17 / 29

-閑話-

 白を基調とした病室内に、静かに鉛筆を擦る音が響く。  ここでスケッチブックに絵を描くのは、もう何枚目だろう……    デッサンの練習のつもりなんてなかった。  それでも最初は、何枚も、何枚も……ただ、コップの絵ばかりを描いていた。  コップを描きたいわけじゃない。  ただ、八つ当たりみたいなものだった。  行き場のない感情をぶつけるように、ただひたすら同じ絵を描いていた。  指先が震えるほど強く鉛筆を握りしめ、紙に線を刻むたび、胸の奥に溜まった苛立ちや悲しみが……少しだけ、薄れていく気がした。  もう絵を描くことなんて辞めようって決めていたのに、カタチにならない、言葉にできない感情を発散するには、オレには絵を描くことしかなかった。  ここでの生活に少しだけ慣れた頃、窓から見える景色や、壁に映し出される光の影を波に見立てて絵を描くようになった。  午後の柔らかい陽射しがカーテンを透かし、白い壁に淡い影を落とす。  その影がゆっくり揺れるたび、オレはそれを波だと思い込みながら線を引いた。 「海、いきたいなぁ……」  誰もいない病室に、ポツリと響くオレの声。  無理な願いだってことはわかっているのに、不意に溢れた本心なんだと思う。  海に行って、なにかできるわけでもないし、何をしに行くのかもわからない。  でも、ただ海を見たいと思った。  広い海原を眺めれば、自由になれるんじゃないかって思った。  この真っ白な綺麗すぎる部屋から飛び出して、青い海に包まれたら、オレも海と溶けて混ざってしまえるんじゃないかと思った。  何もかもを、諦めたこの気持ちが……少しだけ、解放されるかもしれない。  そんな淡い期待が、胸の奥で疼いていた。  佐藤先生のことが気になりだしてから、オレは新しいスケッチブックを美咲さんにお願いした。  何冊もスケッチブックを買ってもらうのは迷惑だってわかっているけど、なんとなく分けたくなって……  どうしても、風景画とかデッサンと同じ一冊には描きたくなかった。  佐藤先生だけは……他の絵と一緒にしたくなかった。  何気なく描いた風景と同じページには、置きたくなかった。  だって、佐藤先生は……風景とも、花とも、デッサンとも違う。  オレにとって、佐藤先生は特別な人だった。  だから……この人だけは、大切に描こうって決めた。  そのための、新しいスケッチブックだった。    佐藤先生のことを好きになるたび、『まだ大丈夫』って気持ちが、『もう少しだけ……』ってわがままに変わっていった。 『もう少しだけ……』佐藤先生を知りたい。 『もう少しだけ……』佐藤先生と話したい。 『もう少しだけ……』佐藤先生の絵を描きたい。 『もう少しだけ……』佐藤先生の笑顔を見ていたい。  診察の合間に見せてくれる優しい眼差し。  疲れた顔を隠しているつもりなのに、眉間には深~い皺が刻まれているところも好き。  オレのこと『好きになって』なんて、わがままなのは知ってる。  だから、もう少しだけ……  せめて……もう少し、だけ…… 『永遠』なんて、贅沢なことは言わないから……  せめて…… 『もう少しだけ……悠真さんと一緒にいたい』  悠真さんがプレゼントしてくれた色鉛筆に手を伸ばし、スケッチを終えた絵に色を乗せていく。  深海のような深い青を塗る指先が震える。  白いワイシャツの襟元に落ちる淡い影。  優しく微笑む唇に、ほんの少しだけ、暖かい色を添える。    悠真さんのことを考えているだけで、ほんの少しだけ、オレの世界に色が戻る気がした。  この白く無機質な部屋で、唯一感じる温かな光のようだった。  もう少しだけ……  せめて……もう少し、だけ……  この白い部屋で色づいた景色を……  どうか、あと……少しだけ――  あなたと、一緒に見られたらいいなぁ——

ともだちにシェアしよう!