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五 懐柔

 水曜日にその事実を告げられ、村上の週末は、無情にもすぐにやってくる。  ──嫌っていう話ではないんだ。  村上は土曜のアポをこなした夕方、夜までを行きつけの喫茶店で時間を潰していた。  オーダーしたコーヒーに口を付けながら一日の報告書をまとめる。  けれど心はうわの空で、タブレットに入力する手が全く進まなかった。  ──込童先生のことは……でも、捨てられたばかりの今、もしも今度付き合って、また捨てられたら……二度と立ち直れる気がしない。  はあ、と、溜息をつく。  暗闇で伸ばされた込童の指先や、抱きしめられた腕や、うなじに降り注いだ唇──その感覚を思い出すだけで、村上の身体にぞくりと快感が走り抜けた。  ──もうずっとしてないな……。  村上は両腕で自分の身体を抱き竦める。  正直、今夜誘われたら絶対に断れるという自信はまるでなかった。  自分はこんなに好色だったろうか? と、情けない気持ちになる。  ──逃げたい。  けれど、立場的にそれは絶対に出来なかった。今期目標売り上げを落とせば、三期連続で成績を落とし続けている村上が、来期に首を切られるのは確定している。成績不振でクビになった営業マンが新たに職を求めたところで、手が届く仕事はブラック企業ばかりだろう。  イエスと言ってしまうことは簡単なことだ。仕事も上手くいくし、抱いてももらえる。  けれどそれは一時的なことでしかない。  あの性格の込童が本気だとはとても思えないし、ましてや生涯の伴侶を探しているという訳でもないだろう。  村上が欲しいのはセフレでもワンナイトの相手でもない、生涯を共に出来るベターハーフだ。   仕事の成績だって、この大型案件を導入したら込童の病院も当分の間は発注しないだろう、来月も受注を受けられるはずがない。  ──いや、先を考えるのは後だ。今は選択肢がないのだし、助け話と思ってここを公私ともに乗り越えれば……。  明るい未来が開けるとは、村上にはとても思えなかった。  ため息が出る。  そろそろ、約束の時間だ。  冷め切ったコーヒーを飲み干すと、村上はタブレットに向き直り、今日の報告書を仕上げることにした。  黙々と書いて時間になんとか間に合った村上は席を立ち店を出る。  地下鉄に乗って待ち合わせの改札につけば、上司と込童が楽しそうに談笑していた。 「すみません、遅くなりまして」  改札を出た村上は二人に駆け寄ると、そう言って頭を下げる。 「いえ、我々が早かったんですよ、ねえ、野田さん」 「早めに社を出たもので、込童先生がいらしてて良かったですよ、おかげで退屈せずに済みました」  込童と野田はこの短い間に、随分と打ち解けたようだ。  村上は若干の居心地の悪さを感じながら、野田の案内する店へと向かう。  上司と込童は並んで談笑を続けており、一人蚊帳の外になった村上は後ろを着いて歩きながら所在なげに視線を泳がせた。  ──あの身体に抱きしめられたのか。  込童の背中をぼんやりと眺めていると、ふいに彼が振り返る。 「? どうしました?」 「え、いえ……い、良いコートですね……」  しどろもどろになる村上に、込童は微笑みかけた。 「銀座にフルオーダーの店がありましてね。今度、紹介しますよ」 「ありがとうございます」 「村上、がんばれよ、この成績が続けば夏のボーナスだって期待できるんだからな」 「はあ、がんばります」  覇気のない村上には構わず、野田は話を続ける。 「込童先生が和食をお好きと伺いまして、今夜はこの店にしました」  野田が予約していた店は、バブルの頃に盛況を極め、その後も潰れることなく生き残った料亭だった。その豪奢な佇まいに、未だにこんな店があるのかと村上は驚いた。  仲居に通された座敷は八畳ほどで、上座に込童を座らせ、村上と野田は並んで卓に着く。  続きの間でもあるのではと一瞬身構えたが、床の間があるばかりで、隣室は繋がってはいなかった。  ほっとしつつも何処か残念な自分に気づいて村上は首を振る。 「どうした?」  