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第19話 第二性

 濃い群青色が広がる空。  水平線に薄っすら見える淡いオレンジ色の光と建物の明かり。  屋上庭園の花壇横に設置された照明が、暖かみのある淡い黄色の明かりで花たちを照らしている。 「葵、寒くないか?」  オレは車椅子から降ろしてもらい、悠真さんに背後から抱き締められるようにベンチに座る。 「う、うん。大丈夫……」  初夏のせいか、寒いというよりも少し暑いくらいの気温のはずなのに、オレの身体は少しだけひんやりとしていた。 「やっぱり夕陽には間に合わなかったな……。約束、守れなくてごめん」  ギュッと背後から抱き締めるように腕に力が込められ、申し訳なさそうに謝ってくる悠真さん。  悠真さんの声が、オレの耳元で聞こえて、吐息が耳に当たって恥ずかしい。 「葵、耳も首元も赤いのは夕陽のせい?」  夕陽はとっくに沈んでしまっているから、オレが赤くなっているのは夕陽のせいじゃないってわかってるくせに、悠真さんは意地悪に聞いてくる。  オレは恥ずかしいから、拗ねたようにフンッと顔を背けつつ、悠真さんを軽く睨み付ける。  そんなオレを見て、クスっと笑う悠真さんに、なんか負けた気がしてならない。 「ごめんごめん。葵が可愛くてからかっただけだから。そんな可愛い顔で睨まれると……キスしたくなる」  悪戯っ子みたいな悪い笑みを浮かべている悠真さんの瞳に見つめられ、頬を優しく撫でられると自然と目を閉じてしまった。  触れるだけの優しいキス。  怒りたいのに、触れ合う唇が優しすぎて離れられない。  唇を舐めるように舌先が触れ、微かに開いた口に舌が差し込まれる。  今までしてくれたキスとは異なり、恋人同士がする口付けを何度もしてくれた。 「ふ、ぁ……」  頬を撫でてくれる彼の手が暖かくて、指先で耳を弄られるとゾクゾクする。  無意識に出てしまった甘い声が、まるで自分の声じゃないみたいで、なんか不安になる。  唇が離れていくのが寂しくて、つい名残惜しそうな声が漏れてしまった。 「葵、可愛い。もっと触れたくなる」  満天の星空を映すダークグレーの瞳がオレを愛おし気に見つめてくる。 「触れて……もっと、オレのこと……触って」  夜の屋上庭園に甘い匂いがふわっと広がる。  甘くて、どこか涼やかな、まるで夜の空に溶ける光みたいな香りが、悠真さんの深緑の落ち着いた匂いと混じり合う。 「葵……」  キスをするたび、匂いが強くなり、悠真さんの瞳に欲の熱を感じる。  唇が触れ合うたび、濡れた音が響いて身体が熱くなっていく。  耳元で低く響く悠真さんの声。  触れたところ全部、火傷しそうなくらい熱いのに、もっと触れてほしくなる。 「葵、愛してる」 「オレも……オレも、悠真さんを愛してる」  そう口にすると、不思議なくらい胸が苦しかった。  愛してる。  ずっと言いたかった言葉なのに、どうしてだろう。  嬉しいはずなのに、胸の奥にたまっていた黒い塊が少しだけ疼く。  悠真さんの腕の中は暖かくて、安心するはずなのに——  急に、昔のことを思い出してしまった。  ◇ ◇ ◇  しばらくの間、オレたちは何も話さなかった。  悠真さんの規則正しい心音を背中越しに聞きながら、オレはこんな時間がずっと続けばいいのに。って思った。 「悠真さん」 「ん?」 「オレね……ひとつだけ、誰にも言えなかったことがあるんだ」  悠真さんは急かすことも、理由を聞くこともせず、ただオレの手を優しく握ってくれた。  今さら話したところで、何かが変わるわけじゃない。  忘れられるわけでもない。  それでも——ただ、聞いてほしかった。 「オレ、ね……Ωってわかったとき、死のうかと思ったんだ……」  言っちゃった。  誰にも言えなかった言葉。  ずっと、ずっと……胸の奥に押し込めていた言葉。  それを口にした瞬間、喉の奥がギュッと締め付けられた。  悠真さんは何も言わず、ただ握った手に少しだけ力を込めてくれる。  