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次の朝(前編)

 ハイボールが濃くて助かるなあがぶがぶ飲まなくて済むからなあと言い合いながら、結局それなりのペースでメガジョッキを空けている。どうせ同じペースで飲むなら濃い方が早く酔えていいと捉えるか、薄い方が長く飲み続けられていいと捉えるか。 「てかこの店大学んときからこんなちゃんと濃かったっけ?」  仲本が言う。またあぐらを組み直して、小皿の上でずっとこね回していたせせりポン酢をとうとう口に入れて、ちゃんと黄褐色をしたハイボールで流し込む。 「だからあんときハイボールなんか絶対飲んでなかったって。角ハイブームより前だぞあれ」 「そうだっけ? 角ハイブームって何年?」 「ゼロ年代の終わりだよ」 「よく知ってんなあ」 「こないだもその前もこの話してるからだろ」 「そうだっけ」  毎度毎度一軒目、まだそう酔ってもいない段階でしている話を忘れるなら、おまえは一体何を覚えているんだ。 「じゃあ何飲んでたんだろ。焼酎ソーダ割り?」 「そんなもんも飲んでないって。ビールとチューハイと、俺らだけこそこそ日本酒やってた」 「こそこそ」 「じじくさい飲み物だったの」 「あ、長芋来た」  仲本の視線を追って振り返る。若い女の子が片手に真っ黒な器を持って近づいてくる。もう三年くらい、この前仲本と来たときのちょっと後からいる子。ここで働いているということは、もしかしたら俺たちの後輩なのかもしれない。あのとき酒を運んでくれた子は二年くらい前にいなくなった。たぶん卒業した。  長芋短冊ですー。女の子が皿を机の左側、冷しゃぶトマトサラダの隣に置く。端に寄せていたアスパラベーコン串の空き皿を持って帰っていく。  俺は長芋の上に載ったうずらの卵の黄身を割って、刻み海苔も一緒にして長芋と混ぜる。この店の「前菜」は、スピードメニューならこんなもんだろ、の量をだいぶん越えてくるのでいつも助かる。仲本が器に箸を突っ込む。小皿を器に寄せて、長芋をすくって移す。うずらが糸状になって、皿と皿とのほんの隙間からテーブルに垂れる。仲本はそれをおしぼりで拭く。 「この卵とかタレとかが線みたいに垂れんのさどうしたら防げんの」 「調べても醤油さしから醤油垂らさない方法とかお玉で味噌汁すくうときにぽたぽたしない方法とかしか出てこなくてぴったりくる情報ない」 「なんでそんなこと調べてんの」 「だってそりゃ毎回おんなじこと言われたらまあ、気になるだろ」 「ふーん」  そりゃふーんだ。こいつがすっかり忘れていることを俺はいちいち覚えていて、インターネットが普及してからこっち、聞かれたことを全部検索している。こいつにとっては全然全くどうでもいいことを。そりゃふーんだ。ふーんが返ってくるのをわかっていて調べているから馬鹿だ。そうしているうちに知ったことを全部話したくなって、連絡が取りたくてたまらなくなって、でも向こうは忙しいだろう俺のことなんか思い出しやしないだろうとベッドの上で丸まって、とはいえ俺だって別に四六時中こいつのことを考えているほど暇ではなくて、でもでもでもで軽々三、四年経つ。経って、いよいよもって耐え切れなくなるのが先だったことも、なぜだか向こうから連絡が来るのが先だったこともある。今回は一歩出遅れた。初めてじゃないのに心底ビビった。  仲本が長芋を口に運ぶ。俺も器からつまむ。小皿に取り分けるとき卵は垂れなかった。いったん自分のに置きましたよ、のアリバイ程度に皿にバウンドさせて食べる。仲本はこの、粘っこいというよりはさっくりとした歯ざわりとか、それなりに甘い味付けとかが好きだ。  せせりを食べてトマトを食べて、飲んでいるうちにジョッキが軽くなってくる。仲本のと俺のと、減り具合はほとんど同じだ。そもそもつるむようになったのは、同じものを食べて同じペースで飲める相手だったからだと思う。俺は言う。 「メガジムビームハイにする」 「すいませーん。メガジムビームハイ、二」  女の子に向かって立てられた人差し指と中指とを見る。体つきの割に指だけ痩せている。俺はジョッキに唇を当てる。飲む。濃い。  表はまだ明るかった。一年で一番日の長い季節で、しかも四時に始めたのがよかった。隣県に帰る仲本の終電までだってたっぷり五時間ある。ただ暑い。この時期らしい湿った空気が重くて、あっという間に汗をかく。隣に立つ仲本の首が濡れている。仲本は俺を見ずに、通りの奥を眺めながら口を開く。 「しんど。冷たいもん飲みたい」 「今飲んだろ」 「まだ飲むくせに」 「まだ飲むけど」 「そしたらさ」  仲本の指す先を見る。