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第21話 わがまま

「葵……」  悠真さんがオレの名前を呼んでくれたけど、その声はちょっと震えていた。  悠真さんの大きな手が、オレの頭をそっと撫でてくれる。  失敗、したなぁ……  悠真さん、困ってるんだろうなぁ……  オレがあんな話をしたから…… 「お前の絵、俺は好きだ」  悠真さんは背後から抱き締めてくれていたのに、急にベンチに座らされ、オレの足元に膝をついてじっとオレの顔を見つめてくる。 「俺は、葵の描いた絵が好きだ。病室でいつも描いている葵の絵が好きだ。あの夕陽の絵、葵の心が全部詰まってる。あんな絵、AIや誰かの真似じゃ絶対に描けない」  悠真さんの言葉に、胸の奥の黒い塊が少しだけ溶ける気がした。 「俺もな、医者になってから、救えなかった患者がいる。あの時、もっと何かできたんじゃないかって、今でも夢に見る。葵の絵が否定されたみたいに、俺も努力を否定されたことは何度もある。でも、葵がこうやって話してくれたから、俺も少しだけ前に進める気がする」  悠真さんの声が、いつもより低くてどこか切なくて、オレの心に響く。  今日だって、無理にデートに連れて来てもらった。  本当は嫌なはずなのに、恋人ごっこにも付き合ってもらった。  これ以上を望むなんて、バチが当たるのに……  でも、最後にひとつだけ、聞くだけでもいいから、最後にひとつだけ……  震える手で悠真さんの両頬を包んで、歪な笑顔でわがままを口にする。 「悠真さん……こんなオレだけど、最後にひとつだけ……お願い、聞いてくれる?最後にひとつだけだから……」  彼が優しいのを知ってる。  彼が、優しくて嘘つきなのを知ってる。  かわいそうなオレの過去を聞いて、同情してもらって、逃げられないようにする。  優しすぎる悠真さんの善意に付け込んで、拒絶できなくする。  無茶なお願いだってわかってるけど、どうしても叶えてほしかった。 「オレ、悠真さんと【番】になりたい。死ぬ前に、悠真さんと繋がりたい。次の発情期、オレのこと……抱いてくれませんか?」  月下美人の花のような儚い甘い匂いが夜風に攫われていく。  Ωであるオレから出てしまうフェロモンの匂い。  ずっと抑制剤で抑えつけてきたけど、発情期の周期には匂いが抑えられなくて、微かにだけど香ってしまう。  αの人生を狂わせてしまう、害にしかならないオレの匂い。  多分、αである悠真さんは、さっきから垂れ流されているオレのΩのフェロモンを感じ取っているんだと思う。  優秀なαに媚びる、この嫌な臭いを……  悠真さんのダークグレーの瞳が驚いたように見開かれ、動揺したように揺れているのがわかる。 「…………」  困惑と疑念、迷い、苦痛。  当然の反応だ。  もうすぐ死んじゃうような、偽りでしかない恋人を番にするなんて……  どれだけ優しい悠真さんでも、こんなお願い、嫌に決まってるよね。  悠真さんは何も言わず、怖いくらい長い沈黙が続く。  眉間の皺、いつもよりすっごく深い。  こんなこと言ったせいで嫌われちゃったかな…… 「やっぱり、嫌だよね。ゆ……先生、ごめん。やっぱり忘れて。……部屋、戻ろ?ちょっと……寒く、なってきたし……」  悠真さんの視線から逃げるように顔を背ける。  嫌悪感を含んだ悠真さんの目なんて見たくないから、このまま目を閉じていようかな……  明日になったら、忘れてくれるかな?  今までみたいに優しくしてくれなくてもいい。 【先生】と【患者】の関係に戻ってもいい。  それでもいいから……最後まで、オレの先生でいてくれるかな……? 「葵……わかって、言ってるのか?」  悠真さんの声なのに、ひどく冷たく聞こえた。  前に無理をして熱が出た時と一緒のような声。  ううん、あの時よりもずっと冷たい声な気がする。 「今の葵にとって、番になる行為がどれだけ危険なことなのか理解しているのか」  先生の冷たく硬い声に、息が詰まる。 「フェロモン崩壊症の患者にとって、発情期は神経系に致命的な負荷をかける。今の葵の身体では……耐えられないかもしれない」  瞼を開き、先生の顔を見ると、ダークグレーの目が怖いくらい真剣にオレを見ていた。 「番になるための行為が、葵に苦痛を与えるだけかもしれない。