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退館

 西側通用口は施錠したし、キャビネットも全部閉まっていたし、空調も明かりもいまから消す。指をスイッチパネルに押し当てて、左上から右下へ順番にオフにしていく。完全に静まり返った西区画から東区画へと出て、間を繋ぐ扉をまた施錠する。こっちはまだ明るい。明るいけれど誰もいない。先に出ますねとは誰からも言われなかった。  東側通用口が開く音がした。視線をやる。人が入ってくる。こちらに向かって言う。 「伊藤さん」  中途の木戸さんだ。ハンカチをポケットにしまいながら近づいてくる。 「いまお帰りですか?」 「ええ、はい」 「僕もです」 「ああ」  しばらく考えてから言った。 「閉め方わかります?」 「聞いてます。やったことはありません」  そう返ってくる気がしたし、そう返ってきた以上言わないといけないことは決まっている。 「一緒にやりましょうか」  木戸さんがこちらの目を見る。あんまりまっすぐなのでうろたえる。何かおかしなことを言っただろうか。 「そうですね、お手間じゃなければ」  木戸さんは一度頭を下げて、部屋の真ん中のデスクに戻っていった。たぶん、パソコンやら何やら片付けをしている。そうじろじろ見られると人は戸惑うものだ。視界の端に入れておいて、戻ってくるのを待つ。  鞄を肩から下げて戻ってきた木戸さんに、まずは、と言って、通用口の向かいの壁に並んだキャビネットを指してみせる。 「施錠確認しましょう。鍵穴が横を向いていたら施錠済み、縦は未施錠。私奥から見ます」  部屋の右奥に進む。キャビネットの鍵穴をひとつひとつ確認しながら左に歩く。形だけに意識を集中する。横、横、横、横。  左肩のすぐ先に木戸さんがいた。思わず顔を向けた。木戸さんもこちらを見ていた。 「すみません、びっくりしました?」 「いえ。いえ、いえ、はい」  木戸さんが小さく頭を下げる。 「失礼しました。鍵、全部閉まってましたよ」 「ああはい、ありがとうございます。次鍵ロッカーです。個人ロッカーのところにあります」  従業員ロッカーの位置は、木戸さんだってもちろん把握している。歩きながら、視線を前に向けて言う。 「二ヶ月経ちますよね。慣れました?」 「おかげさまでずいぶん。まだ充分にお力になれていなくて申し訳ないですが」 「ご謙遜を」  いいか悪いか、くらいの評判は、二ヶ月もあれば人事部門まで聞こえてくるものだ。そう大きくもない会社なのだから余計に。  三段ロッカーの並びの、一番手前で足を止める。 「上から順に、鍵が揃っているか確認してください。不足があれば総務課長に一報です」  ロッカーの右に体を引く。木戸さんが一番上のロッカーを開ける。扉で木戸さんの横顔が隠れる。声だけが聞こえる。 「同じマーケティングでもメーカーと小売じゃ違いますね、やっぱり」 「え。ああ」  木戸さんの仕事の話だと、当たり前のことを理解するのに時間がかかった。 「お客さんの近くにいるって感じがすごくするようになってます」  シャンプー、作るより売りたくなりまして。面接用の形式ばった言い回しの隙間で、ふとそう笑ったのを覚えている。 「まあ元々作るというより売る方の仕事をしてたっちゃしてたし、今も直接売る仕事をしてないっちゃしてないんですけど。職種としてマーケが好きなんでまあ、そのうえで」 「ああ、お仕事お好きそうな感じは伝わってました」  木戸さんが一番上のロッカーを閉めた。横顔が見える。尖った鼻だ。真ん中のロッカーが開く。 「伊藤さんはお好きじゃないですか、仕事」  尖った鼻の先を見る。嘘をつくのが面倒になる。 「嫌いじゃありませんが、別にしっくりも来てないですね」  鼻の先がこっちを向く。よくなかったかと思った後、相手は新卒じゃなく大人だと思い直す。 「人事がですか?」 「いえ仕事が。大卒で販売から入りましたが、それから今日まで一回もしっくり来てないです」  木戸さんはロッカーの扉に右手をかけて止まっている。鍵は数えないらしい。 「しっくり来ないからといって他をあたれる年でもなくなったのでやむを得ずやれることをやっているんですが」 「伊藤さん、僕と年変わらなくないですか」  また思い出す。誕生日は怪しいけれど生年は覚えている。 「変わらないですね」 「じゃあ僕、他をあたっちゃったんですけど」  今日はどうも、何も考えずに喋っている。 「展望がおありだったわけですから。ただぼんやりしている私とは違います」  木戸さんはロッカーに視線を戻した。営業一、営業二、営業三、購買一。わざわざ小声に出す。購買二、購買三。真ん中のロッカーが終わる。木戸さんがしゃがみ込む。その頭のてっぺんを見る。しっくり来ている人生というものに興味がないわけではない。  下段の扉が閉じた。木戸さんは立ち上がった。ロッカーの端に左手をやって、こちらに右手を差し出して言う。 「揃ってました。これでここ閉めるんですよね」  差し出された右手に、キーホルダーで繋がった鍵が三本載っている。 「はい。閉めて金庫です」  木戸さんが、下のロッカーから順に鍵をかける。鍵が回る音が三回する。 「展望、探しても悪いことはないと思いますが」  木戸さんは一歩こちらに踏み込んだ。一歩下がる気にならなかった。 「ただ僕としてはあんまり早くどこかにはいかないでほしいんですよね」 「はあ。は?」  はあそうですか、ではないことに途中で気がついた。また木戸さんが近い。 「僕がこちらにお世話になってるの、伊藤さんがいらっしゃるからなのもちょっとありますもん。あ、でも大丈夫ですよ。ちょっとですから。ちゃんと働いてますから」 「ちゃんと働いておられるのは聞いていますが」  一緒に働きたくなる社員、的なふるまいは別にしていないぞと思いながら、同時に、どうもそういう意味じゃないなとも思う。そういう意味じゃないとするとどうしたらいいのか、引き出しにない。 「ええ聞いていまして、それでまあえっと、とりあえず金庫ですね」  そう言ってみても、木戸さんは気分を害したように見えなかった。 「はい。金庫に鍵入れて金庫をロックして、空調と電気を消して通用口最終施錠」 「ご認識のとおりです」  ロッカースペースの奥、金庫まで歩く。木戸さんはただついてくる。 「開けてください。番号ご存知ですか?」 「たぶん」  木戸さんがナンバー錠に手をかける。左右に回す。金庫を開けて鍵を入れて、閉める前に言う。 「なのでもしお嫌じゃなければ、今度一緒にご飯食べましょう」  どこと接続する「なので」だ。 「はあ。まあ、そちらに差し支えがなければ」 「やった」  木戸さんが金庫を閉める。ハンカチと逆のポケットからスマートフォンを出す。 「そしたらほら連絡先交換しましょう。ね、いったん」 「いったん」  言われるまま鞄を探る。探りながら、なんだかしっくり来ないこともないかもしれないぞと思う。

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