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第58話 達也サイド<副社長夫人の義務>

 その夜はお風呂に入ったら、そのまま寝てしまった。 もう透真さんの相手は出来なかった。 そして翌朝。昨日の英語の件でちょっと気が重くなっていたところへ、来客があった。 年配のにこやかな男性だった。 「紹介するよ。松永家の執事の田中紘一さんだ」 「初めまして。達也です。どうぞよろしくお願いします」 「はい、初めまして。こちらこそ宜しくお願いします。透真様、美貌の奥様ですね?」 「へへへ、いいでしょう?」 誰に自慢してるの……? もう恥ずかしいよ。 「達也ね。実はもう一つお願いがあるんだ。 これから対外的に多くの人に会うことになるから、事前に少し勉強が必要なんだよ。 だから田中さんに来てもらったんだ。 これからはしょっちゅう来てもらうから、頑張って覚えてくれる?」 背中にたらーっと冷や汗が流れた。 (俺の頭で、そんなに覚えられるわけないでしょう?) 「何を覚えればいいの?」 「まず会社の沿革だね。それと取引のある銀行や会社関係。 それから海外の支社や、その国の歴史や経済、地理、政治……そんなところかな」 「……」何も言えなかった。 「聞いてる? 一度に覚えなくても大丈夫だよ。少しずつでいいからね。 でもこの半年くらいで沿革は知っておいてほしいんだ。 アニメプラスにも、なるべく午前中は予定を空けてもらうようにお願いするからね」 「……」 「不安ですか?」と田中さんが優しく声をかけてくれたが、俺は小さく頷くことしかできなかった。 正直、泣きたくなっていた。 「あの、俺の仕事は出来るの? ダンスとかボーカルとか、歌の仕事は続けられるの?」 「うん。もちろんできるよ。 ただ、最初の半年間はちょっと頑張って覚えてほしいんだ。 そうしないとパーティーで大勢の人と会うときに誰が誰だか分からないだろうし、 下手な話もできないんだよ。 向こうはうまいことを言って取り込もうとするからさ。 ちゃんと力関係を知らないと、ドツボにハマっちゃうんだよ」 「……俺に、何の力もないのに?」 「うん。副社長夫人が言ったとか、約束したとか、 賛成したとか言われかねないんだよ」 「……」もう何も言えなかった。 ただただ、悲しかった。 「達也様、簡単なことから始めますよ。 いきなり覚えなくてもいいです。 なんとなく聞き流してください。それで十分ですから」 田中さんがフォローしてくれたけれど、 これでは「嫌だ」なんて言えないじゃないか。 強制的だよ。 俺の頭にそんなに入るわけない。 高卒なんだよ。 それに学校時代は授業中もいろんな歌詞を覚えるのに必死だった。 英語だってろくに分からない。どうするの? 「では、次回からにしましょうか? 今日はこのまま失礼しますね」 田中さんが帰っていくと、 俺は走って寝室に向かい、ベッドに飛び込んだ。 布団を頭から被って泣いた。 理由なんて分からない。 ただ、どうしようもなく悲しかった。 後で透真さんがやってきて、ベッドに腰掛けた。 「達也、ごめんね。びっくりさせちゃって。 もっと早くから言うべきだったよね……結婚したこと、後悔してる?」 ずばり聞かれた。でも今は何も言いたくない。 ただ泣いた。悲しくて、悲しくて……。 透真さんが、そっと寝室を出て行った。

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