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その日
インターホンが鳴った。由人 は柄付きブラシで浴室の床を擦るのをやめた。ブラシから手を離す。荷物なんか頼んでいたかと考える。扉を開ける前に、リビングから応答の声が聞こえる。声の主が、ばたばたと廊下を駆けていく。ああまたか。ブラシを手に取る。壁際を、特に念入りに擦る。玄関先でのやり取りが聞こえて、足音が近づいてきて、扉が開いた。
「兄ちゃんピザ。ピザ食べよう」
顔を出した洋輔は、大きくて平たい箱を二つと、チキンだかポテトだかが入っているのだろう小さな箱を一つ、縦に重ねて持っている。
「いま風呂掃除」
「冷めるから」
仕方ない。由人はシャワーを取ってハンドルを捻り、床の泡を流し始めた。最低限の掃除はできたことにする。洋輔は笑って戻っていった。
リビングに入ると、そう広くない二人掛けのダイニングテーブルに、ピザ二枚とチキンとが強引に広げられていた。洋輔が冷蔵庫を開けている。
「兄ちゃんビールね」
「だから俺も飲めるだけで別に飲まなくていいんだって。毎回買ってこなくていいよ下戸のくせに」
「飲める人には飲んでもらったほうがさあ、進むわけじゃんコーラも」
食器棚からグラスを二つ出し、一方にはビールを、もう一方には氷を詰めてからコーラを注ぐ。両手に掴んで持ってきて、ビールの方を由人に差し出す。由人は黙ってそれを受け取る。二人で席に着く。洋輔が言う。
「じゃいただきまーす」
「ん、いただきます」
洋輔がコーラを煽り、なんだか肉のたくさん載ったピザを口に運ぶ。由人はビールを飲む。喉から胃まで、液体が通っていったところが順に熱くなる。
「キくっしょ」
「キくけど」
洋輔は頷いて、食べかけのピザを箱に戻す。皿を置く場所がないからだし、それでいいと洋輔は思っている。由人は由人で、洋輔ならそんなものかと思っている。四十過ぎてなお、ちょっとそれひと口ちょうだい、をやってきたりするものだから。
「ほら、兄ちゃんも」
テーブル越しに、ピザを口元に運ばれる。先端が唇に押しつけられる。口を開く。差し込まれる。かじりつく。塩と脂とチーズの味がしてもちろんちゃんとうまいのだけれど、二切れくらい食べれば十分だ。エビとマヨネーズのやつも食べないといけないのだし。毎回その旨を伝えるけれど、洋輔はじゃあ残りは俺が食べると言ってくるし、本当に食べきってしまう。由人が四月、洋輔が三月、生まれは十一ヶ月しか違わないのに。
差し込まれた分を呑み込んだ。洋輔の手は引いていかない。
「おまえ、またこんなのばっか食べる生活になってないよな」
「あ、それおばちゃんにも言われた」
「なんで母さんが」
「母ちゃん経由でこう、行ってるみたいで話が。俺のいいかげんな生活の」
由人の母親と洋輔の母親と、家系図上ではどういう関係になるのか、由人も洋輔もいまひとつ理解していない。していないのでお互いのことを、まあ従兄弟みたいなもん、としか人に説明できない。
「いいかげんと思ってるなら直せよ」
「いやー直らないでしょいまさら」
目の前のピザを、由人はまたかじる。かじる由人を洋輔が見ている。視線を感じながら、由人はピザを洋輔の手から取る。もう片方の手でビールを飲む。由人が飲むと洋輔は嬉しそうな顔をする。いつもそうだ。嬉しそうな顔をされるので、買ってこなくていいよとは言えても、買ってくるなとは言えない。
「それにさたしかに俺はいいかげんだけど、兄ちゃんが結婚失敗男にしてはちゃんとしすぎだから余計に目立っちゃってるのはあるわけじゃん」
「俺のせいみたいに言うなよ」
「せいではあるんだって。だめだよ土曜の昼風呂掃除に使っちゃ」
「じゃあ何してろっていうの」
「ピザ食ってビール飲んでろって」
洋輔は自分で言ったとおり、ピザを食べてコーラを飲む。由人は引っ張られるみたいに同じ振る舞いをしてしまう。土曜ごとにこんなことをしていたらそれこそ人間がだめになる。だめになると思いながら口を動かす。口元を見られている。洋輔はもう何年も前から、由人を見ていることを隠そうとしない。
「昼寝でもいいよ。兄ちゃんだって休みの日の昼腹出して寝てたことあるんだし、思い出して」
「三十年以上前の話をすんな」
不意に、視界が二センチばかり浮き上がった。酒が回ってきたなと由人にはすぐわかった。洋輔の目がほんの一瞬鋭くなる。おや、と由人は思った。またピザを突きつけられた。今度はエビとマヨネーズ。由人が唇を少し開けると、当たり前みたいに入ってきた。噛んで呑むとまた入ってくる。呑む。入ってくる。口を塞がれてしまって話すことができない。洋輔だけが、楽しそうに言葉をつなげる。
「俺、今の兄ちゃんが昼間っからぐだぐだ寝てるの見たいけどなあ。全然かわいいと思うけど。そういうかわいいとこ見せとけば捨てられなかったと思うけど」
由人の上唇に、マヨネーズがべったりとついた。口の中のものを呑み込むと、ピザが引っ込んでいった。すぐに、今度は何も持たない洋輔の手が伸びてきて、由人の後ろ頭を掴んだ。ああ今日だったのかと由人は思った。いずれその時が来るのはわかっていたけれど、今日がその日だったのか。
洋輔はテーブルの上に身を乗り出して、由人の上唇についたマヨネーズを舐めた。由人はされるがままでいたあと、離れていく洋輔の目を見た。笑っていないなと思った。思ったので言った。
「おまえ、こういう時笑わないんだ」
洋輔は一瞬目と口を大きく開けて、それから目だけを細めた。
「最初のキスは緊張するって」
「緊張してるにしちゃやらしいやり口だったけど」
「それはまあ」
洋輔が、今度は自分の上唇を舐めた。二度目だなと由人は理解した。その通りまた唇がやってきて、由人は進んでそれを受け入れた。洋輔が言った。
「兄ちゃんこそこれでいいんだ」
由人は箱の上に戻されたエビとマヨネーズを取って口に含んだ。もったりしているなと思った。耳まで全部食べきってから言った。
「よくなかったらとっくに締め出してる」
目が合った。二人とも笑う。四十年以上かけていったいどこに着地しているんだかと由人は考える。一方の洋輔の頭の中はどうなっているんだか、由人にはよくわからない。
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