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夜に振り向く

 ふと右を向くと、並んで歩いていたはずの司がいなくなっていた。修也は足を止めて振り向いた。六歩ばかり後ろの暗がりに司はいた。薄手のコートのポケットに両手を突っ込み、顎を持ち上げて、眼鏡越しに夜空を見上げている。誰も通らない裏道だからといって真ん中に突っ立って。どうもそういうところがある。 「どうしたの」 「あれ星?」  司が指で示すので、修也はその先を見る。真っ暗の、というには灰色がかった空の真ん中に、白い点が一つ浮かんでいる。 「いや飛行機だろ」  また司を見て言う。この町を歩いていて星に気づいたことなんてほとんどない。 「そうかなあ。いやでもやっぱ、なんかやっぱり星っぽくない?」 「ぽくない? って言われても」  司は立ち止まったまま動かない。仕方がないので、修也はその点に視線を戻す。戻して見つめる。右から左か左から右か、どちらかしら動くだろう。もしくは光がはっきり点滅するだろう。  点は真っ白なまま、ひたすら空に張り付いている。 「あれ、いや、星?」 「だろー」 「いやでもだって、いつも月しか、いや、っていうかあれ、月は?」  大きく首を振って空を見回す。このくらいの時間に表を歩くといつもこちら側に月がある、と覚えていたのだけれど、どう探しても見つからない。 「月ってさ、案外毎晩見えるわけじゃないらしいよ。晴れてても」 「新月とか?」 「もあるけど、だけでもなく」  そういえば、こっちを向くと月が見える、と言ったのは司だ。二人で暮らし始めたこの町に、それなりに体がなじんだころに。 「えー、あーそう、あー、じゃあそっか、あれ星なのか」 「だから言ってるのに」 「ふーんそうか、星かあ」  修也はボストンバッグのショルダーストラップを、肩のところでシャツごと握る。別に大したことでもないのだけれど、せっかく思い出したので言う。 「昨日のさ、あっちの夜、びっくりしたな」 「びっくりしたなあ」  置いてあるものと置いている建物と両方を見たいと司が言い出した美術館は、興味のある人間にとっては相当に有名な場所だったらしい。ということもよく知らず、ただうまい魚とラーメンが食べたいと思って、俺も行く、と修也は言った。これはちゃんと修也が調べた店でうまい魚を食べて表に出て、繁華街から離れたところにあるホテルに向かって幾分歩いたところで、あ、星、と司が言った。 「だよな。だってほんと、別に言うほど田舎なわけでもなかったのに」 「なあ。でも比べたら全然見え方違うなあ」 「だって数えてたら途中でわけわかんなくなるくらいは見えた」  数えられると最初は思った。満天の星空にはほど遠い夜ではあった。数えているうちになんだか点が増えていって、手に負えなくなってしまった。  司が浅い息を吐く。そうして言う。 「見えたなあ。あー俺長いこと星見てなかったなって思ったもん」 「確かに。実家の周りはあのくらい見えた気がするもんな。あれ、うちの地元だけ?」 「いやうちも見えたよ。もっと見えた気する。星座とかも知ってたはずなんだけど全部忘れた。何十年前だかって感じだし」 「俺オリオン座以外知ってたこと人生で一回もないや」 「あ」 「なに」 「増えた」 「増えた?」 「左のあのさ、あっちの、マンション? の方」  あっちの、と言いながら司はまたどこか指しているのかもしれないけれど、修也は振り向かない。マンション、なんだろう背の高い建物の上に、さっきの白よりは暗い、けれどもしっかりとした星が見えた。 「うわほんとだ増えた」 「なあ」 「増えることなんてあるの」 「あ、また増えた。右上」  今度は右を見る。深い灰色が広がっている。 「ない」 「ないことないよ」 「ないって」 「視力何だっけ?」 「裸眼〇・九」 「俺矯正で一・二にしてるんだわ」  悔しくて、修也は目を凝らす。灰色が揺らぐ。白が微かに滲む。滲みは少しずつ濃くなって、最後に形を持った。 「うわ、わー」 「見えた?」 「見えた。何で増えんの?」 「目が慣れるんだよ」  修也は視野を、目の前の空全部に広げた。一、二、三、では効かない、けれど数えれば数えられるだけの点が散らばっている。 「慣れる」 「暗いのに。目が慣れて、見えるものが増える。って」 「増える」  一、二、三、四、五、六、七。数え終わってもいないのに、後ろにもあるかもしれないと修也は振り向いた。相変わらず空を見ている司が現れた。その姿を見るのは、どう考えたって初めてではない。だって司は、用事もないのに立ち止まって空を見上げる人だ。青空も夕暮れも、月の夜だって見る。  修也は瞬きをした。記憶の中と同じ唐突さで、司はそこに立っている。そこに視線が引っかかって、そういえば、と修也は思った。そういえばこんなに輪郭の鮮やかな人だった。特にそう、そうだ、あの、あの顎の線が。  修也は体ごと司に向き直る。司は空を見ている。  あの顎の線だ。この人を世界の中できっぱり浮かび上がらせるあの顎の線、あれが空に向かっているところに、最初に目が留まったんだった。 「え」  司は言って修也を見た。 「なに。なんでこっち見てんの」  修也は司の背後の空を指す。 「あっちにも」 「え」  司は首をひねって、修也の指す空を見た。大きな星が光っている。 「ほんとだ」  修也は頷いて、それから身震いした。 「待って、冷えてきたんだけど」  司は首を修也に向けた。 「コート着ないからだって」 「だって秋だし」 「秋用のコートっていうのがあるのに」  司が大股で歩く。修也は司の輪郭を目でなぞりながら、目の前に来るのを待つ。六歩分の距離が詰まって、司は言った。 「帰るか」 「帰るか」 「あったかいもん飲も」 「そうしよ」  修也も体を翻して歩き始める。司と二人横並びになる。修也は言う。 「数えた?」 「数えてない」 「なんで?」 「だって数えてるうちにどうせ増える」 「あーそうか」  目の前の空の真ん中に、たぶん最初に見つけた星がある。本当にどうということもない夜空だ。どうということもないのに、司が指すと見てしまう。見てしまって、見ているうちに掴めるものが増えてしまう。どうもそういうところがある、と修也は思った。

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