その温もりに背中を押されるように、オレはゆっくりと過去を語り始めた。  こんな話、したくなかった。  誰にも話したくなかった。  でも、悠真さんの温かい手に包まれていると、勝手に言葉がこぼれ落ちた。 「母さんは、オレが生まれた時に死んじゃったんだって。父さんがそう言ってた。『お前のせいで母さんが死んだ』って。まだ五歳だったかな?誕生日ケーキの代わりにそう言われたのを、今でも覚えてる」  当時のことを思い出して、諦めた笑みを浮かべつつもため息が出てしまう。 「親戚の叔母さんも、『お母さんの命と引き換えに生まれたんだから、せめて優秀になりなさい』って言ってた。ずっと母さんの死がオレのせいだって思ってた」  あの叔母さんが誰だったのか、顔も名前も思い出せない。  でも、ずっとあの言葉だけは、心の奥にトゲみたいに刺さっていて、今でもオレの一番深いところに残っている。 「ずっと言われていたから……。だから、優秀じゃなきゃ、生きてる意味がないって思ってたんだ……」  悠真さんの大きな手がオレの痩せて骨ばった手を優しく包み込んでくれる。  その温かさに、胸の奥がズキンと痛む。 「中学に上がる前の診断ではβだったんだよ?でも、高校に入学してからの|第二性《ダイナミクス》の検査で、やっぱりΩだったってわかったんだ……。あの日に、オレの人生は全部壊れちゃったんだと思う」  当時、担任の先生にオレひとりだけが呼び出されて、保健室に連れて行かれた。  保健の先生が、オレの診断書を手に淡々と説明してた。 『君はΩだ。今後、成長と共に発情期が来るし、将来的には子どもを産むことができる身体に成長する』って。 『発情期は気を付けなさい。君だけでなく、誤って【番】となってしまったαの子に迷惑がかかってしまうからね』  αを惹き付けるフェロモンを出してしまうΩ。  自分の人生だけでなく、優秀なαの人生をめちゃくちゃにしてしまう存在。  というか、Ωであるオレよりも、優秀なαに迷惑をかけるなよ。ってことだよね。  保健の先生からΩについての注意事項を説明されるたび、胸の奥に黒い小さな塊ができるのを感じた。 「十六歳のオレには、保健の先生の話もΩだって診断も、全部が呪いみたいに聞こえたんだ~。でも、しかたないよね。オレがΩで生まれてきたのが悪いんだから……」  笑って話をしているつもりなのに、声が震えてしまう。  もうずっと昔の話だし、とっくに諦めていたことなのに…… 「家に帰ったら、父さんが『Ωなんて、うちの家系にはいない』って怒ってた。そうだよね。父さんも母さんもβだったし、親戚にαはいたけど、Ωなんてひとりもいなかったから……」  学校から先に送られていた書類を見て、父さんはめちゃくちゃ怒ってた。  父さんにとって一番大切な人が、命を賭して産んだ子がオレみたいなΩだったんだもん。  怒って、当然だと思う。  だから、帰ってきたばかりのオレに向かって何度も怒鳴り声を上げて、書類を投げつけてきた。  その日は、朝からずっと雨が降っていて、夜には雷まで鳴ってた。  父さんに『出て行け』って言われて、制服のまま家を飛び出して、びしょ濡れで公園のベンチに座って泣いた。  こんな雨の日だったから、公園にはオレ以外誰もいなくて、街灯の光が雨のせいなのか涙のせいなのかわかんないけど、滲んで見えたのを覚えている。 「母さんが生きてたら、ちょっとは違ったのかな?こんなオレでも、抱きしめてくれたかな?」  ……わからない。  だってオレは、一度も愛された記憶なんてないから……  初めてこんな話を他人にした気がする。  こんな話、悠真さんにしても迷惑でしかないのに、なぜか悠真さんには聞いてほしくて……  オレのこと、知ってほしくて……話すのを止めることができない。    そんなオレの話を、悠真さんは何も言わず静かに聞いてくれた。  オレの過去なんて興味ないはずなのに、オレをぎゅっと背後から抱き締めてくれたまま、静かに聞いてくれた。

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