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彼の輪郭
スマホ変えたから見てと母は言った。僕がそんなことをしなけりゃならないほどの年に母はなったんだったか、と思いながら実家に帰った。数か月ぶりに見た顔はまあ確かにイメージよりは老けていたけれど別に騒ぎ立てるほどでもなかったし、スマートフォンは、わからないわからないと繰り返す癖にそこそこ使いこなしていた。
ついでに二階の荷物も下ろしてと母は言った。僕がそんなことをしなけりゃならないほどの年に父はなったらしい。なんだかガラクタみたいなものばかり詰まった段ボールが六つ、二階の、かつて僕の部屋だったところに並んでいた。じき妹の家族が泊まりにくるにあたってどうも何かしら邪魔らしいのだけれど、その辺の話は聞き流してしまった。僕より先に彼が一つ持ち上げて、下ろしたらいいんですねと言った。当たり前みたいに階段を下っていくので、そんなもんかと思って僕も一つ持ってみたら、あんまり重いのでびっくりした。
表まで出てきた母に実に丁寧に礼を言って、彼は歩き出した。僕は母に向かって一度頭を下げてから、すぐその後を追った。道沿いに並ぶ庭木が青い。僕の家のも、隣の柿崎さんちのも。
「暑いなあ」
彼が言う。空はかんと高く、日差しはつんと強く、セミが大声で鳴いている。
「暑いなあ」
僕も言う。彼が、黒いシャツの袖をまくる。腕の線が見える。汗がにじんでいるのがわかる。暑いならそんな格好しなくていいのに。僕の投げやりなTシャツは、この数分で背中に張り付き始めている。僕は続ける。
「でもバス停そこだし」
母親がスマホの機種変したから実家に帰らないといけないと、昼休み、パソコンを脇にどけたデスクでケバブサンドを食べながら、向かいに座る彼に話した。彼はアイスコーヒーを啜りながら首をかしげた。間になんにも置いていないから、そのしぐさがよく見えた。
「実家近いんだっけ」
「電車一時間半くらい」
「近い。どんなとこ」
「普通の田舎。なんもない」
「田舎ったってたかが知れてる、ここから一時間半じゃ」
「いやほんと、家しかない。ずっと家」
「ずっと家なのは田舎じゃない」
「見たらわかるって。何なら来てみる?」
「へえ。じゃあ行こうかな」
バスが来ない。もう十五分来ない。住宅街の、そう広くもない道を自家用車ばかり通り過ぎていくので、僕らはとうとう顔を見合わせた。
「十七分発だよなあ」
そう言って、僕はバス停看板の時刻表を指でなぞる。彼が後ろから覗き込んでくる。何だか妙に濡れたにおいがする。あ、と彼が呟く。
「土日祝運休」
「うっそ」
「17」の文字の横についた星印を見て、時刻表の下部欄外に書かれた「★ 土日祝運休」の文字を見て、最後に、さらに下に貼られた紙を見た。四月一日ダイヤ改正のお知らせ。僕は振り向いた。すぐ近くに彼がいた。
彼の髪から汗が滴る。彼は、まくった袖から出た右腕で首元を拭う。ああ、と思いながら言った。
「歩く?」
「歩こうか」
僕たちは歩き出した。焼けた風が頬を撫でていった。あと三十五分で次のバスがあったとか、アプリでタクシーが呼べたとか、そういうことを二人とも言わない。
庭のある古い家が続く。たぶん僕が子どものころからそこにあった家ばかりだ。ときどき塀から木の枝が突き出していて、その葉の下で息を整える。彼が胸元のボタンを外す。インナーは白い。見せられる服なんだったら上、脱いだ方がいいんじゃないか。僕なんか、できることなら腹をめくって肌に風を当てたい。木陰の風なら幾分ましだ。
庭、庭、庭、たぶんもう閉めてしまっている何かの商店。
「ほら。田舎」
「違う。これは郊外」
彼がどんな町で生まれて育ったのか、僕はあまり知らない。確か雪の降る土地だったとは思う。それを知っているだけ詳しいと言えるのかもしれない。他人の生まれた場所のことなんか知らないのが当たり前だ。知らないのが当たり前なのに、なんだってこの人は、行こうかななんて言ったんだろうか。
家が途切れて、大きな建物が出てきた。黒い門は閉められている。土曜だから人気のない小学校だ。
「これ通ってたとこ?」
「そう」
「ふぅん。遠くない」
「学区の端っこに生まれちゃって」
彼が足を止めて、門の向こうに視線をやる。不審者だぞと言うほどでもないのかもしれない。父兄に見えるかもしれないし、言って土曜日だし。僕も校舎を見上げる。あのころから一度も建て替えていないらしい古い校舎だ。いい思い出も悪い思い出もそこそこある。聞かれてもいないのに話すほどでもないけれど。彼を見る。なんだってこんなところにいるんだろう。聞いてみる。