看板。日本酒とおばんざいの店。 「前来たとき、おっと思ったんだけどあんときもうでろでろだったからさ」  店のことは覚えてるのか。 「三田は入ったことある?」  仲本が歩き出す。俺は大股でそれに追いつく。 「ない。何回も前通ってるけど」  店は、日本酒とおばんざいの店のくせに壁の右半分がガラス張りだった。そういえば前はカフェバーが入っていた建物だ。二人で中を覗く。仲本が頷く。 「そこそこ人入ってる。てか四年潰れてない。若者率二割くらい。いける。な」  頷く以外に何ができる。酒はたぶんきっとうまいし。  カウンターの奥に通された。仲本はテーブルの上のドリンクメニューを取り、俺は壁にぶら下がった今日のおすすめのホワイトボードを見る。あー、梅水晶、バイ貝。仲本が言う。 「日本酒ってメニュー見ながら選ぶと結局知ってるやつになるんだよな」 「あるな」 「だろ。おまえあったら酔鯨」  俺は仲本の横顔を見た。仲本はやっぱり俺を見ない。ホワイトボードに視線を戻す。 「おまえあったら南部美人」  あのころ、そんな立派な地酒なんて親戚から回ってくるくらいしか手に入る機会はなくて、飲み会の隅っこで、よくわからない冷酒を二人で酌をし合いながら飲んだ。そのうちもっと手っ取り早く酔いたくなって、一升サイズの紙パック酒を二人で何本も買って飲むようになった。水も取らずに飲み続けて床にひっくり返って、目を開けたらすぐそこに顔があったことが何度もある。あ、と最初に思ったのは、たぶんそのうちのどれかだ。  仲本はまだ喋っている。 「だって二軒目になるともう頭悪くなってるから難しい説明読めないし。てか二軒目に地酒ってのが間違ってんだよな。メガビールメガハイ飲みまくってから飲むもんじゃない」  この話も今夜で三回目だ。言いそうになってから、俺ばかりこいつの言ったことを反芻しているという事実が本当に悔しくなってきてやめた。代わりの言葉が口から出る。 「でもいい酒から始めると会計えぐいし」 「悩ましいとこだよなあ。でこういうときはだな」  ドリンクメニューに挟まっていたラミネートカードを見せてくる。おすすめ夏酒三種飲み比べ。もちろんわかっていた。 「馬鹿が我を張ってないでお店の人に任せるに限る。おまえは?」 「いっしょでいいよ」 「つまみは? 梅水晶とバイ貝?」 「と、枝豆と茗荷の白和え」 「へいへい」  なんでだか知らないけれど、二人分のオーダーをするときはいつも仲本が手を上げてくれる。  すぐに酒と突き出しのひじきが来た。女将さんが三つ並んだお猪口を右から順に指して銘柄を教えてくれるのを、仲本はふんふんと何度も頷きながら聞いていた。最後まで聞いて、女将さんがいなくなってから、手元を見たまま言った。 「何がなんだって?」 「右キレ系、真ん中酸っぱい、左」 「はにごりだ。とりあえず見た目わかりやすいの飲もう」  白い酒の入ったお猪口を取って口をつける。 「あ。微発泡」  同じものを飲む。舌の上で小さく弾ける。仲本が好きだろう。俺はたぶんこっちだ。右を取る。飲む。ほらうまい。ぐいと行きそうになるのを堪える。今夜は早く酔うより長く飲みたいはずだ。実際まだてんで酔っていない。てんで酔っていないから、仲本じゃなくひじきの方を眺めて飲んでいられる。横に並んだ男の顔をじろじろ見ながら飲むやつがあるか。ひじきをつまむ。うまい。いつだって先に酔うのは仲本の方だ。声が大きくなって、ものの考え方がいい加減になって、なんでもかんでも笑うようになって。そういう仲本の顔を見たいか見たくないかで言えば見たいけれど、俺はまだ全然酔っぱらっていないのでひじきを見ていられる。ぐいと飲む。あ。空になったお猪口を目の高さに持ち上げる。 「お」  仲本の声だ。思わず視線を向けてしまう。空のお猪口を一つ、目の高さで持って笑っている。 「俺も」 「は」  はは、と声が出た。仲本は空のお猪口を置いて、真ん中のを取って口元に運んだ。 「いいっしょ別に。どうせ次頼むんだから」 「いいわなそりゃ」  日本酒三種で一合。飲んでないみたいなもんだ。真ん中のを取る。二人同時に口に入れる。同時に離す。 「酸っぱ」 「酸っぱ」  俺はまたははと言って、仲本はあははと笑う。  立ち飲み屋に入ったはいいけれど立ち飲みできる気がしなくて、ビールケースに座る席を選ばせてもらった。かち割り赤ワインのジョッキの向こうで、仲本が頬杖をついてシャリキンを飲んでいる。にしても白髪きれいに染めてんな。 「さすがに飲める量減ってきちまったと真剣に思うんだけど三田どう?」  仲本は、白髪が生えるのが割と早かった。