんな姿見られたら心配かけちゃうよね。
ベッドを回り込んで来た悠真さんは、呆れたような声で言った。
「ここで何をしているんだ、葵」
額に汗を浮かべ、肩で荒々しく息をしながら、白衣も脱がずに駆けつけたんだと思う。
暗くてよく見えないけど、いつもより疲れた顔してる……
手術、ほんとに大変だったんだ。
「えへへっ、ちょっと転んじゃっただけ」
そう言って笑おうとしたけれど、上手く笑えなかった。
「悠真さん……来てくれたんだね」
顎を打ち付けたときに唇を切ってしまったのか、それだけ言うので精一杯だった。
オレの顔を見た悠真さんが、眉間に深い深い皺が刻まれるのを見て、誤魔化しきれなかったかな?って内心ドキドキする。
自分で立ち上がって「大丈夫」って言いたいけど、今のオレじゃ自力で立つこともできない。
ここはやっぱり、可愛らしく甘えて誤魔化すのが一番いいんじゃないかな?
そんなことを思い付き、両手を悠真さんに伸ばし、できるだけ可愛らしく言ってみる。
「悠真さん、ベッドに戻りたいから抱っこして?悠真さんも疲れてるみたいだし、今日はもう寝ようかな?」
小首を傾げつつお願いしてみたものの、悠真さんはしばらく動かず、オレをじっと見つめてくる。
バ、バレちゃったかな……?え?オレもしかしてフェロモン出ちゃってる?
あ、点滴の針、いつの間にか外れてるじゃん……
あちゃ……コレ、絶対怒られるやつかも……
美咲さんが、点滴の針を患者さんが勝手に外すから始末書書かなきゃなんだよ!って、この前愚痴ってた……
ヤバ……これ、悠真さんが始末書書くの?それとも美咲さん?
悠真さんの険しい顔に不安が募る。
オレが余計なことをしちゃったから、こんなことになっちゃったわけだし……
怒ってこのまま帰っちゃうってこと……ないよね?
このまま抱き上げてもらえなければ、今晩はこの冷たい床の上で一晩過ごす羽目になってしまう。
それは、ちょっとオレ的にも勘弁して欲しい。
抑制剤を投与しないまま寝たら、多分、今晩中に発情期になってしまうかもしれないし……
最近寒くなってきたから、風邪引いちゃうかも……
「はぁ……」と大きく息を吐き出す様子に、ビクッと肩を震わせてしまう。
恐る恐る悠真さんの顔を見ると、困ったような笑みを浮かべた。
「葵に何かあったのかと、気が気じゃなかった。遅くなって、本当にすまない。暗くなってしまったが、行こうか」
悠真さんが軽々とオレを抱き上げてくれたとき、森のような落ち着くフェロモンの香りに混じって、ほのかに汗の匂を感じた。
走って来たんだ。
熱いくらいの身体と、額の汗がそれを教えてくれる。
抱きつくオレの身体、震えてるのバレちゃったかな。
「……い、いいの?先生、忙しいんじゃない?走って来たから、疲れてるんじゃ……」
本当は嫌だったんじゃない?
オレなんかに時間使うの、ムダじゃない?
そんな言葉が喉に詰まる。
「葵、デートに遅れた恋人のことは、心配するより怒っていいんだ。ずっと待ってて寂しかったって、言ってみろ。それに、また『先生』になってる」
悠真さんの声、優しいけど少し叱るみたいで、胸がキュッとなる。
「ごめんなさい。えっと、悠真さん……いいの?今からでも、デートしてくれるの?」
おずおずと上目遣いで見つめると、悠真さんは嬉しそうな笑みを浮かべて、静かに頷いてくれた。
「ああ、約束だ。夕陽はもう見えないけど、葵と一緒なら、どんな空でもいいだろ?」
その言葉に、さっきの美咲さんの笑顔が重なる。
『佐藤先生、絶対来るから!』って、ほんとだね、美咲さん。
悠真さんの腕の中で、発情期の熱も、顎の痛みも、ちょっとだけ遠くなる。
それでも、身体の奥に残る熱だけは、消えてはくれなかった。
窓の外、紫の夜空に星がひとつ、キラリと光った。
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