「暑い? 向こうより、こっち」
「向こうって?」
「地元」
「いや」
彼が僕を見る。黄色く色づき始めた光に照らされて、その輪郭はぼんやり溶けている。
「そりゃ子どものころは涼しかったけど、あれ昔だからじゃないかな。今はあっちも普通に暑い。何にも知らない人が雪国だからって油断して夏来たらほんとに後悔するくらい暑い。なんたって」
彼の喉が濡れているのを僕は見る。
「湿っぽいんだよ。こっちは乾いてる。マシ」
そう、湿っぽい肌だ。触ったら吸い付いてくるに違いない。
小学校を越えると、庭のない家が増えてきた。僕より年下かもしれない。だんだんと足が重たくなってくる。二、三十分だと思ったのに、なぜだかちっとも駅に近づいている気がしない。歩く速度が落ちる。彼はどんどん先に行く。ほら言ったろう家ばっかりだって。休みを潰してまでこんなところに来るなんて、いったい何をやっているんだお前は。なんだって僕はお前に声をかけたりしたんだ。僕と彼とは仕事仲間で、まあ友人と言えないこともなくて、その程度の相手を地元に連れ帰ったということがまずよくわからないし、最新の時刻表を調べておかなかった不注意も今となっては謎だし、結局のところ、こんな暑い中歩くのを選んだことが一番意味がわからない。意味がわからないまま僕は歩いている。そうして彼が振り返る。
「暑い? 大丈夫?」
大丈夫じゃないと言ったらなんなんだろう。
「大丈夫」
「ほんとに? なんか探す?」
「なんもないよ」
「わかんないって」
「わかるって」
彼を形作る線はもうぐずぐずに濡れ崩れていて、とろけ出してしまわないように押さえなければいけない。立ち止まっている彼に歩み寄る。手を伸ばす。彼のじっとりと濡れた腕にもうじき届く。もうじき。
なんでもないように立っている彼に触れかけて、ぎょっとして手を引っ込めた。なんだって僕が彼に触るのだ。
「わかった駅向かうけど。なんかありそうだったらそっち寄るから。わかんないから」
彼がまた歩き出す。今度は速度を落として、僕に合わせてくれる。だから並んで歩かざるを得ない。すぐ隣に彼の、熱く濡れた体がある。何かの間違いで触れてしまいそうで、恐ろしくて息が詰まる。彼は僕の仕事仲間でどちらかといえば友だちで、それだけなのにどうして彼は僕の母の顔を知っているのだろう。駅にはいつ着くんだろう。駅なんかほんとにあるんだろうか。変な夢でも見ているんだろうか。
交差点に出た。信号のあるちゃんとした交差点だ。赤信号を見つめている僕に、ほら、と彼は言った。なんだろうと思うけれど、視線を動かす気にならない。ほら、と彼はまた言った。それでも僕は赤信号を見ていた。彼が僕の肩に手を置いた。僕は飛び退いた。触れ合ったところから、僕だか彼だかが蒸発してしまった。
「ほらあれ」
やっと、彼が指さす先を見た。のぼりだ。見慣れた、どこにでもあるのぼりだ。フローズンドリンクのがひとつ。おにぎり五十円引きセールのがひとつ。信号が変わった。
コンビニの中はあんまり涼しくて、なんなら寒くて、そのせいで風邪を引くんじゃないかと思った。彼はレモンフレーバーの炭酸水を、僕はマンゴーのフローズンドリンクを買った。イートインがないので、また外に出ることにする。暑い。暑いけれど、彼の輪郭はもうすっかり元通りになっている。
「やっぱりあった。わかんないって言ったろ」
「ん」
店の前にはまっすぐ道路が伸びている。この道を行けばもうあっという間に駅だと僕は知っている。もちろんそうだ、もう帰れる。
「郊外だからちゃんとコンビニあるんだよ」
「田舎だからこんなに歩かないとないわけ」
彼は笑った。笑って炭酸水を飲んだ。喉元が動く。乾いた肌だ。乾いた肌に、僕の指先は引っ張られる。引っ張られる? 僕は言った。
「まああれだ。とりあえず歩くか」
「そうだな。歩こうか」
暑くて明るくてセミは相変わらずうるさくて、僕はちゃんと目覚めている。ちゃんと目覚めているのにどうして彼に引っ張られているのかさっぱりわからない。触れてみたら、その輪郭の当たり前の強さにひどく驚くと思うのだけれど。いやそれ以前に、彼に触れてみたくなる理由なんてどこにもないはずなのだけれど。
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