今度は野田に怪訝な顔をされ、村上は力なく笑ってその場をごまかした。 「料理はコースです。きっとご満足いただけると思いますよ」  野田は手際よく仲居に酒を頼み、料理が運ばれ始める。 「込童先生、この度はお引き立て頂き誠にありがとうございます」  込童と野田は銚子を傾け、飲めない村上も献杯だけは頂戴した。 「いえいえこちらこそ、村上さんには大変よくサポートしていただきまして、立て板に水という訳ではありませんが、実直な営業に心打たれました」  込童はそんなことを言いながら、村上の手の中の盃に銚子を差し向ける。 「あ、どうも……」  やむなく受けて、村上は二杯目の日本酒を呷った。  高い酒なのだろう。良い香りがして、酒の苦手な村上でもするすると入った。 「美味しいですね……」  素直に感想を述べると、銚子がまたこちらへ来た。  三杯目を空ける。  盃はそう小さい物でもなく、くらりとした酩酊感が、早くも村上を包んだ。  空腹に立て続けの三杯は、村上にはきつかったようだ。  薄らと赤らんだ顔の村上に、込童が満足げに微笑みかける。 「ああ、美味しいですね。僕も気に入りました」 「そうですか、仲居に言って一本お持ちさせましょうか?」 「いいですね、お願いします」  二人はそんなことを話ながら、料理が進む。 村上は回り出した酒に抗いながら、時折差し向けられる酒を必死に呷って時を過ごした。 幸いなことに酒宴は野田と込童が話に花を咲かせており、村上は大人しく話を聞いて頷いていればそれで済んだ。  接待が苦手な村上を、野田が庇ってくれているのだ。  ──課長に感謝だな。    おかげであまり込童と目を合わせないですんでいる。村上は気を抜いてふうと長い息を吐いて込童を眺める。  その吐息を聞きつけてこちらを向いた込童と、目が合った。  込童に微笑まれ、村上はつい素の笑顔を返してしまう。    ──酔っている。  村上にはその自覚はあった。  けれど込童が、うっとりと色気を乗せた視線を寄越してきたので、村上は慌ててその笑顔をしまい込む。  苦笑しながら込童が村上に声を掛けた。 「村上さん、大丈夫ですか? あまりお強くないとは聞いていましたが……もう一合は呑まれましたね」  呑ませた張本人が、しおらしく謝って村上の顔を覗う。  既に真っ赤な顔の村上は、もう一度酒精を含んだ吐息をついた。 「そんなに呑みましたか?」  村上は驚いた声を上げ、それからクスクスと楽しげに笑った。 「初めてです。こんなに呑んだのは」  どうやら悪酔いはしていないようだ。  やがて食事も終わり、三人は席を立つ。  村上は案の定千鳥足で、よろめいた身体を、野田に支えられた。 「村上、大丈夫か?」 「はい……」 「いや、そこでハイと返事をする奴で大丈夫な奴はいないぞ」 「村上さん一緒にタクシー使いましょう」  込童は、そう言って野田から村上の肩を引き寄せた。 「え?」  酔った頭で、村上は聞き返す。 「さっき野田さんに聞きました。帰る方向が僕たち同じようです」 「え? そうだったんですか? 村上と?」  野田は込童の意外な申し出に恐縮しながら、ほっとした顔で村上をゆだねた。 「助かります、自分は遠距離通勤なもので、彼を連れて帰ることもままなりません」 「わかりました。それでは野田さん、お気をつけて」  にっこりと微笑んで、込童は野田を見送った。  その姿が見えなくなると。 「村上さん、分かってるんでしょう?」  込童は肩を抱いている村上に声を掛けた。 「嬉しいな、僕の誘いに乗ってくれて」  ふわふわとした頭で、村上が答える。 「仕方ないじゃないですか。ぼくに選択肢なんてなかった……」  諦めきった村上は、ぐったりと込童の肩に頭を乗せた。 「それにしても酷いです、こんなに呑ませるなんて」 「だって、酔っていく村上さんがあんまり可愛かったから……僕の盃を受けてくれたと言うことは、そういう事で良いんですよね?」  村上は今度は答えずに、こっくりと一回、頷いた。  

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