初めて見つけたとき、まずはわ、と思ったけれど、別に幻滅のわじゃなくて、ただただ過ぎた時間に呆然とするだけのわだった。いやまずそもそも、自分を棚に上げて幻滅する権利なんてないんだけども。 「そりゃまあ大学生の飲み方はできないわなあ」  十八の仲本は筋肉質で細かった。足も速かった。今、指の印象よりは体格良く見えて、でも服の上から気になるほどの肉は見当たらなくて、それじゃあ結局どれくらいどうなのかは全然知らない。最後に裸を見たのはたぶん学部四年のサークル合宿の温泉だと思うので。足が遅くなったのは知っている。三十代はじめの、まだタクシーを使うのに抵抗があったころ、終電に接続できる終バスを逃しかけて走ったので。 「食える量はもっと露骨」  二十一の秋、床にひっくり返って目を開けたらすぐそこに顔があって、すぐそこというのはもう本当にワンミス触っちゃうくらいの距離のことで、何なら後で、眠っている間に触っちゃってた恐れがあると気づいた。その疑惑にたどり着くより前、ただただ目の前の顔にびっくりして飛び起きた朝、頭が割れるように痛くて、その場にもう一回倒れたけれど何とか仲本には背中を向けた。それ以上顔を見ていたらやばかった。 「な。俺人生初の胃もたれ来た時ほんと絶望した」  目を開けたらすぐそこで仲本があぐらをかいていたこともある。あれってもしかして逆に仲本が起きたら目の前に俺の顔があったパターンじゃないの、と気づくのにまた時間がかかった。 「なにが嫌ってさ胃もたれ来ないようにセーブしてる自分が嫌よな」  時間がかかったけれどこれはちゃんと疑惑から確信に変わった。おまえかわいい顔して寝んのなと仲本が言ったので。机の上に馬鹿みたいに発泡酒の空き缶を置いて、パック酒をコップにどばどば入れて飲みながら。いや、今考えると何も家で潰れたときとは限らないか。合宿で普通に寝顔を見られたのかも。いやそんなことないか。合宿でだって結局並んで潰れてた。 「わかる。翌日しんどいのを覚悟する勇気がない」  終バスに飛び乗った仲本は振り返らなかった。バスが出ていくのを眺めながら、じゃあなあと俺は一人で言った。俺ばっか帰り楽だなあと思いながら一人で歩いた。あれ以来仲本は時計を見られる酔っ払いになった。もう走らない。走らなくていい飲み方を二人ともするようになった。だからもう長いこと酔い潰れた顔を見ていない。俺はもう床に転がったりしない。仲本だってしないだろう。冷え込む日に一人で日本酒をレンチンしたりとかは、まあするか。俺がするもんな。 「ドカ飲みドカ食いの満足がしんどさを下回るようになってきた感じあんの」  あーやべ。次また三年後だ。 「てか三田聞いてる?」  仲本がシャリキンのグラスを取って揺らした。もう半分くらいしかない。 「聞いてるよ」 「でも目ぇ据わってんぞ」 「据わってても聞こえてるよ」 「嘘くさ」 「嘘じゃないって。だって俺おまえと違っておまえの言ったこと忘れないだろ。全部聞いてるんだって」  仲本はグラスの中身を飲んで、残りの量を確かめるみたいに横から覗き込んだ。 「次俺もかち割りにしようかな」 「逆に俺シャリキンかな」 「じゃあもうちょい、残りこんくらいになったら頼むから」  仲本が右の人差し指で、グラスの底から四センチくらいのところを指すのを見た。また声が聞こえる。 「だからさっきの話の続きすんだけどさ」 「ドカ飲みドカ食いの話」 「そう。聞いてんのかよ」 「聞いてんだって」  三年もぐずつく自分が馬鹿みたいだたかが酒に誘うくらいで。  そろそろ、と俺の方から言った。また仲本が手を上げて、すいませんお会計、と言った。  手書きの伝票を店員から受け取って、仲本は腰のところに手をやった。 「俺計算するわ」  いつものことだ。いつも通り、仲本はポケットからスマホを取り出して目の前に持っていく。いつもと違って眉を寄せる。口を開く。 「三田さ」 「なに」 「部屋行ったら邪魔?」 「なに?」  顔を見ると見返された。寄せた眉を元の位置に戻して、代わりに笑う。 「終電行っちゃった」 「行っちゃったって」 「邪魔じゃなかったら始発までいさせて。床で寝るし」  頭を、それほどのことかよ、くらい下げられる。つむじを見る。ほんときれいに染めてんな。 「汚くてもいいならいいけど」 「大丈夫うちも汚い。ありがとまじで。助かる」 「まあじゃあとりあえず出よう」 「そうだな、そんで酒買って帰ろ。もうちょっといけるだろ」 「始発逃すぞ」 「平気平気」  どうしてそんな見え透いた嘘を吐くんだろう。俺がおまえの終電を知らないわけがないのに。

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