59 / 72
第59話 夏輝サイド<根性の人>
甘い結婚休暇中の松永副社長から「個人的な相談がある」と連絡が入った。
「今頃? なんだろう」桐生さんも不思議がっている。
社長室に現れた松永副社長は、がっくりと肩を落としていた。
「一体どうしたんですか? まだ新婚じゃないですか」と桐生さん。
「そうなんですよね。本当に達也には悪いことをしてしまいました。
今、ベッドに潜って泣いています」
「ええっ? 何があったんですか?」二人で顔を見合わせた。
「実は英語の勉強と、対外的に必要な会社の沿革、
海外支社の情勢、経済や政治などをこの半年の間に、
勉強してくれないかと頼んだんです。
講師には実家の執事に来てもらいました。
英語はどうしても必要なので家庭教師もつけるつもりです。
でも急に両方の話をしたので、
今後音楽の仕事ができるのか不安になったらしくて……。
勉強がプレッシャーになっているのは分かっているのですが、必要なんです。
相談というのは……今後半年間、午前中は勉強に当てて、
歌の仕事は午後に回せないかと思いまして」と副社長。
「はあ……なるほど。それはちょっときついですね。
必要なのは分かりますが、達也は高卒です。
しかも13歳から6年間新聞配達をしていたんですよね?
あれって年齢的には放課後から夕刊配達とチラシ折りとかで、20時まではやってたと思います。
土日も夏休みも、日中の午後はチラシ折りがあるようですからね。
身体を休める時間もあまりないですから、勉強する時間も大してなかったと思いますよ。
少しでも時間があれば、ダンスや歌で自分を慰めていたと思うんですよね」と桐生さん。
「そうですね。そういう生活だと、勉強する習慣までは無理でしょうねえ。それでもよく高校を卒業しましたよ」と俺。
「どうしたらいいんでしょうか? もう離婚されそうな気分です」
松永副社長はひどく落ち込んでいた。
「時間の方はなんとでもなりますが、
達也を少しプレッシャーから解放してやらないと、
今後は音楽にも身が入らないと思います」と俺。
「じゃあ、こっちで対策を考えます。
ちょっと達也を連れて来てもらえますか? 話してみますので」と桐生さん。
「はい、分かりました。では明日の午前に連れてきます。よろしくお願いします」
そう言って彼は帰っていった。
「かー、どうしよう、桐生さん」
「いや、すぐにアイデアは湧きませんよ」
「だって桐生さんは塾なしで東大に行ったんでしょう?
なんか方法があるんじゃないの?」
「俺はねえ。中古の本屋に行って歴史の漫画本を買ったり、
年号なら語呂合わせで覚えたりしていましたよ。あれって結構忘れないんですよね」
「そうなんだ。俺はどうだったかなあ……。
大学受験のときは文学部だったから楽勝だったけど、1年で辞めて医学部に受験する時は死ぬ思いでしたよ。
奇跡の合格をしてもビリだったので、北原総院長の家に下宿して、毎晩勉強を6年間見てもらいました」
「ほう……それは並大抵の献身じゃないですね。院長の愛情を感じますね」
「えへへへ。そうかな?」
「でさ、達也の勉強は大学の専門課程みたいな、高度な内容じゃないんだよね?」と俺。
「そうですよ。多分、語呂合わせ的なもので間に合うんじゃないですかねえ」と桐生さん。
「あ、歌にすればいいんじゃない?
英語も普段の会話なら、そんなに難しい言葉は使わないもんね」
「そうですよ。ただ、相手の発音が聞き取れないと意味がない。
だから聞き取りと発音の練習をした方がいいですよね。
フィリピンの方とか、みんなどんどん英語を喋りますからね」と桐生さん。
「そうだよ、あれは不思議だよね。インド英語とかも。面白いよ」
そして翌日、副社長に連れられて達也がやってきた。
がっくりとうなだれていて、目を赤く泣きはらしていた。
「達也、元気出して。抜群にいい方法があるからさ」
俺が励ますと、達也が少しだけ顔を上げてこちらを見た。
「桐生さんと相談したんだけどね、何も難しいことじゃなくていいんだよ。
ラップか、童謡か、演歌でもなんでもいいからさ、
習ったことを全部替え歌にして歌ってみて。
ついでに踊りながらやれば身体で覚えられるでしょう?」と俺。
「そうだよ。英語の日常会話って、そんなに難しい言葉は使わない。
試験勉強じゃないんだから、難しく考えなくていいんだよ。
幼稚園の子供だって英語で話せているんだから」と桐生さん。
「そうでしょうか?」と達也。
「そうだよ。半年間は午前中にその替え歌やダンスをやって、
午後はアニメの歌や踊りのレッスンにする。無理はしなくていいよ。
それでゆる~くやっていけばいいんじゃないの?」と俺。
「それでいいんですか?」と達也。
「うん、いいよ。長い人生のたった半年間だもん。
せいぜい英語でラップでもできれば最高だよ。特技になっちゃうよ。
どっちにせよ、英語は歌にも必要だからね。
歌詞にも出てくるし、何も無駄になることはないんだよ」
「はい、分かりました。よろしくお願いします」
副社長がホッとした表情で、達也と帰っていった。
「あれで大丈夫ですかねえ?」
「大丈夫だよ。達也なんて根性の人なんだからさ、絶対にやり遂げるよ」と俺。
ともだちにシェアしよう!