定期検診の検査で、葵はアソコを弄られるのは嫌だって言っていただろう」  先生の表情が苦しそうに歪む。  ごめんね、先生。  本当は嫌なんだよね。  それだけ、言い訳をするってことは、そういうことでしょ? 「うん。わかってる……。抑制剤なしで発情期になったら、オレの身体はもう耐えられないんでしょ?」  先生の言いたいことはわかる。  オレが無茶を言っていることも。  悠真さんを困らせていることも。 「番にしてもらっても、病気が緩和されるわけじゃないこと……」  全部、ちゃんと理解してるよ。  それでも—— 「先生……悠真さんの、迷惑でしかないってことも、ちゃんとわかってる。でも、死ぬなら、悠真さんの番になってから死にたい。一度でいいから、好きな人に抱いてほしい」  でも、お願い。  嫌なら、ダメなら……このまま突き飛ばしてほしい。  本気で拒絶してもらえたら、諦めるから……  悠真さんのワイシャツの胸元を握り締めたまま、返事を待つ。  夜風が吹き抜ける音だけが、やけに大きく聞こえた。 「葵……」  悠真さんが苦しそうにオレの名前を呼ぶ。  その声に、胸が苦しくなった。 「……そんな顔で頼まないでくれ」  絞り出すよう声だった。  ダークグレーの瞳が揺れている。  今まで何度も見てきた優しい目なのに、今は泣きそうにも見えた。 「……俺は、医者だ」  悠真さんの大きな手が、オレの頬に触れるも、その手は震えているようだった。 「お前には、生きていて欲しい」  切望するような言葉に、胸が締め付けられる。 「……今の葵にとって、発情期がどれだけ危険なのか、知っているだろ。番になる行為だって、今の葵にどれだけ負担をかけるかわからない」  悠真さんは形の良い唇を噛みしめて、泣くのを堪えているようだった。 「……だが、断れば、お前は傷付くだろ?」  泣き出しそうな笑みを浮かべ、低く掠れた声で問うてくる。 「……俺が受け入れたら、お前を失うかもしれない……」  その言葉を聞いた瞬間、初めて気づいた。  怖いのは、オレだけじゃないんだ。  きっと、悠真さんも怖いんだ。 「俺は……」  悠真さんは目を閉じ、力強くオレを抱き締めてくれた。  ごめんね。  本当に……ごめんね。  オレはまた、自分の願いばかり押し付けてる。  そう謝ろうと口を開いた、そのときだった。  悠真さんは、何かを必死に飲み込むみたいに喉が上下する。  そして、覚悟を決めたように、まっすぐにオレを見つめて言ってくれた。 「わかった」  先生が深く息を吐き出し、諦めたような声で返事をしてくれた。 「今晩から、抑制剤の投与を止めよう。葵の周期を考えると、明日には発情期になるだろう。葵、俺は明日、発情期になったお前を抱く」  さっきまで凍えそうなくらい冷たい声だった先生が、何かを決意したような、少し硬い声で宣言してくれた。  先生の言葉が信じられなくて、目を見開いて悠真さんの顔を見る。  悠真さんは、笑ってくれているのにどこか泣き出しそうな顔をしていた。  壊れ物でも扱うように、優しくでも力強くオレの身体を抱きしめてくれて、誓いのようなキスをしてくれた。  絶対に無理だと思っていたのに、悠真さんはオレのわがままに答えてくれた。  ◇ ◇ ◇  夜のデートが終わって病室に戻った後、悠真さんは約束どおり抑制剤の投薬を止めてくれた。  点滴を付けずに眠るなんて、ここに入院してきて初めてだと思う。  細い管から絶え間なく薬が投与され続けてきた。  それでも、三ヶ月に一度訪れる発情期を内心恐れていた。  ずっと、死んでもいいって、死にたいって思っていたのに……  悠真さんに会えてから、死ぬのが怖くなった。  もっと彼と一緒にいたい。  彼の側にいたい。  彼と……繋がってみたい。  だから、神様はオレに最後のチャンスをくれたんだと思う。  嘘だけど、悠真さんがオレの恋人になってくれて、発情期を過ごしてくれるって約束してくれた。  死ぬ前に最高の思い出を作ってもらえるチャンスをもらえた。  今まで、ずっと……ずっと、発情期が来ないように、来ても身体に負担がかからないようにしてくれていた。  もし、発情期を一緒に過ごしてくれるっていうのが、【番】にしてもらえるっていうことが、嘘でも構わない。  もう、それ以上に幸せをもらえたんだから……

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