「俺は万々歳だが、本当によかったのか？」 「くどいな。万々歳ならいいじゃないか」 　久保は肩をすくめてから缶ビールをテーブルの上に置いた。久保は坂本の高校時代からの友人だ。小さなカフェで素朴な料理を提供し細々と営業していたが、一日の大半を客待ちに使う時間が勿体なくなった。そこで日替わりの弁当をつくり車に積んで団地に売りに行くことにした。最初は売れ残る毎日だったが少しずつ客がつき、完売するまでになった。 そのうち翌日分の予約である程度の数が捌けるようになり、完全に仕出し業に鞍替えしたのは最近のことだ。 坂本は久保の手作り弁当は需要があると踏んで助言した。高齢者に多い栄養失調、買い物に行けない不便さを考慮すれば高齢者をターゲットの中心にするべきだ。デイサービスの食事の提供を売り込むのはどうだ？団地に絞るなら玄関まで届けてやるだけで注文数が伸びないか？ 久保は真剣に坂本の提案を吟味した結果「一人では無理だ」という結論に至り、一緒にやらないかと坂本を誘った。 　ある程度の評価と成果を得ているが、好きな仕事かと言われればそんな拘りはなかった。ゲイであることを隠すため独身貴族を気取るのにも疲れてきている。そして男としての力が衰えを見せ始めていた。若い恋人を繋ぎとめておけるのはあとどれくらいか？ 　散々考えた坂本は答えを出した。新しいことを始めること、そして断ち切ることを。 「それで？待ち人は来たのか？」 　久保の質問に坂本は驚いた。色恋沙汰には鈍い男がなぜこのようなことを言うのか。 「気が付いてないのか？スマホを取りだしてはアラートランプ確認しているだろう。目当ての色が点かないからタップしていないけどな」 「……気のせいだ」 「気のせいか。普段のお前なら尤もらしい言い訳するのにな」 　返す言葉がない。何も言わずに姿を消した意味を理解できない相手ではない。それでも「もしかしたら」と考えてしまう自分が嫌だった。手放したのは自分だというのに。 「もっと甘えてもいいんじゃないか？」 「甘える？馬鹿馬鹿しい」 「あのな。歳をとると若者より臆病になる。身体も弱る。積み重ねたプライドを優しさに変えるんだよ。その方が生きやすい。今の俺だってガツガツ儲けよう、有名繁盛店になるなんていう夢はみていない。できるだけ身体によくて安心できるものを食べてほしい。それが俺のモチベーションだ。飛ぶ鳥を落とす勢いのヤツから見れば情けない甘えたモチベーションだと言われるだろう。でもいいだろ？優しさにプライドを持つ男や臆病だって認める４０男がいたってさ」 　久保はそう言って柔らかく微笑んだ。坂本はそういう答えを出せないから逃げ出した。 そんなはずはない。疲れていただけだ。しかしそのすぐ後に考える。またダメだったら？ずっとダメだったら？ 　触れたくて仕方がないのに、それと同じくらい恐怖が雪崩れ込んでくる。このままだったら？また同じことになったら？ 「優しいという意味がわからないが臆病なのは理解できるよ」 「だったら甘えてみろよ。自分のプライドより大事なんだろ？大事な存在がさ」 　ふうと漏れる溜息。年上であること、この道に引きずり込んだこと。自分の気持ちと身体と心。求めているものはわかりすぎるほどだが手を伸ばせない。自分のためではない、相手のためだ。年上である自分が最後にできることは手を離してやることだ。 　坂本は無意識にポケットを探ろうとしている右手を止めた。諦めろ、今更だ。そう自分に言い聞かせながら。