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第3話 キス
立ち尽くしたままその男を見ていると、不意に父が口を開いた。
「好きに使え」
父はそれきりだった。しかし政宗は動けなかった。
だれが? なにを? どういう意味で?
なにを求められてるのかわからず、父の言葉がただ頭の中で繰り返される。改めて父を見るが、父はただ壁を黙って見ているだけだ。声を出そうとして、しかしどう言っていいか、政宗は言葉に詰まる。男と目が合う。数秒、観察するような目が見つめられて、政宗は咄嗟に目をそらす。
「……しないの?」
そんな柔らかい声がしたかと思うと、瞬きを二回した男が心配そうな顔をしてベッドから降り、素足のままこちらへ迫ってくる。やけに整った顔が、均整の取れた体の上に乗っている。耳には左右非対称についた、いくつものピアスが光を放っている。なにも隠されていない下腹部に自然と目が行くが、当然そこにはなんの衣類も纏ってはいなかった。状況がよくわからず、政宗は狼狽えた。そのあいだに真っ直ぐすぎる目線が近付いてきて、こちらを覗き込む。
整った顔だった。思わずじっと見つめてしてしまうくらいには。
けれど綺麗だとか美しいだとか、そういう感想はすぐに頭から消えた。違和感の方が強かった。肌には傷も髭の剃り残しもない。艶のある黒髪は手入れが行き届き、唯一彼を装飾しているピアスだけが妙に目を引く。
雑誌の表紙に載っていてもおかしくない顔だった。なのに、生きている人間を見ている気がしない。展示ケースの中に入れられた高価な人形をそのまま部屋の外へ出したような、そんな奇妙な感覚があった。
濡れた漆黒の瞳に、白い部屋の光と、マスクを付けた政宗のスーツ姿が歪んで映っている。はっと息を吸うと、彼の頬がほどけるように緩んだ。
距離が、近い。
「ちょっ」
彼の肌の上で熱せられたわずかな温度をスーツ越しに感じ取り、政宗は慌てて距離を取る。
男は不思議そうに首を傾げた。
「初めて?」
「は?」
「そういう顔してる」
男は不思議そうに瞬きをした。
「大丈夫、おれに任せて」
「な、にを」
意味が分からなかった。問い返した瞬間、男の視線が政宗のスーツを上から下までなぞる。なにかを確認するみたいに。やがて、頬に手が添えられる。掌の熱を感じて、反射的に肩が跳ねた。
「っ」
そのまま顔が引き寄せられる。男の目が閉じられる。
暗闇を感じた瞬間、なにか柔らかいものが唇に軽く触れた。
一瞬の出来事だった。
呼吸が止まる。
男がわずかに離れる。ふわりと目が開く。ただ目を開けただけなのに、花びらが開くみたいな、優しくも怪しい動きだった。
……キスだった。
それも、人生で初めての。
男は距離を離しもせず、静かに政宗を見ていた。接触は最低限のはずなのに、絡みつかれている感覚がする。洞々とした黒い瞳を見ていると、吸い込まれそうになる。
「……ふ」
唇が綺麗な弧を描き、小さな笑い声が上がる。
彼の指が、政宗の頬から肩にかけてのラインをなぞる。その先でなにをしようとしているのか、想像した瞬間、ようやく体が動いた。
政宗は咄嗟に逃げるように体を仰け反らせ、その勢いのまま後ずさる。一歩引いた瞬間、腰を抜かした政宗は尻もちをついた。それでも今しがた来た道を引き返そうとドアの前で這いつくばるが、ドアノブが見付からなかった。触っても反応しなければ、カードリーダーや認証パネルもない。内側から開けるための設備がないことに、政宗は違和感を覚える。振り返るが、父は相変わらず怜悧な目つきで政宗を見ている。男は政宗を不思議そうな目で見ているだけだった。
どうして、誰もなにも言わない。
「……っ、だ、誰か!」
焦った政宗はドアを叩く。その後ろで、父のため息が聞こえた。
「次だ」
父がそう言うと、どこからともなくカチ、というロックの解除音が聞こえた。自動ドアが政宗の目の前でスライドする。政宗が呆然としていると、父が先に部屋から出る。政宗は慌てて追いかけた。
ドアが閉まる直前つい後ろを振り向くと、政宗に気付いた男がぺこりと頭を下げた。
旅館を後にする時の女将のような、そんな頭の下げ方だった。
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