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のるかそるか

 窓ガラスの向こう、電光掲示板に確定の文字が光った。着順、9、6、13、2、5。 「あー、終わった終わった」  柴岡は席にかけたまま、そう言って俺を見た。笑っている。 「終わった、いやまあそりゃ、軸馬飛んでんだからどうしたってどうしようもないわな」 「そりゃまあ」 「よなー。あーきっつ。本気で悔しい」  肩をすくめてみせるけれど、口元が緩んでいるのでどうも本気で悔しいように見えない。ずっとそういうやつだった。愚痴らしいことを言っている時も、それなりに憤っているらしい時も、落ち込んでいると主張している時も、なんだかにこにこと笑っていた。  周囲の客たちがばらばらと席を立つ。柴岡も一つ伸びをして、よし、と言った。俺は尋ねる。 「あ、二十五分の、向こうのレースやらなくていい? ほんとの最終」 「いいいい。この状況でよその会場のレースやっていいこと一個もない、経験的に」 「そう」  できるだけさっぱりと言ってみた。二人揃って立ち上がる。後ろから左肩をぱんと叩かれて、変な声が出そうになったけれど堪えた。 「いいよなー。結局プラス着地だろ」 「だわ。メインが効いた」  一日中、勝って負けてのぱっとしない展開が続いていたところに、今日のメインの十一レース、単勝三十七倍で買った馬がいつの間にか五十四倍に化けて突っ込んできた。最終十二レースは降りて、負けが込んでいた柴岡の馬券を一緒になって応援した。手堅いと思われた7番が、ずるずると馬群に沈んでいった。 「俺完全にすっからかん。かわいそうだろ」  またぱんぱんとやられる。変な声の代わりに、はは、と笑い声で返す。叩き返すことはできない。ただでさえ触れられた場所が熱いのに、こちらから触れたりしたらさぞとんでもないことになるだろう。  三階座席エリアを抜けて、表に向かって歩き出そうとした途端、柴岡は言った。 「ごめん。俺ちょっとトイレ」 「おっけ」  小走りになる柴岡を見送って、壁に背をつけて、スマホを見ているふりをして待つ。長い一日だった。もしかして会ってしまえばなんとも思わないんじゃないかという方に賭けて家を出てきて、改札を抜けて顔を見た瞬間、負けたと思った。四年くらいじゃ冷めないらしい。 「やあや、待たせた待たせた。でまたごめんなんだけどさ、こっから外出ていい? 下降りる前に」 「え、ああうん」  俺と柴岡と、同期入社の中ではまあ比較的親しい部類には入るだろう。入るだろうけれど、それじゃあ一番親しい奴はと言われたら、お互い別の人間の顔が思い浮かぶはずだ。まして俺は会社を抜けた人間で、もう同僚ですらない。送別会以来一度も連絡を取っていなかったし、そのうち向こうは向こうで転勤になったとも聞いていたのに、今になって突然、来月一緒に馬どう、と来たときは、絶対に何かの間違いだと思った。久々にそっち戻るからさ、もしよかったら。  言われるまま扉を抜けて屋外に出る。人波の向こうの屋台を見て、柴岡は頷いた。 「よし、まだ終わってない」  クラフトビールマーケット、ののぼりが立っている。人の流れを横切る柴岡の後ろについていく。どうですか、と屋台に立った若い女の子が言う。 「俺IPA。そっちは?」 「え?」 「飲まない? ビール。奢り」 「すっからかんじゃなかった」 「そういうときこそ金使うもん。わかるくせに」 「いやわかるけど」 「わかるならほら。どれ」 「あー、じゃあ同じやつ」  すっからかんの柴岡が代金を払う。女の子がビアサーバーからプラスチックカップにビールを注ぐ。柴岡がそれを受け取る。柴岡の手に収まったカップの中で、黄金色の液体が夕方の太陽を受けてきらめいている。おら、と差し出されたカップを受け取る。柴岡が飲んだので、俺も口をつける。つけた瞬間、そういえばIPAは苦みが強くて苦手なビールだったことを思い出したけれど、今更どうしようもない。グレープフルーツに似た後味の方に意識を集中して、ほんの少量をうまい具合に飲み下す。柴岡が言う。 「今日ありがとな。付き合ってくれて」 「や俺は」  一拍置いて返す。 「楽しかったからいいけど。戻ってきたなら会う相手、もっといたんじゃないの」  攻めすぎた気がする。気がするけれど、これだって今更どうしようもない。柴岡の顔を見る代わりに、苦いビールを舐める。 「いや全然、だって」  今度は柴岡が息を止めた。あれ、と思って視線をやる。笑っている。 「おまえに会いたかったんだよ」  俺はビールを、今度はたっぷり口に含んだ。苦い。すごく苦い。 「あれ。そういや苦いもん得意じゃないんじゃなかった」  喉の向こうにビールを流す。頼むからそんな、万が一を想像させる顔をしないでほしい。 「馬どうっていきなりはさ、ちょっとビビった」 「あーうん、俺もビビってたからあの文章になった」  ビビってたって何だと、笑顔の柴岡に聞けない。ビールを飲むペースが上がる。飲み終わったら帰らないといけない。 「最悪俺のこと忘れてるパターンも、まあ何パーセントかはあるなと思って」 「それはさすがに悪い方に読みすぎじゃ」  今、俺に忘れられていることが柴岡にとって悪いことだと言ってしまったな。よくない。ぐずぐずになっている。 「だから今日嬉しかった。一日一緒に過ごせて」  だめだろうそれは。絶対だめだろう。ビールを、思い切って全部飲んだ。味蕾が、苦味を感知しすぎて限界を迎えている。 「あーそっか、もしかして帰り急ぐ?」  まだ半分以上中身を残したカップを持って、柴岡は言う。 「や、その」  柴岡がわずかに、ごくわずかに口角を下げた。 「時間あるなら飲み誘おうかと思ってたんだけど、まあ気を使わないでもらって」 「や」  本当に期待させないでくれと思いながら、ここはいかないといけないところだとも思う。どっちを選んだらより後悔するか、わかっている以上いくしかない。腹に力を入れた。 「暇。全然暇」  柴岡がぱっと笑った。あのいつも浮かべている柔らかい笑顔じゃなく、もっと弾けるような顔で。 「よし決まり。おまえの奢り」 「あ、そっち」  間抜けな言い方になってしまった。 「そっちって何」 「いやその、すっからかんのときこそ使うんじゃなかった」 「せっかく軍資金あるんだから甘えさせてもらわないと」  それはそうだ。こいつを一晩中連れ回して前後不覚になるまで酔っぱらわせるだけの金を、今俺は持っている。 「わかった奢る。好きなもの食わせてやる」 「よっしゃ。やっぱすっからかんのときは肉かな」  空のカップを持つ手が、少しだけ震えている。柴岡が中身の入ったカップを口に運ぶ。その指が震えていればいいと思う。 「ちょーっと待ってな。急いで飲むから」 「急がなくていいよ」  そう、急がなくていい。長い一日だ。まだ終わらない一日だ。どうせいつかは終わりが来るけれど、引っ張れるところまで引っ張ってやる。実際、俺はそう度胸のない人間じゃない。

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